【第3部番外】妹の想い人
「皇子、ミルザ姫がいらっしゃいました」
「通してくれ」
イェッドが扉を大きく開くと、ミルザがにっこりと笑いながら入室してくる。
久々に顔を見たいと控えめに申し出があったのは、つい昨日の事。シャヒーニ妃が亡くなったあと、傍で支えてあげたかったのに、僕は自分の事で精一杯でずっとそれどころではなかった。アウストラリスで全て片付いたかと思ったけれど、結局ジョイアに帰って来てからもドタバタしていて、そんな時間をとる事が出来なかった。
ようやく顔を見れてほっとする。そして変に痩せたりしていないのもほっとした。きっと父や叔母さまたちがちゃんと気を使ってくれていたのだと思う。
彼女はプラチナの髪を今日は一つに長く編んでいた。丸かった頬がほんの少しだけ柔らかさを失い、その姿が少し大人っぽく見えて、感心する。そうか、ミルザももう14だもんな。
──女の子はいつの間にかきれいになるからなあ──そんな言葉が思い浮かび、それを誰が誰に向けて言っていたか思い出して、苦笑いする。
「お兄さま、お久しぶりです」
「ああ、ほんとうに放っておいてすまなかった。元気そうでよかった……そこに座ってくれ」
サディラが菓子と紅茶を差し出すと、ミルザは一つそれを受け取り、微笑んだ。
「お兄さまもお元気そうで。スピカは——いえ、スピカ様はどんなご様子ですの?」
先日、たくさんの荷物とともに正式にアウストラリスからの書状が届き、スピカのことを平民だとあざ笑うような人間はまったく居なくなった。どちらかというと賓客扱いしなければならないことに、皆少なからず戸惑っていたりする。ミルザもスピカの身分が無い状態に慣れていたのだろう。すぐには対応できないようだった。スピカはきっとこのよそよそしい状態を嫌がるだろうな、そんな事を思いながら頷く。
「──うん。安定してるみたいだ。来週迎えに行って来るつもり。今度は様子を見ながらでも絶対につれて帰って来るよ。この間はそれで随分後悔したからね」
ミルザはきょとんとした。
「お兄さまが迎えにいかれるのですか? わざわざ?」
「……」
僕は何も言わずに頷く。名目は何にしようかとまだ悩んでいる最中だった。まあ、こじつけでも何でも今回は絶対に行くつもりだけれど。
「皇子は一刻でも早くお会いになりたいのですよ」
ルキアがテーブルの菓子を目がけて這って来て、サディラがそれを追いかけつつにっこりと言う。僕も否定はしない。今更だ。
「ルキアも待ってるしね」
ルキアはテーブルにつかまり立ちをすると、すごい勢いで堅い焼き菓子を掴んだ。
「まー、まー」
「ルキア様、まだそれは無理でございます」
サディラが菓子をルキアの手から取り上げている。既に歯形のついたそれを僕は受け取ると、代わりに小さなおもちゃをルキアに持たせ、機嫌を取る。しかしルキアは不満そうに菓子に手を伸ばし続ける。少し齧ったところが甘かったらしい。本当にすぐに美味しいものを覚えてしまうから、油断できない。
ミルザはそんな様子を眺めながら、ぼそっと呟いた。
「そう言えば、わたくしも叔母なのよね……まだ14なのに。そしてお兄さまはもうすぐ二人の子の親」
「……ま、まあね」
17にして二児の父ってのは、さすがに予定外だった。僕はもっとスピカと二人でゆっくりと夫婦生活を楽しむつもりだったし。にぎやかでいいけれど、やっぱりせめて一年くらいは……楽しみたかった、かも。
「いくら正妃にと思われていても、ちょっと急ぎ過ぎではございませんこと?」
「…………」
妹にその辺をつつかれるとどう返して良いか分からない。……っていうか、ミルザはそういう知識があるのだろうか。僕の場合は特殊でそういう事は無かったけれど、普通皇子には、若い部屋付きの侍女が〈教えてくれる〉らしい。僕の部屋付きの侍女が結局ずっとセフォネだったのは、僕がその習わしを嫌ったからで。スピカが侍女として宮に居た頃、叔母やレグルスが部屋付きにすることを大反対したのはそういう理由もあった。つまり、まあ、スピカを部屋付きにしたがった本当の理由が彼らにははっきりとバレていたという事(まぁ、自分でも分かりやすいとは思っていたけど)。
だけど、皇女の場合はさすがにどうなってるのか見当もつかない。普通はどうなんだろう。……スピカは15の頃……あぁ、比べちゃ駄目か。彼女の場合は、知らなすぎたからな。
すぐに浮かび上がってしまうその面影に、どうしても頬が緩んでしまう。
「お腹のお子──もうどっちか分かるのですか? わたくしの侍女が言ってましたけれど、お腹が前に大きくなると男の子、横に大きくなると女の子などとよく言われるのですって」
「まだ四か月だし、そこまで大きくなってないから分からないよ」
そう言いつつ、手紙でスピカが『なんとなく、女の子かも』って書いていたのを思い出す。彼女の勘はただの勘ではないし、案外当たってるかもしれない。娘か、……娘もきっと可愛いだろうな。
「今度はお兄さまに似るといいですわね」
ミルザはいつの間にかルキアを膝に抱えていた。ルキアもその若く美しい〈叔母〉に抱かれて嬉しそうだ。プラチナの髪を軽く握ってニコニコしていた。
