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逆転サヨナラホームラン

 今、鏡で自分の顔を見たらきっとものすごく間抜けな顔をしているだろう。

 実際、優作はしばらく、口を半開きにした状態でポカンとしていた。

「じゃ、そういうことだから」

 いつの間に食べ終えていたのか、さくらは立ち上がろうとする。

「お、俺は……初めからさくらのことが好きだった!!」

 ぴたり、とさくらが中腰のまま動きを止める。

「梨恵とのことはその、言ってみればただの当てつけで……本当に悪かったって……」

 こちらを振り向いた彼女の表情は実に、何とも言えない微妙な表情であった。

「どうしてそう、不器用なの?」

「悪いか?! は、初めてだから……女の子を好きになったのなんて、今までなかったから……」

「私もよ」

 さくらは再び座り直す。

「それどころじゃなかったし、お父さんがカッコ良すぎて……」

「……」

「一つ、言っておくけど」

 な、何を言うつもりだ? 優作は思わず身構えた。

「私、口には出さないけどお腹の中ではけっこういろいろ、黒いこと考えてるから。それでもいいなら、これから……」

「それを聞いて安心した」

「え……?」

「お前が正真正銘の聖人君子……いや、女だから聖女か……? だったとしたら、俺はとてもじゃないが付き合い切れないと思う」

 さくらは驚いている。

 でも、それは優作の本心だった。

 いつも作った笑顔で本音を隠している彼女と、これからずっと上手に付き合っていくのなら、たまには醜いといってもいい正直な気持ちを話してもらわなければ困る。

「人間なんて皆、そんなもんだ。いろいろ腹に抱えて生きている」

「そう……そうよね」

 ふふっ、とさくらが笑う。

 無理して作った笑顔などではない。きっと本物だ。

 やっぱり笑うと可愛い。

 とても口に出しては言えないけれど。



 今日はいつもより授業が早目に終わった。

 梨恵は慧に一緒に帰ろうと声をかけ、学校を出た。

 この頃は日暮れが早い。辺りは既に真っ暗だ。

「こないだのプレゼント、好評だったよ」

「そうか……良かったな」

 父に送ったネクタイは慧に選んでもらった。ネクタイなんて、どんなものがいいのか梨恵にはさっぱりわからなかったからだ。

「でもね、慧ちゃん」

 梨恵はわざと神妙そうに声を潜めてみせる。

「お父さんに言われちゃった。不純異性交遊はダメだって」

「……」

 慧の額に汗が浮かぶ。

「うちのお父さん、怒らせると以外に怖いんだよ? 急所を外して撃ち抜く自身があるって言ってた。さすが、現役警官だよね」

 楽しい。

 でも、からかうのは大概にしておこう。

 今日はどうしても、彼に伝えたい大切なことがある。


 ちょっとだけ寄り道して帰ろう? と、梨恵は帰宅コースから逸れて海に向かった。

 向島へ渡るフェリーは既に最終便が出てしまったようで、船着き場の電気は消えてしまっている、

 梨恵は慧と誰もいないフェリーの待合室に、二人並んで腰かけた。

 夜の海を眺めるのは好きだ。

 初めて優作と慧に出会った時のことを思い出すから。

 あの時はほんとうに、消えてなくなりたいぐらい辛かった。

 突然、何の前触れもなく大好きな母がいなくなってしまって、梨恵は途方に暮れていた。

 お母さんは私のこと、それほど好きじゃなかったんだ。

 そんなふうに考えた。

 もしも家が火事になって、大切なものを一つだけ持ち出せって言われたら、何を持って出る?

 そんな他愛ない質問に対して、梨恵は『くまちゃんのぬいぐるみ』と答えたことを今でも覚えている。でもお母さんは『梨恵ちゃんよ』と答えてくれたはずだ。

 その母が、だ。

 知らない男の人と駆け落ちして事故を起こして、挙げ句の果てに失踪。

 今にして思えば、母はいったいどういう人だったのだろう?

