第35話 親子
明かりに集まった虫が軌道を外れてお湯の上に落ちてきた。「この網で救ってあげて下さい」と置かれた網を拾って、虫を文字通り掬いとった。そして何処か、自分達に影響を及ぼさないところに投げ飛ばす。果たしてコレは救った事になるのか。少なくともそうしろと書かれていたから、結果的に虫に何かしらの被害があってもそれは店のせいだと罪悪感を和らげることが出来る。
けれど行き場のないこの虫を実際に掬って何処かに追いやると決めたのは僕自身だからその選択に責任を持つべきは僕だ。しかし守るべき原則に反しないと思ったならばそれ自体はやってはならない悪き行為だとはならない。少し考えすぎである。こんな事ばかり頭に過ぎるのは恐らく本を読み過ぎた副作用だ。
キャンプ場の近くには温泉が併設されている場合が結構ある。大自然の中でサバイバル的な暮らしを再現するのはあくまでレクリエーションの一貫であり、お風呂であっても行水で済ませては物足りなくなる。結局は近代的な暮らしを捨てきれないのが人間の性質だ。
「たまには温泉もいいだろう…」
「うん」
父さんと二人。肩までお湯に浸かり足を伸ばす。家のお風呂では狭くてここまで体を広げて入ることは出来ない。だからと言って広範囲を自分の縄張りにして泳ぎ回るような事はしない。人一人が収まるところで身を落ち着かせる。常識と片付ければ済む事だが、他人と自分を思い遣っているWin–Winの関係だと考えると納得がいった。
「最近どうだ。学校はうまくいってるか?」
「うん。普通だよ」
「普通…か」
探られている。僕が本当に思春期ならここで父さんをシャットアウトしてしまうのがセオリーだろうか。けれどもっと上手くやる方法があるはずだ。何かモヤモヤするものを感じるが本の通りに実践してみる。
「心配してくれてるんだね」
「……」
父さんは黙ってしまった。僕は父さんの感情を深読みするあまり見当違いな事を言ってしまったのだろうか。自分が正しいと思った選択が必ずしも良い結果を産むとは限らない。行動は選択できても起こりうる結果は選択出来ないのだ。
「…あぁ。少し心配だった。お前も後鳥羽先生に変なこと吹き込まれてたんだろう。だからその…大丈夫かなって」
「…そっか。でもありがとう。心配してくれて…全然大丈夫」
デリケートな問題である事は間違いない。けれど父さんもダンスケ先生をそんな風に思っていた事がショックだった。先生の名誉のために弁解してあげたい。けれどそれをここで言っても仕方がないだろう。大人達は皆、子供より確かな情報を持っていると自負している節がある。
けれど僕は勇気を持って立ち向かいたい。先生が誤解されている事を目の当たりにしながらそれを無視し続けることは僕の原則に反するのではないか。父さんとぶつかる事になるかも知れない。せっかくのキャンプが台無しになる可能性もある。けれど最優先すべき事があるとすれば、それは親子で腹を割って話し合う事だと思った。
「父さん…」
「何だ?…」
ゴクリと唾を飲み込む。緊張で息が荒い、心臓の鼓動も早くなった。けれど僕は正しい事をしようとしているんだ。決して父さんを言い負かそうとか、その考え方は間違ってるとか。そんな事が言いたいのではない。事実を知ってほしいだけだ。
「ダンスケ先生はお金の大切さを教えてくれたんだ。確かに誤解されやすい人だけど、先生に出会えて良かったと思う。僕は前より成長できたと思う…」
「…そうか」
父さんは何かを言おうとして一度口を開きまた閉じた。そしてただ一言「そうか」と言ったのだ。そこにどんな思いが詰まっていたかは、推測するしかない。けれど否定も拒絶もされなかったその代わりに。
「お前は俺の自慢の息子だ。やりたいようにやれば良い。誰が何と言おうと父さんはお前を信じてる」
「…うん」
涙が溢れる。最近は随分と涙脆くなったものだ。泣かされてばかりである。父さんは星空を眺めていた。どんな表情なのか僕に見せてくれない。ただ、確かに見応えのあるキレイな星空がそこにはあった。
村に帰ってきた僕はすっかり周りの目が気にならなくなっていた。今は僕の人生の序章に過ぎない。これからもっと長く生きるんだ。毎日コツコツと自分を磨いている。そう実感出来なくても毎日良き習慣を続けている限り根拠のない自信が込み上がってくる。
戦いはもう始まっているのだ。その結果がどうあれ、悔いが残らないほどに僕は努力を積み上げているのだ。




