【第3部番外】妊婦と主治医
スピカがアウストラリスで安定期を待って療養中の話。ジョイアにて、シリウスとイェッドのひとこま。
僅かな黄が庭の木々に混じっている。視線を下ろして確かめても、真夏の日差しに疲れた芝の上に、やはり黄色く色づいた数枚の葉が散っている。もう夏は終わる。そしてあと少しすれば、落葉も黄だけでなく赤や茶、色とりどりとなり、中庭の地面を埋めることになるだろう。
オリオーヌの稲もそろそろ穂を重くして頭を下げているに違いない。刈入れが終れば収穫祭。それもまた楽しみだが、さすがにこの頃の仕事量を考えると、何度も宮を空けるわけにはいかない。
(火祭りだけでも我慢すべきか。アユの時期ももう終わるし、新米はすぐに宮にも納められる――まあ、わざわざ帰ることも無いか、帰れば五月蝿いのが多いから)
「ねえ、スピカが帰って来てからのことなんだけど、主治医は今まで通りイェッドで構わないんだっけ?」
外の景色に見とれつつ、故郷に想いを馳せていたイェッドは、それが自分に対しての言葉だとしばらく気が付かなかった。皇子がこちらを見ているのを知り、イェッドは「ああ」と僅かに眉を上げて、頭に浮かんでいたオリオーヌの秋の味覚を追い出す。
「私の専門はご存知でしょう」
皇子は頷く。
「ああ。でも、主治医は同じ方がいいかなとか思ってて。互いのことも聞けるしさ。もちろん産婆は別に付けるけど」
彼女のことであればなんでも知りたいのだろう。始まったばかりの彼の部屋の改装工事を思い出してため息をつく。遠回しに遠慮したけれど改装後の完成予定図を見せられた。感想を問われたけれどあまりに自信満々なので何と答えていいかと悩む。あれではプライベートなどあってないもの。相変わらず後追いをする子供みたいだと思う。自分で自分の首を絞めていることにも気が付かない彼を馬鹿げていると鼻で笑いつつ、イェッドは頷いた。
「別にいいですよ。殿下さえよろしければ」
仕事が増えると本を読む時間が減るなと思いつつ、彼女との会話も皇子とは別の意味で楽しいものだったと思い出す。
「僕? 僕は構わないけど」
のほほんとした皇子の笑顔からはようやく毒気が抜けるようになって来ていた。今まではスピカ様がいなければ力の調整が利かなかったようだけれど、さすがに鏡を手に入れて一年、彼女がいない時は〈正規の方法〉で力の制御を行うことを覚えているようだ。彼女がいる時は当たり前のように裏技を使うのだが。その辺の情報はレグルスの愚痴から得ているのだけれど、この頃は別の方面から手に入れることもしばしば。
情報の源となっているだろう、一人の女性を思い浮かべると、イェッドは軽いため息をつく。頭の痛い問題だった。せっかく静かに過ごせそうだと思っていたのに、皆子供のことが決着して、ようやく自分のことも考えられるようになって来たのか、あちらこちらで枯れかけていた花が水を得て綻び始めようとしているらしい。一悶着ありそうで面倒だった。自分が巻き込まれないことを祈るばかりだ。
「ところで、診察ってどんなことをするんだ?」
ふいに殿下は興味を持ったらしく、にこにこしたまま尋ねて来る。頼む前にまずそこを聞けよと思いつつ、イェッドはふと思い立ってさらりと〈産婆の診察方法〉を答えた。
「触診です」
「しょくしん?」
「触って、診るのです」
そのままだと思いつつ言うと、笑顔が固まる。彼は引きつった顔のまま心細そうに尋ねた。「……お腹を?」
腹の底から沸き上がる笑いを抑えて、必死で涼しい顔を保ちつつ、イェッドは産婆である母親のオルガがやっていた診察内容を皇子にとても詳しく説明した。
数日後、宮に新しくイェッドの姉――フィリスが派遣されて来た。知っている顔の方が安心するだろうと、産まれるまでの期間限定でと頼み込まれたそうだ。予算はどこからか捻出したらしい。その件について皇子からは何の説明も無い。会っても絶対にその話題には触れずいつも通り過ごしている。涼しい顔の下、内心の葛藤を想像するとひと月くらい笑えそうだった。だから多少面倒でも側近をなかなか辞めることができないでいるのだ。
彼女は会うなり、引き継ぎをとイェッドに促した。姉弟であるから挨拶も遠慮も皆無だ。
「では毎朝の検温と問診だけでいいのね?」
イェッドは頷く。
「それだけの為に雇って頂くのは心苦しい気もするけど。あんたがやればいいじゃない」
「皇子の〈心の健康〉の為でもあるから、気にしなくても良い。それに実のところ忙しいから助かるし、オリオーヌでは人手が余ってるから丁度いいだろう」
イェッドは淡々と答える。父母が現役の間は姉は正直余っている。宮で修行するいい機会だし、彼も読書の時間が確保できる。そう付け加えると、
「なんであんたはそんなに傲慢なのよっ」
姉はかなり不機嫌そうに診療録を見つめていたけれど、ある一点で視線を止めると大きく目を見開いた。
その診療録は、アウストラリスのシトゥラ家から送られて来たもの。『今はまだはっきりとは言えませんが――』そう前置きされていたけれども、あちらの主治医の見解が書かれていた。
「もしかして、スピカ様」
「かもしれない」
イェッドはそうであればいいと思う。彼は、母親の職業柄、幼い頃は子供の世話をよくやったものだ。そのせいもあって、皇子をあやすよりもルキア様をあやす仕事の方がもう少し増えてもいいと思っているくらいには子供が好きなのだ。
「殿下も……また我慢の日々が続くようね」
フィリスはそう言うと何かを思い出したように苦笑いを浮かべる。
皇子はどう思われるだろう。さらに母親争奪戦の競争率が増える訳だけれど、今度こそ父親の顔で、あたたかく子供を迎えてやれるだろうか。
(まあ、大丈夫だと思うが)
あの件で彼は立派に成長したはず。しかし、あの執着ぶりを診ているとまだいささかの不安があることは否めない。自分が四番目だとめげなければ良いが。
「後半年か。――また騒がしくなりそうだ」
イェッドはフィリスにそう言うと、外を見る。そして色づき始めた庭の木々を愛でた。
〈妊婦と主治医 了〉