「うん、まあ、そうだけどね」
何をどこまで知ってるか分からない発言に僕は苦笑いする。まあ、でも、僕らの間にあった事を知らないからこそ言える言葉ではあった。
「お兄さまもわたくしも……お父さまに似なかったから。周りの侍女が陰で言ってたのです。『実のご兄妹では無いかもしれません』と。今思えば、母の嘆きをどこかで聞いていたのでしょうね。わたくし、それを聞いていたから、……〈昔〉は子供っぽい夢を見ましたわ」
「……うん」
彼女の発言や態度を思い返すと、確かにそうだったのかもしれない。今ならそう腑に落ちる部分もある。彼女の異常な執着や、義母が亡くなったときの寂しげな、でもどこか匂うような顔。彼女はあのとききっと「抱きしめて欲しい」と訴えていたのだ。
父が母の潔白を公に証明してから、彼女の僕を見る目から完全に〈女〉が抜けた。それはルティが真実を知り、スピカを改めて見た時の目によく似ていた。ミルザの場合は──もともとの期待が小さかったせいか、彼ほどの痛々しさは無かったのだけれど。
思い出すと胸が痛かった。ライバルであったとしても、散々な目にあわされたとしても……彼の気持ちはよく分かったから。
小さくため息をついて、ミルザに視線を戻すと、彼女はいつも通りに〈妹〉の顔で微笑んでいた。
「お兄さま。わたくしに良い縁をご紹介くださいね。──そうだわ、あのルティリクス王子、まだお妃はいらっしゃらないのでしょう?」
「──……! うあ、ええっと」
すごい方向転換にぎょっと目を剥く。
「あの方、王子だったのですね……。そして〈妹〉のスピカをアウストラリスへ取り戻そうと潜入をされていらして。お父さまもお兄さまも人が悪いですわよね。〈身分を隠して〉ジョイアに〈ご遊学〉されていたなんて……そんなのわたくしに通用するとでも思って? いつまでも子供扱いで何も話して下さらないんですもの」
彼が一時期僕の側近として宮に居た事は、大部分でもみ消し、もみ消せない部分では〈表向き〉そういう事に落ち着いた。もちろん裏の事情を知る者も、ミルザをはじめ貴族達の中に多く居た。けれど、国の奥深くまで侵入したアウストラリスの王子、そしてそれを許したジョイア──これから友好関係を築くにあたって、ジョイア国内であまりいい印象は与えない。その上、国外に知られるのは、ジョイアの内部の脆さを公表しているようなもので──。僕とスピカの結婚で全てが落ち着こうとしている今、皆が皆、大人の事情でその辺には目を瞑っていた。
まだ幼いミルザには分からないかもしれない。彼女は子供扱いを拗ねるけれど、そうするしか無かった。ミルザに話せないのは、それだけが理由じゃなかったから。彼女の母が罪を犯したのは、ルティが囁いた一言のせいだと知らせる事は、彼女をひどく傷つけるに決まっていた。要らぬ恨みの種を彼女の心に植え付けてしまうに決まっていた。──僕にはそんなこと、出来なかったのだ。
──だからこそ、その熱の籠った目はまずいと思う。
「あのね、ミルザ」
「なんて素敵な方なんでしょうとは思っていたのです。あ、でもあの当時はお兄さまが一番でしたし、そのあとも身分違いの恋なんて、わたくし考えもしなかったの──お兄さまとスピカを見てるだけで十分きつかったのですもの。でも、王子、王太子であれば……」
「み、るざ……ええと、彼は、止めておいた方がいいと……」
それは、かなりいろんな意味で。
「ルキアのお披露目でジョイアへいらっしゃるのでしょう? お兄さま、今度は正式にご紹介くださいますわよね? ほら、もしそういう事になれば、より結びつきが強力になりますわ」
「……………」
だめだ。これは。今はまったく話が通じない。
僕はミルザの少女独特のキラキラした瞳を見て、頭を抱える。アイツがミルザを相手にするとは思えないけれど(さすがに7歳の歳の差は……犯罪だ!)、彼女がルティに興味を持つ事で、彼と義母上のことが彼女にバレるのを考えると、妙にハラハラした。
そして、後ろからぼそっと聞こえる、
(ふぅむ……ルティリクス様が義理の兄で、義理の弟ですか)
というイェッドの恐ろしい囁きに、思わず飛び上がりそうになる。万が一そんな事になったら──僕の人生、かなり悲惨な事になりそうなんだけど!
そう思いつつ、その半分は確定している事に、今さらだけど愕然とした。えぇ? ──ルティが義兄だって!?
さらに抱えてしまった頭をガシガシと掻いて、顔を上げると、ミルザはうっとりとした顔で天井付近にはめ込んだステンドグラスを見ていた。それは、花嫁道具の一つなのか……アウストラリスから贈られてきたもの。先日工事が終わって、あとはスピカが戻ってくるのを僕と同じように待っていた。
僕はミルザと同じように窓をしばらくじっと見つめると、その送り主に思いを馳せる。
この先、ミルザみたいな姫が彼の周辺には大量に湧くだろう。その光景はあまりにも簡単に予想できた。
彼が妃を選ぶときには、相当な騒動──僕の妃騒動なんか比じゃないかも──が待っているに違いない。
僕はある一人の女性のことを思い浮かべ、彼女の代わりに大きなため息をついた。
〈妹の想い人 終〉