 優しい人……とは言えないと思う。

 梨恵が欲しがれば母は大抵の物は買い与えてくれた。

 でも、そのことで父親とよくケンカになった。

 どうして、さくらにも同じようにしてやらないんだ。

 欲しがるからって無闇やたらに与えていたら、どんな人間に育つと思うんだ。

 私のパパは、私が欲しいって言えばすぐに何でも買ってくれたわ。

 小さい頃は母親がよく父親とケンカして、その度に自分だけを連れて実家に帰っていた。

 ママの『実家』は、古いけど梨恵がいつも住んでいる小さな家とは比べ物にならないぐらい広くて、とにかく退屈しなかった。

 ママはいつもお父さんのことを悪く言っていた。

 お父さんの味方をするさくらのことも。

 あの子が家のことをやりたいって言うから、任せてるのよ。

 別に強制した訳じゃないし、何よそれ、あたしがあの子を奴隷みたいに扱ってるとでも言いたいの?

 梨恵が新しい玩具に夢中になっている間、さくらはいつも米を研いでいたり、近くのスーパーに買い物に行ったり、洗濯物をたたんだり、とにかく忙しそうだった。

 中学生の頃は給食がなくて、お弁当持参だった。

 朝起きると、当たり前のようにお弁当が用意されていて、梨恵は急いでそれをカバンに詰めるだけだった。

 さくらが毎日何時に起きてるのかなんて、考えたこともなかった。

「あたしね、いろんなことたくさん考えたんだよ。慧ちゃんがいつも『考えろ』っていうから。前は頭が悪いのを言い訳にして、考えることから逃げてたけど、でもね。小松屋で働き始めてからいろんなことが分かった。あたしが今まで当然だと思ってたことは、全然当然なんかじゃなかったって」

 慧は黙っている。梨恵は続けた。

「うちのお母さんってね、本当の意味でお嬢様育ちだったの。だから家事が苦手っていうがまともにできなくて……特に掃除が嫌いだった。専業主婦だったくせに。だからお父さんが仕事から帰ってくるとよく言い争ってた。亭主が仕事して疲れて帰ってきてるのに、こんな汚い家で出迎えるのかってね。子供の頃は、お父さんが何で怒ってるのか全然わからなかったけど」

 あたしの部屋も片付いてないしね、と梨恵は笑う。

「その上、料理も苦手でね。ご飯の支度も出来てなかったことがよくあったわ。だからさくらは、ごく小さい頃から掃除を覚えてた。料理も洗濯も、大好きなお父さんのためにね。それからはお母さんよりさくらの方が家のことやってたな。あたしはいつしか、それが当たり前だと思ってた。手伝いを頼まれることもなかったし、自分からやろうとしたこともなかった。それからずっと、朝起きたらちゃんと朝ご飯が出来てて、お弁当も用意してあって。学校から家に帰ったら晩ご飯ができてた。あたしが部屋を汚くしても、いつのまにか綺麗になってた。お風呂とかトイレとか、汚かったことなんて一度もなかったの」

 梨恵が一旦言葉を切ると、波の打ち寄せる音が耳に響いた。

「あたしは仕事だからお店の掃除もするし、簡単な飲み物を作ったりとか、野菜の皮むきとか、慧ちゃん家のお風呂の掃除もするよ。でもさくらは、誰から給料をもらう訳でもなく、家族のためにたった一人でずっとやってきたんだなって……。そう思ったら、あたしどれだけさくらに甘えてたのかわかったの」

