罰。
思えば、父には悪いことをした。
普段はこちらと目も合わせないような父が、やけに感情的な目をするくらいなのだから、よほど大切な話があったのだろう。
にも拘わらず、自分は少しもその話を聞こうともしなかった。くだらない八つ当たりをしてしまった。
帰ったら父に謝ろうか。いや、父のことだから、もう全てどうでもいいと思っているかもしれない。こちらが反省していようがいまいが、そんなことになど興味がないかもしれない。
そう自嘲しながら、シノは昨日と同じく、放課後、少し時間が経ってから玄関へと向かう。鞄は保健室へ来る時に既に持って来ていた。
薄く黄色がかった西日が刺す廊下を、遠くから吹奏楽の音色が聞こえてくるのを聞きながら一人で歩いていると、唐突に妙な悲しさが込み上げてきた。
自分はもう多くの生徒たちのように高校生活を楽しむことができないのだ。外れ者となってしまったのだ。その悲しさが今になって胸に溢れ出してきて、視界が薄く涙に滲んだ。
と、そんな時だった。背後から走ってきていた誰かが、シノの左肩を強く掴んだ。驚いて背後を振り向くと、
「やったの、あんた?」
そこに立っていたゆらが、青ざめたような顔をしながらこちらを睨んでいた。
「ねえ、あんたなの?」
ゆらは強張った声で続ける。意味が解らず、シノがただ目を見張ると、ゆらはそれで何かを悟ったようにシノの肩から手を放す。悄然と俯き、呟くように言った。
「……うちの靴がないの。だから、帰れなくて」
「靴が……? ううん、わたしは知らない……」
ゆらが学校に来ていたことさえ知らなかった。今朝から教室でゆらの姿など一度も見ていなかったし、それに保健室にもその姿はなかったはずだった。いや、ひょっとしたら、カーテンで遮られた隣のベッドにはずっとゆらが寝ていたのだろうか。
そう驚きに打たれながら、どうにかシノが首を横に振ると、ゆらは暗い目を伏せてこちらへ背を向け、来たほうへと戻っていく。すると、その先の曲がり角にある階段のほうから、鞄を手に提げた水越がちょうど姿を現した。
ゆらは涙を手で拭うような仕草をしながら歩いて行き、水越はそんなゆらに一瞥をくれることもなく淡々とこちらへと歩いてくる。
すれ違うそんな二人の姿を見て、シノは慄然と気がついた。急いで駆け出し、思い違いかもしれないから水越には何も尋ねずにその横を通り過ぎ、
「待って」
と、ゆらを呼び止めた。
「もしかしたら、解るかも。違うかもしれないけど……」
そうは言ったが、シノはほとんど確信していた。三階にある自らの教室へと戻り、窓の外に淡い水色の空が広がっているだけの誰もいないそこを早足に横切り、窓際一番後ろにある机の中を見る。するとやはり、そこにはまだ下谷が入れた白いビニール袋が入っていた。
それを取り出してみると、目で確認しなくとも触った感覚と重さだけで中身が解った。シノが袋をゆらに手渡すと、ゆらは恐る恐るという様子で袋を開いてその中を確認し、何も言わないままだらりと両腕を下ろす。
「ゆら、ごめんね……」
疲れ果てたその姿を目にして胸が痛み、シノは半ば無意識的にゆらの肩へ手を伸ばした。しかし、ゆらはビクリと顔を上げながら後ずさって、目を見開き、瞳を震わせながら真っ直ぐにこちらを見つめる。
それは紛れもなく、怯える者の目であった。世界の何もかもが信じられなくなり、必死に自らの身を守ろうとしている。そんな者の目であった。
ゆらはその目をすぐに伏せ、逃げるように教室を駆け出ていく。取り残されたシノは、空振りした右手を力なく下ろし、再び玄関へと足を向けた。
もう誰とも顔を合わせたくなかった。いや、そうではなく、合わせられなかった。
ゆらをあのようにしたのは自分だ。他でもない自分が一時の感情で、あの明るく活発な少女だったゆらを、あのような姿に変えてしまったのだ。その事実は、シノの身体を沼底へ引きずり込むようにより重くさせた。
「あーあ、なんで教えちゃうかなぁ……」
教室を出て廊下を歩いていると、背後から下谷の低調な声が響いた。
「アイツは散々これまで私のことを馬鹿にしてきた性悪い人間なんだから、その罰をちゃんと受けさせなきゃダメだよ」
肩越しに背後を見ると、そこには下谷とユーカとリナの三人が立っていた。下谷はこちらの顔を見ながら、まるで何かの勝負に勝ったような薄笑いを口元に浮かべ、その後ろにいるユーカとリナは居心地悪そうに俯いている。
ふん、と下谷は鼻で笑い、シノを追い越して先へ歩いて行く。その後をユーカとリナが引きずられるようにしてついていくが、二人は揃って不安げな眼差しをこちらへ向けてきた。
『ごめんなさい』
その目は、明らかにそう言っていた。
『私のこと、軽蔑したでしょ? 見損なったでしょ?』
そう語りかけてくるその目に、シノは首を横に振って見せた。
あなたたちのことを憎く思ってなどいない。軽蔑などしていない。自分が二人よりもずっと重い罪を犯したという自覚があるためか、それともただ頭が重く何も考えられないためか、シノは心からそう思ったのだった。
外へ出ると、まるで木枯らしのように冷たく強い風が膝を撫でていき、ひどく寒かった。夏を間近に控え、青葉を茂らせるイチョウ並木がザワザワと不安げに揺れているのを見るともなしに見ながら歩き、やがて家へと着くと、玄関には鍵がかかっている。
鍵を開けて家へと入り、部屋で普段着へと着替えて洗面所で手を洗ってから、何か飲み物を探してキッチンへと向かうと、食卓に千円札が一枚、書き置きと共に置かれてある。
何気なく手に取ったその書き置きには、こう書かれてあった。
『お父さんが入院することになったので、母も病院にいます。できれば、あなたも来てあげてください。』
「入院……?」
シノはその言葉にギクリとして、妙に胸騒ぎを感じながらすぐさま母に電話をかけた。すると、通話口の向こうから、まるで泣き疲れたように元気のない母の声が聞こえてきた。
そしてシノは、父がきのう、余命一ヶ月の肝臓癌と医者から告知されていたことを、この時ようやく知ったのだった。




