(6)表に出ろ!
食堂は一瞬静まり返り、直後、一斉に溜息がこぼれた。
「アホらし。マジで言ってる奴がまだいるよ」
緒方慎也巡査が呆れたように呟く。
彼は島崎に次いで若い二十三歳、レスキューは今年で三年目だ。しかし、ロッククライミングが趣味の父親に連れられ、彼自身、五歳からクラブに所属していた。得意なのは低い位置でロープをつけずに行うボルダリングである。
遥かに年下の緒方にまで笑われ、水原の矛先は緒方に向かう。
「じゃあなんで女でレスキューの隊長が務まるんだ? 納得できるように、説明してくれ!」
「実力に決まってるだろ! 馬鹿じゃねえの?」
「実力? 笑わせるな。裏事情が判ってる連中は、皆知ってて知らん顔してるだけだろ。あの女は昔っから、キャリアや先代の隊長を誑し込んできたってな。他の連中ともよろしくやってるんだって? てめえら全員あの女に骨抜きか?」
水原の挑発に、目の前にある椅子を蹴り倒したのは南の相棒・結城だ。スチール製の椅子は怒りをまともに受け、背もたれが歪む。彼は勢いをつけて飛び掛り、水原の襟首を掴んで締め上げる。
「もう一辺言ってみろっ! 誰がよろしくやってるって!?」
ほとんどが身長一八〇前後でガタイのいい山男たちばかりだ。しかも、そこそこ気の荒い、腕自慢・力自慢が揃っている。
だが体格では互角でも、結城にとって今回は些か分が悪かった。水原はもともと現場叩き上げの刑事なのだ。格闘ではレスキュー隊員より一枚も二枚も上である。
結城の手首を下からすくい取り、そのまま腕を捻り上げた。結城は実にあっさり一回転して床に転がされる。
「何べんでも言ってやるぜ。あんな女に、ケツの毛まで抜かれやがって」
直後、緒方の右足が風を切る。
足の甲が水原の腹部にヒットした……ように見えた。だが、がっしりと水原に止められていた。緒方は水原から一旦離れ、再び構えなおす。
「所轄の下衆連中の言葉を真に受けやがって……この、ど阿呆がっ!」
緒方は、隊の中で眞理子に次いで小柄である。それでも一七五はあるので間違っても低いわけじゃない。鍛え上げられた鋼のような体を駆使して殴りかかる。が……如何せん、経験不足だ。山では滅多に捕り物がないため、逮捕術などの訓練はまずやらない。緒方も水原に腕を取られ、簡単に床に押さえ込まれた。
「パワーだけじゃ喧嘩は出来んぜ、坊や。レスキュー呼んでやろうか?」
水原の仲間を揶揄する言葉は怒りを誘発した。
本部で彼と顔を合わせた、七原・佐々木のコンビも気色ばんで席を立つ。
「ちょっとぉ! こんなトコで喧嘩するんじゃないよ! やるんなら外に行きなさい」
カウンター越しに愛子が叫んだ。
南は七原らに視線をやり、無言の圧力を掛ける。彼らは渋々腰を下ろした。
そして、
「いい加減にするんだ、水原! ここは喧嘩をする場所ではないし、道場でもない。すぐに止めなさい!」
尊敬する南の叱責に水原は緒方から手を離す。
だが、やられた結城や緒方はそれじゃ収まらない。
「おい貴様――表に出ろ!」
結城は捻られた腕が痛むのか、顔を顰めながら、水原に怒鳴った。
「こらこら、山開きは明日なんだ。マスコミ連中が居るんだぞ。警察宿舎で殴り合い、なんて記事が出るのは御免だからね」
噂の隊長の一声に、全員の動きが止まったのだった。
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どうやら、水原が戻って来て騒ぎを起こしたのは、当直二人が食堂を出た後らしい。眞理子は彼らと交代して戻ってきたのだ。何も知らなかったが、食堂に入るなり床に倒された椅子を見つけ……状況を察した。
「あーあ、また椅子を壊したな」
拾いながら呟く眞理子に、「す、すみません。自分が……」結城は正直に申告する。
「ちゃんと直しとくんだよ。――愛子さん、私の分もお願い」
苦笑しつつ、眞理子は床に椅子を置いた。そして、睨み合う三人の間をすり抜け、一触即発の状況をわざと無視したのだ。そのまま、何事もなかったかのように厨房前のカウンターまで行き、お盆を一枚手に取った。