「梨恵……」

 慧は驚いている。

 それは本当に梨恵にとって【新しい発見】だった。

「さくらみたいなのを本当の意味で『いい子』っていうのね。お父さんがさくらのこと可愛がる訳だわ。優ちゃんだって……」

「それは違う」

「え?」

「梨恵だってそういう意味なら充分に『いい子』だ」

「ほんとに? そう思う?」

 ああ、と慧は微笑んで梨恵を見つめた。

「お前は働き者だ。それはうちの父親も母親も認めてる。もちろん、俺もな。お前が来てくれて、本当にうちの店は助かってる。それは事実だ」

 嬉しい、と梨恵も微笑み返す。

「優作の場合は……あいつは、子供の頃から母親の愛情に飢えてたからな。だからお姉さんの中に母性を感じて、好きになったんだろうと思う」

「そうなの?」

 俺から聞いたって言うなよ、と前置きをしてから慧は言った。

「お前知らなかっただろ、あいつのお母さんて『MITSUe』ブランドの社長だったんだぜ? もう亡くなってるけど。優作が二歳か三歳ぐらいの頃に事業を始めて、子育ては旦那に全部任せて、仕事に全力投入だったからな。挙句の果てには他所に男を作って、離婚届けを持って行こうとしてた最中に事故で亡くなったんだ」

「知らなかった……」

「だから、優作にとっては母親も『MITSUe』も憎しみの対象でしかないんだ」

 それであの時、優作があんなに不機嫌になったのかと合点が行った。

 優作は何も言ってくれなかった。教えてくれなかった。

 今ではもう、どうでもいいことだけど。

「今は不思議でならないんだけど、あたし、優ちゃんの何が良かったのかなぁ?」

 慧は苦笑いしている。

 知るかよ、そんなこと。顔がそう言っている。

「ところでね、慧ちゃん。ここからが肝心なんだけど」

 梨恵が慧のことをじっと見つめると、彼は気まずそうに目を逸らした。

「あたし、前は慧ちゃんに嫌われてるんだと思ってた」

「な、なんでそう思ったんだよ?」

「だって慧ちゃん、いつもあたしのこと怒ってたし、怖い顔してキツイことばっかり言うんだもん」

「それはお前が、俺を怒らせるようなことばかり言うから……」

「わかってる、だから『思ってた』って言ったんじゃない。でも、違うよね?」

 梨恵は悪戯を思いついた子供のような顔をして、慧の顔を覗き込んだ。

「好きな女の子にはつい、意地悪しちゃうってやつでしょ?」

「……」

「正確には意地悪なんかじゃなくて、慧ちゃんはいつもあたしのことを思っていろいろなこと言ってくれたんだよね。お父さんと仲良くなれたのも、さくらのありがたさに気付いたのも、あたしにとって『良かった』と思えることの後ろには全部慧ちゃんがいたの」

 梨恵はそっと慧の胸に顔を埋めて、その広い背中に腕を回した。

「大好きよ、慧ちゃん。ほんとうにありがとう」

 しばらく返事がなかった。

 もしかして上手く伝わらなかったのだろうか。それならそれでいい。

 言いたい事は全部伝えたのだから。


「梨恵……お前の言う『好き』は、俺が思ってるのと同じか?」

 突然、思いがけない質問が返ってくる。

「どういう意味?」

「ずっと前にお前、俺に聞いたよな。男と女の友情なんてあるのかって」

「そんなことあったっけ?」

「あるとも言えるし、ないとも言える。少なくとも俺の場合は、ない」

 慧ちゃん? と、梨恵は顔を上げる。

「普通、友達とはキスしたりしないだろ?」

 言い終わるが早いか慧は、梨恵の唇にキスをした。

 どれぐらいの時間そうしていただろうか。

「お前のことが好きだ、梨恵。本当言うと、出会った時からずっと」

「ほんとに……?」

「なのにお前は、優ちゃんって……あいつのことばっかり」

「ごめんね、慧ちゃん。あたし全然知らなかったから。でも今は……間違いなく慧ちゃんの言う『好き』と同じで、慧ちゃんのことが好きよ」

 親は教えてくれなかった大切なことを教えてくれた人。

 きっと、この人には一生頭があがらないだろうなぁ……。


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