(15)消息不明
「それって、どういうこと?」
予想外の返事に眞理子も驚きを隠せない。
要救助者は十一歳の少年である。救助が来るのをひたすら待っているはずだと、眞理子は信じていた。それが……。
「僕は帰らない! 一人で帰ってよ」
少年は荒れ狂う海を見据えたまま、声変わり前の澄んだ声で、眞理子を突き放したのだった。
「それは困ったな。悪いんだけどさ、自殺ならこの次にしてくれない?」
「……」
口を固く結び、少年は眞理子の言葉を無視する。
「ふーん。なるほどね。君はいじめられっこなわけだ」
眞理子の断定的な台詞に、夜目にも判るほど少年の顔が一気に紅潮した。
「居ないのに気づかなかった、なんて……おかしいと思ったんだ。こんな場所で単独行動ってのもね」
眞理子はハンマーを取り出し、手早く数本のハーケンを壁に打ち込んだ。万一を考え、流されないように予防措置を取って、眞理子はその場に腰を下ろす。
「……戻らないの?」
無理にでも連れて行かれると思っていたのだろう。
少年は眞理子の反応に驚き、逆に声を掛けた。
「君を置いて一人で帰ったらクビだよ。……座れば?」
おずおずと眞理子の横に座った少年に、彼女は要救助者用のヘルメットを被せた。少し大きいが、顎のベルトをしっかり固定すれば大丈夫だろう。見た目は悪いが、『ある』と『ない』とでは生死を分けるほどの差が生じる。
「お姉さん。ここ、登れるの?」
やって来たレスキュー隊員が女性でビックリしたのだろう。少年の質問に眞理子は上を指差した。
「ほら。道筋をつけて下りて来たからね。アレを辿って戻るんだ。いつもやってることだよ」
「お姉さんって自衛隊とかの人?」
「いや、警察官だ」
「じゃあ、強いんだ。犯人と格闘したりするんでしょう」
「まあね。喧嘩じゃ負けたことないな」
「警察が喧嘩していいの?」
「……」
小学生に失言を突っ込まれ、思わず咳払いをして眞理子は誤魔化した。
少しすると、彼はポツポツと今回の経緯を口にし始める。それはおそらく、これまでずっと我慢し続けてきた思いなのだろう。
「僕は弱いんだ。ずるいよね、神様って。強い奴、賢い奴、親が金持ちの奴……みんな平等にしてくれたらいいのに、僕には何もないんだ」
彼の唇は切なさと悔しさに震えていた。
少年には母親しかおらず、裕福な家庭ではなかった。教育委員会の就学援助を受けていることが広まり、様々な事情が加わって、彼はイジメの対象になってしまう。小柄な彼はスポーツも苦手で勉強も優秀なほうではなかった。気弱でケンカも出来ず……彼は言われるままに、こんな所まで来てしまったのだ。
ここはクラスメートの一人が、父親と一緒に釣りに来た場所だった。少年はそのクラスメートに、この岩棚までのルートを教えられ「岸壁の下まで行って来い」と言われたのである。
それは眞理子がホテルに引き上げた直後、台風がどんどん速度を増していた頃で……。少年がどうにか辿り着いた時、帰り道は荒れ狂う海に塞がれていたのだった。
「お前なんか死んじゃえば……って言われた。もう、疲れたよ。僕なんか、生まれて来なければ良かった。いいことなんか、一つもないし……」
「ホント、そうだよねぇ。人生は楽じゃないよ」
「え……?」
――そんなことないよ。よく頑張ったね。君は悪くない。これからいいことがあるよ。
そんな、ありきたりの返事でなかったことが、少年の意表を突いたようだ。
「私だってそうだ。来たくもないのに屋久島くんだりまで連れて来られ……帰りたいのに台風だ。おまけに遭難者が出たから助けに行けと言われて、命がけで下りてきたら……帰らない、だ。どれだけ頑張っても、女ってだけで虚仮にされるしね。ホント、報われないよ」
「それでなんで、そんな仕事を続けてるの? 辞めればいいのに」
少年は愚痴混じりの眞理子の言葉に、耳を傾ける気になったようだ。
「そうだね……こうして誰かを助けに来れる、そんな自分に誇りを持ってるからだろうな。人から、どれだけ笑われても、馬鹿にされても、自分の評価は自分で決める。生きることは楽じゃない、でも……嫌じゃない」
そんな場合ではないのは承知していた。だが、たった十一歳の少年が、生きることに疲れたと言う。眞理子は彼を放ってはおけなかったのである。
「それは……結局、お姉さんが強いからだよ。だから、頑張れるんだ」
「強いよ。そう言ってるじゃない。何でか判る?」
少年はすぐに首を横に振る。
眞理子は体育座りのまま、うねる波を指差した。
「見てみなよ、あの波。もう少し高かったらここまで届くね。そしたら、私も君も飲み込まれて……沖に流されたらアウトだ。朝には魚の餌だってさ」
具体的に言われて、少年もようやく死を身近に感じたらしい。小さな体を更に縮こまらせた。
「怖いよね。死ぬのは怖い……手も足も震える。泣きそうになって、自分の弱さを思い知る。でもね、震える足で、踏ん張って、立ち上がるんだ」
そう言うと、眞理子は膝に手を置き、グッと力を入れて立ち上がった。
「一番弱い人間は、一番強くなれるんだよ。だから、私は誰よりも強い。なんたって、誰よりも弱い心を抑え込んでるからね。それを“勇気”って呼ぶんだ――知ってた?」
少年の瞳に、雨に濡れてキラキラ輝く眞理子の姿が映った。
前傾壁のおかげで、雨風は崖の上より幾分凌げる。だが背後にあるのは、今にも二人を飲み込み、噛み砕きそうな大海原だ。少年には海が巨大な怪物に思えた。逃れる為にはこの崖を、雨風に向かって突入するように登らなければならない。
なのに……この絶体絶命の状況で眞理子は微笑んでいる。
「君が弱いなら“勇気”はきっとある。それを見せてよ――さあ」
――生きることは楽じゃない、でも、嫌じゃない
そんな眞理子の声が少年の胸に響いた。
そして、二人の手が繋がった瞬間――ずるいと評されたことに神様が怒ったのだろうか。
「あ!」
少年の小さな悲鳴とともに、高波が二人を攫った。
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一際大きな波が岩棚を襲った。波が引いた時には、そこから二つの人影は消えていたのである。
沖に停泊し事態を見守っていた海上保安庁から「二人が高波に攫われ消息不明」の一報が入った。この十分前に「少年を無事保護」との連絡を受けていた関係者一同は、軽いパニックに陥る。
ホテルに待機していた山岳警察の上層部も同様だ。無事が一転して消息不明となり、那智をはじめ全員が呆然と立ち尽くしていた。
捜索本部は懸命に無線で呼びかけるが……一切返事がない。巡視艇からも、「二人の姿は発見出来ず」という報告が続いている。
――「落ちたら終わりだ」
その言葉が彼らの中に、絶望のムードを漂わせていた。
だが、優花はそう簡単に諦めるわけにはいかない。
眞理子にもしものことがあったら……それは自分のせいである。
逃げるのか、子供を見殺しにする気か、優花はそんな風に言ってしまった。優花の方こそ、何も出来ないくせに口だけ偉そうな半人前であったのに。
(あの人が本物のレスキュー隊員なんだ。本当の『隊長』なんだ)
「けいぶぅぅぅーー! けい……沖、たいちょうぉぉぉぉーー!」
優花は、体勢を低くしろ、と言われた命令に従っている。岸壁の上を這いずり回り、下を覗き込んでは声を限りに叫び続けたのだった。