やれやれ……三十代の年長組はホッと息を吐きながら、若い連中を宥めに掛かる。
問題は水原であろう。
「あんた、風見本部長の愛人なんだって? だから警部にまで昇進して、隊長でございってふんぞり返っていられるんだな。上に言いつけられても、クビの心配もない。それどころか、あんたに逆らう部下は、片っ端から追い出してるそうだな。新人の二人に一人は辞めて行くって、人事の担当者がこぼしてたぜ。いいご身分だよなっ!」
言いたい放題である。
ところが、それで水原がスッキリした様子はなかった。水原としては、痛い所を突かれて逆上する眞理子を見たかったのだろう。
当の眞理子は、汁椀に味噌汁を注ぎつつ……。
「愛子さん、宿舎を燃やしかけたアジのから揚げは?」
「人聞きの悪いこと言うんじゃないよ! 南蛮漬は明日のほうが美味しいよ」
などと、呑気におかずの心配をしている。
「おいっ! 何とか言えよ。どうせ全部事実だから、何にも言えないんだろうが!」
「……それで?」
眞理子は湯呑にお茶を淹れながら、水原のほうを見ようともしない。
「俺を……馬鹿にしてんのか? てめえみたいな女の下につけるかっ!」
「……」
「俺はあんたのことを隊長とは認めない。クビにしてみろよ、全部ブチまけてやるぜ。――お飾りならお飾りらしく、役立たずの女は引っ込んでろ!」
さすがの水原も、それ以上怒鳴っても無駄だと悟ったらしい。彼は背中を向け食堂を出て行こうとした。その時、ようやく眞理子も重い口を開いたのである。
「水原、お前が認めようが認めまいが、隊長は私だ。勤務中に一度でも命令違反を犯せば、規約に従って山を下りてもらう。いいな」
ガンッ! 水原は返事の代わりにドアを蹴った。
「新しいタイプですね。意外に早く戻って来ましたし……」
眞理子が席につくと、南が隣に座り話しかけた。
確かに、隊長が女と知って出て行く人間は多いが、逆に追い出してやると戻って来たのは初めてのケースだ。眞理子は南の感想に軽く笑った。
だが、そんなことでは怒りが収まらないのが結城と緒方である。
「隊長! なんでガツンと言ってやらないんですか? あんな馬鹿に命を預けるなんて、俺はごめんですよ!」
「今は何を言っても、奴の耳には聞こえないよ」
怒鳴る結城を簡単に切り返すと、眞理子は南にシフトの入れ替えを指示する。
新人は隊長が指導に当たるのが基本だ。だが、今の水原が眞理子の指導を受け入れるはずがない。水原の指導員を南に決め、現在、南のパートナーである結城を眞理子が引き受けた。
「結城は私と組んでDシフトで出動する。島崎も同行させよう。しばらくは後方待機だが、単調な訓練よりマシでしょ?」
その言葉に、独り大喜びしているのが島崎だ。
「はい、頑張ります!」
「但し、装備チェックに一つでも手落ちがあったら、次から留守番だ。いいね」
「はい!」
眞理子は今度は結城を見た。
「結城……あんたね。表に出ろはいいけどさ、殴り合って勝てる相手なのか?」
「そんなこと、やってみなけりゃ」
「やらなきゃ判らないことならやるな。もちろん、ぶちのめされると判っていても、やらなきゃならない時はある。でも……今がそうか?」
「……いえ」
結城はしゅんとなり、肩を落として項垂れる。
「明日から組むんだ。『馬鹿に命を預けるのはゴメンだ』と私に言わせるな。――緒方もいいな。勤務中にやったら処分対象だ」
「へ~い親分」
緒方は気の抜けた返事だ。真面目な結城とは対照的である。
「判りました。でもこれだけは言わせて下さい! どうして一言も言い返さないんですか? 富士を支えているのは隊長です。ここにいる全員がそのことを知っています。なのに、どうして!?」
結城はよほど悔しかったのだろう。今にも泣きそうな顔で必死に訴える。
眞理子は正面から結城に向き合うと、真剣な表情で答えた。
「私を信じないと言う人間に、言葉を尽くしても決して伝わらない。伝える努力は山でする。隊長としての責務を全うする事で、伝わっていけばいいと思っている」
不言実行――それは人生の三分の一を、山で過ごしてきた眞理子の処世訓であった。




