第32話 大人の事情
それは突然のことだった。頭を深く下げてこの村を去っていくダンスケ先生の背中はとても小さく見えた。僕らは見送る事は許されない。先生は子供達に変な事を吹き込む悪い大人だったと他の大人は言う。化けの皮を剥いでやった。まるで悪人を退治したかのように余所者を追い出す村人達は異様に見えた。けれど僕はそこを抜け出して自転車を全力で漕いだ。
人気のない駅のホームに電車が来る。間に合わなかった。先生は待合室から出てそのまま乗り込む。そして発車し、加速する前に一瞬だけ目が合った。先生は口を固く結び。力強い眼差しで僕に視線を送る。「頑張れ」と言っているような気がした。どうしてこうなってしまったのか。残念でならない。
ある日のこと、母さんが「あのね。びっくりしないで欲しいんだけど…ちょっとね。後鳥羽先生…その、ちょっと事情があってね。この村を出る事になったの…」と申し訳なさそうに打ち明けた。
「え…」
言葉が出なかった。しばらく授業は休み。新しい先生が来るまで、僕らは学校にはいくけれど。ただ虚しく勉強して帰るだけの日々が始まると言う。僕は信じられなかった。家を飛び出し、ダンスケ先生の住んでいる古民家に向かった。するとそこに男達が玄関先に群がっている。そして姫もそこに居た。
「どう言う事なんですかね後鳥羽先生。うちの娘に私が借金でお金持ちになれないって吹き込んでるそうじゃないですか?しかも…」
姫の父親は彼女を傍らに立たせその肩に手を置く。顔はずっと下を向いて、時には小刻みに震える。何が起きているのか。僕は固唾を飲むしかない。
「申し訳ありません。確かに借金は良くないとは言いましたが、そこまでの事は…」
けれど周りの男達と父親は断固として引かない。まるで先生を断罪する事が唯一の目的であり、それ以外の着地点は望んでいないとばかりに先生に詰め寄る。
「御託はいいんだ!!なに?お金持ちになる方法だぁ?!訳の分からない事を私の娘に!貴様はそれでも教師か!詐欺師まがいな事をして許されると思っているのか!?」
先生は「申し訳ありません…」とそれだけ言って深く頭を下げる。言い返す気はないようだ。けれど僕は知っている。ダンスケ先生はそんな人じゃないと。お金の授業もまだ始まったばっかりだ。それに投資の話をするとか言いながら、精神論や幸福論など哲学的な話がほとんどである。いつお金の増やし方を教えてくれるのかちょっと焦らされていたぐらいだ。
決して詐欺師じゃない。先生は語った「お金持ちになってから道徳を勉強しても遅いんや。常識を知らんもんは金に溺れる」そう言って僕らを「まぁ焦るな」と制した。だから本当の意味でお金を扱える人間に僕らをゆっくりと導こうとしてくれていたと思う。口調と気怠そうな態度とは裏腹にとても堅実な人だと僕は感じた。そしてまだこの先が観たかった。
朝、いつものように「おはよう」と言って迎えに行き。学校に着いたら黙々と問題集をこなしていく。姫とは必要最低限の会話しかなかった。帰りも淡々と無言で帰る。僕は少し期待していた。恐らくことの真相を彼女が握っていると。だからきっと打ち明けてくれると信じていた。けれど何も言わずに、むしろ聞かれないようにしているとさえ思えた。
僕と姫の関係は少しずつ拗れ始めた。数日で臨時の先生がやって来る。けれどやはり一人で多くても二科目しか資格を持っていない。ダンスケ先生は本当に凄い人だったのだ。村のみんなは掌を返したように先生の悪口を言う。
次の日も次の日も、僕らの登下校にさほど会話はない。そして道端で話し込むおばさん達に遭遇する。まだ僕らに気づいていない。だから油断していたのだろう。その内容が聞こえてきた。
「いやーねー本当にねぇ。絶対裏で変な事してたのよぉ。だってさぁ。言っちゃ悪いけどこんな村にわざわざ来る何て怪しいって思ってたのよぉ〜」
「そうよねぇ。お金持ちにしてくれるって絶対おかしいわぁ。トモナちゃんが言ってくれたからよかったけど…ねぇ」
「あ、あらやだ…。お帰りなさいねぇ…」
気不味い雰囲気が漂う。そして姫は駆け出した。追いかけようとすると「来ないで!!」と振り返って僕を涙目で睨みつける。一度上がった右手はゆっくりと下りて握り拳を作る。ただ黙って彼女の背中を眺めるしかなかった。
そこから穏やかだった日々は地獄に変わる。二人しか居ないのにほぼ一人ぼっちになってしまった。




