74 よろしこっ!
ケルマはクッキーを手にしてひと齧りする。
冷や汗を垂らしながら、しかし真っすぐアセナを見て微笑んだ。
「我が商会は、貴女方ルパ族が貴族に従属せずに独立した民族として生きる為の土地を多数保有しております。
開拓も完了し、望むなら交易の一等地を用意しましょう。
貴女自身も、寵姫として得られるこれ以上ない資金を提供しましょう。
だからどうか……」
ケルマは机に両手を付け、額をそこへ押し付けた。
根はコンプレックスの塊な筈であろう彼が、自ら此処にいる誰よりも低い位置に頭を置いた。
「どうか、立ち退いて頂けないでしょうか。この国の未来の為なのです」
しかし彼を嗤う者は何処にもおらず、当のアセナでさえ姿勢を正している。
彼女はゆっくり、そして優しく手の平を彼の肩に置いた。
「なるほど。気持ちは伝わったよ。
アタシもこないだまで旅をしていた身だ。この国の悪い所はいっぱい見てきた。
ましてアンタは世界を股に掛ける商会の長なんだ。見える物も変わってくるだろうねえ」
語る彼女の顔は一言では表せない様々なものを噛み締めているようだった。
慈母のような視線を落とし、甘そうな唇から一言を繰り繋げる。
「でもゴメン。アタシはそれを受け取れない」
それだけ伝えて肩から手を離す。
ケルマは少しボウとした様子でアセナを見た後、口を静かに開いた。表情は淀みなく、されど納得の色を読めない不思議なものだ。
「『何故』と聞いて宜しいでしょうか」
「今のアンタなら良いかね。
アタシには国を変えようなんてそんな大層な理由は無い。ただ、皆と一緒に好きな人の傍に居たい」
言ってボクを片腕に抱いた。
「この一年、冒険者として独りの生活を送ってはずっと想うようになっていた。
アタシの帰る場所はルパ族の皆の居る所……且つ、アダマスの居る所だってさ。
それは金や権力で『買える』物より尊い事だし、別にアタシ達ルパ族が望んでいるのは独立じゃない」
「……独立でない?」
「ああ。アタシ達が望んでいるのは、自分らしく生きる事なのさ」
ただ真っすぐにケルマを見る。
それは彼の国の未来を乗せた感情よりもずっと情熱的なものだった。
聞いた彼は眉をハの字にして、口をヘの字にして、今度は納得の色を見せつつも自身の感情に潰されそうな様子である。
一言で言えば、振られた男の顔だ。
彼は肩をシュンと下げてずれた眼鏡を上げると、定常通りの営業スマイルを張り付ける。
「アダマス様もそれでよろしいでしょうか」
「うん。アセナが良いって言うなら、それで良い……と、言う感情が先ずあるね。
そして領主の目線としてもあんま魅力的な話じゃないかな」
ボクは指を組んだ。
脳裏に浮かぶのはこの間裏路地で見かけた、闇市をやらざるを得ない人々の事……つまり時代に取り残された人間たちの事だ。
「真面目な話をするとね。この国も変化に付いていけない人達ばかりでさ、事業拡大の前に内部を纏めないと簡単に瓦解しちゃうんだ。
だから、寧ろ取り残された人々に健全な職を斡旋するのが君のやるべき事だと思うな」
言ってボクはまた指を解き、ティーカップに手を付ける。
目の前の彼は何か言おうとして一拍。唾を飲み込んだ。
「はい……承知しました。
それでは、惜しいですが計画を別のベクトルから切り開いていこうと思います」
直ぐにあっけからんとした態度を取っていた。
立ち直りが早いと思ったが、これ程の商人ともなると、こうでなくてはやっていられないのかも知れない。
ボクなんてもっと重要な立場だというのに、アセナやシャル達に見放されたら死んでしまいそうだ。
そういった意味で、この逞しさは羨ましいもを感じるね。
ボクは紅茶を飲み干し、もう一つの話題に移る。
「次は移動装置の方に案内して欲しいな。なんでも馬車に変わる可能性を秘めているとか」
「ああ。では装置の調整役が案内しますので、少々お待ちを」
「調整役?」
「はい。今回の移動装置は古代の装置を解析し、そこへ錬気術を組み込む事によって動かせるようにしたのですが、これには技術力のある調整役が必要でして。
ならば私よりもいっそ『彼女』に任せた方が良いかなと。
おい、『先生』を呼んでくれ」
命令された使用人は扉の向こうにいる『先生』とやらを呼びに行く。
「しかし良いのかい?取引の場は寧ろ君が居ないと始まらないんじゃないかな」
「それに関しては侯爵様本人と取引を済ませておりますので構いません。
後は、そうですね。私は後始末をしないといけませんから」
ケルマはアセナの方を見た。
見られた方はキョトンとするもの、見る側は清々しい表情をしている。
まるで、もう捨てるものは何も無いと言わんばかりに。
「アセナ様と二人きりに話させて欲しいのです。我が家、そして私自身が彼女に申し訳ない事をしてきた」
「それはこの場じゃいかんのかい」
「ふふふ。情けない顔をする時くらい、当事者の前のみでさせて下さいよ」
ケルマに浮かぶのはニヒルな笑い。
対してアセナは納得していない顔を浮かべていた。
「ん~、それだったらアダマスも同席するべきだろ。お前が昔どれ程アダマスに迷惑をかけてきたと思っているんだよ」
「そうですね。でも、ここは私のワガママを通させて頂きたいのです」
その時、扉が開く。
中から使用人、その後ろには彼らの言う『調整役』で『先生』で『彼女』が居た。
格好はとても技術者に見えぬ非効率的な黒いドレス。
そしてロングの黒いウィーブヘア。
母性的な垂れ目を此方に向けるその姿は、あまりにも見覚えがあるものだった。
「エミリー先生⁉」
「うえーい、アダマス君ってば奇遇だね。と、いうわけで今回パノプテス家で技術調整役のアルバイトをする事になったエミリー先生で~す。よろしこっ!」
そんなエミリー先生は両手でピースサインを作ってみせた。
ボクとシャルはポカンと釘付けになる。
だからなのか、注意を払う事が出来なかった。
アセナがエミリー先生を見た途端、物凄い青い顔をした事に。
彼女ら二人が、実はとんでもない経緯での知り合いだった事を知ったのは少し後の話である。




