星の瞳のジルエット
乙女のバイブルとかなんとかいうキャッチコピーで……。
女の子の気持ちを理解したかったら、少女マンガを読みなさい。
そう従姉に言われて、その日優作は学校から帰宅する途中、本屋で少し恥ずかしい思いをしながらレジに向かい、産まれて初めてマンガを買った。
家に帰ってからすぐに読み始めた。
別に父親からマンガを読むなと禁止されていた訳ではない。
単に興味が持てなかっただけである。
クラスの皆が読んでいるから、という理論は彼には無縁のものだった。
しかし……。
なぜそういう結論に至ったのか?!
理由を明快かつ簡潔に、論理的に説明せよ!! と、納得のいかないことも多く、結局のところ、乙女心は理解できないということがわかっただけだ。
しかしフィクションとしてはおもしろかったので、つい夢中になり、父親から夕飯だから降りてこい、と言われるまで読んでしまった。
リビングに顔を出すと、いつものように父が待っている。
顔はそっくりだが中身はまったく似ていない……。
親戚たちはいつも優作と父のことをそう言う。父親の有村光太郎と言う人は、とにかく人と争うことを嫌う温和な人で、口調も常に柔らかい。
大きな声を出すことなんて、母親のことでケンカした時ぐらいだ。
子供の頃、将棋を教えてくれる教室に通い始めた時、講師で来ていた『アキ先生』は話し方や仕草が父と似ていて、だからだろうか、すぐに好きになった。
「優作、来月の三者面談だけど……」
父は息子が席に着くなり切り出した。
「都合が悪いなら、別に来なくていい」
来月には進路相談のための三者面談が予定されている。
「……そうじゃないよ。進学するのは知っているけど、そういえばどこを受験するのか聞いていなかったと思って」
「広島経済大学だ」
進路希望をかなえるには理想の大学である。
「他に、滑り止めは?」
優作は首を横に振る。
「……俺の辞書にそんな単語は存在しない」
「……まぁ、いいけど。お父さんとしては、いっそ大阪とか東京に出て、世間の荒波に揉まれるのもありだと思ったんだけどな」
「俺は県外に出るつもりはない」
そう、と父は向かいに腰かける。
「彼女はどうするんだろうね」
「彼女?」
「……好きな女の子がいるんだろう? めぐちゃんから聞いたよ」
余計なことを!!
めぐちゃん、とは従姉のことだ。
「……父親が地方公務員だから、県外には出ないと言っていた」
ファザコンめ、と優作は胸の内で呟く。
すると父は微笑んで言った。
「なんだ、その子と優作は仲間なんだな」
「仲間?」
「ファザコン仲間じゃないか」
「……」
自分がファザコンだという自覚のない優作にとって、それこそ衝撃の事実であった。
(俺もファザコンだったのか……!?)
その時、居間の電話が鳴った。
慌てて優作は立ち上がって受話器をとる。
『あ、俺、青島だけど……』
聞いたことのある名前のような気がしたが、顔は浮かんでこない。
『日曜の体育祭のことだけで、相談があってさ』
学校行事の話をしてくるということは、恐らくクラスメートだろう。
そう言われてみれば、そんな話があったような気がする。
優作は基本的に、自分の関心事以外はすべて意識の外にシャットアウトしてしまう器用な人間である。彼は子供の頃から、体を動かすことがとにかく苦手であった。
走るのが何よりも嫌いで、マラソン大会なんていうものは、はっきり言って論外だ。
『お前さ、リレーの選手になってんじゃん』
「……何?」
知らなかった。リレーなんて、よりによって一番嫌いな走ることに?
「そんな記憶はないんだが……」
もしかしたらぼんやりしていて、気がついたらそうなっていたのかもしれない。
『何言ってんだよ、昨日のホームルームの時、リレーに出たいって自分から手を挙げたらしいじゃないか』
「……らしいってなんだ?」
『俺、昨日は風邪引いて学校休んでたから……』
そうか、それは知らなかった。
『なぁ、頼む。俺と替わってくれないか、競技。今日、登校したら勝手に借り人競争に入れられちゃってて……』
借り人競争?
あれか【この学校で一番の美人教師】だとか【一番尊敬する先生】とか。
「それは、およそ俺のキャラじゃないな」
『頼むよ! 俺、走るのは得意でさ、その……いいところ見せたいんだよ』
「誰に?」
『……好きな女の子がいるから』
電話の向こうで恐らくクラスメートは、声を潜めて答えた。
以前の優作なら、鼻を鳴らしてああそうか、と終わっていただろう。
しかし、今は彼の気持ちが理解できる。
『必ず礼はするから!』
「……いいだろう」
『ほんとか?! やったあ!! ありがとう、恩に着るぜ!!』
そういえばさっき読んだマンガのヒロインが片想いしている相手は、確か陸上部に所属していた。
女の子は足の速い男が好きなのだろうか……?




