第14話 組体操
コーヒーのスモーキーな香りとパンの芳ばしい香り。鼻を抜けた瞬間にドーパミンが分泌された。そうして迎える朝は最高の一日をスタートさせる。今日は何かいい事がありそうだ。
テーブルには今が旬のきゅうりとトマトのサラダ。六月に採れたジャガイモとカリカリベーコンのジャーマンポテト。そして焼きたて風のミニフランスパン。冷凍していたものをオーブンレンジで焼き上げた。これが意外と美味いのだ。
そこに至高の黒い液体が添えられる。豆から挽いたコーヒーこそコーヒーだ。豊かな香りと深い苦味。それが全身に行き渡ると幸福が訪れた。「嗚呼、幸せ」つい、そんな独り言が口から出てしまう。しかしその頂は稀有な嗜好である。
「苦いわねぇ〜。アンタこんなの飲んでるの?お砂糖とミルクないの?お母さん甘党なのよぉ〜」
無理に理解してほしいわけじゃない。けれど少し傷ついた。「香りは良いのにねぇ」とフォローを入れてくれる。僕は一人暮らしの長さを痛感した。母さんが甘党だった事をすっかり忘れていたのだ。
「ごめん、ミルクは無いけどお砂糖ならあるよ。持ってくるね」
牛乳と卵を買うと使い切れない。腐らせる。一人暮らしを始める全ての人に知ってほしい。注意事項である。
「そういえばミニトマトがないわね。アンタまさか…」
お察しの通り。朝食を作っている最中に全部平らげてしまった。お陰様で最高に気分がいい。今なら少しの粗相は簡単に許せてしまうだろう。
「好きだねぇ。帰ってきたら幾らでもあるから楽しみにしててね」
何と朗報である。農家の息子に生まれてきて、これ程までに嬉しい事があるだろうか。大好物に囲まれた暮らし。「失ってみて気が付く」とはこの事か。帰る楽しみが一つ増えた。
そして食事を終えた後、食器を食洗機にぶち込んでスイッチオン。これが文明の利器だ。その間、出かける準備をする。僕は朝にシャワーを浴びてついでに歯を磨く。すると母さんが洗面所に入ってきた。
「歯を磨きたいから洗面所借りるわね…」
母さんは僕の動くシルエットで気がついたのだろう。歯ブラシはトリガーだ。これを握ると必ずスクワットをする機能が脚に組み込まれている。
「アンタほんとマメねぇ。まだそんなことしてるの?」
やり始めたのは小学校最後の運動会。組体操である。不安にさせたなら申し訳ない。二人でも出来る技があるのです。
〜13年前〜
季節は夏の終わり。8月下旬のごろだ。もう少しで涼しくなる。食欲の秋、読書の秋そしてスポーツの秋だ。運動会のオンシーズンでもある。現在ではそうではないらしい。詳しくは小学生に聞いてくれ。自己責任でだ!
「ちょっとアンタ体力無さすぎ!しっかりしてよね!」
姫は意外とズッシリ詰まっている。けれどとてもスレンダーだ。きっと僕が装備できるレベルに達していだけだと思う。頭ばかり鍛えてきたのがここで仇となった。こんな筋力では始まりの村からも出る事が出来ないだろう。
そして小学校最後の運動会と言えば組体操だ。一人ではただの体操だが二人揃えば全く問題ない。問題なのはこの脆弱な脚力である。
「私にアンタを担がせる気?」
「滅相もございませぬ!」
サムライ魂を持った日本男児が姫におぶさるなどあってはならない。マッチョで性差別的な考え方だが、好きな人の前では少しでもかっこいいところを見せたいのが本心である。
地面に膝をついて首を彼女の太ももに挟まれながら悔しい思いをする。持ち上がらない。今思うと魅力的なシチュエーションだが当時の僕は真剣だった。何度も言うが僕は純粋な少年だったのだ。
「出直させて下さい!きっと相応しい男になります!」
「きゃ!」
僕は股の間から見上げるようにして、真剣な眼差しを向けた。本当に申し訳ない事をした。黒歴史である。時々思い出しては転げ回る事しばし。姫が顔を真っ赤にして僕を払い退けたのは正解である。無自覚さは時にとんでもない失礼を働く。知らないでは済まされない事だ。小学生だった事が唯一の救いである。
「もう!ビックリした!帰る!」
「え!?ごめん!」
頭を沸騰させながら彼女は公民館から去っていく。幻滅されてしまった。深く絶望する。こんな事で失いたくない。壮大に勘違いした僕は逞しいムキムキマッチョマンになる事をこの時決意した。筋肉は決して裏切らない。
姫の愛(非公式)を取り戻す為に僕は全身全霊で肉体を鍛え上げる事時になる。貧弱な身ではいざとなった時に大切な人を救えはしない。必ずいい男になる。「大好きである証明」はまだ終わっていないのだ。




