悪魔。
パァン!
耳がキーンとするくらいの破裂音が、すぐ耳元で鳴り響いた。
何が起こったのか理解できず、シノは教室へ入る扉のすぐ手前で呆然と立ち尽くし、目の前で顔を真っ赤にしながらこちらを睨みつけているゆらを見返す。
朝、学校へ登校し、教室へ入ろうと思った直前のことだった。教室を早足に駆け出て来たゆらと危うくぶつかりかけたと思った直後、頬に鋭い痛みが走り、廊下に小気味よいほどの破裂音が鳴り響いていた。
ゆらが振り抜いてそのまま硬直させている右手を見て、シノはようやく自分がビンタをされたのだということに気がついた。
「え……」
「アンタ、いい気味だって……思ってんの?」
周囲にいる人皆が息を呑んでいることが解る張り詰めた静寂の中で、ゆらが一語一語を噛み締めるようにしながら言う。
「この、悪魔っ……!」
叩きつけるように言って、ゆらは目に涙をにじませながらトイレのほうへと走って行った。
シノはじぃんと熱い左の頬を押さえながら立ち尽くしたが、唖然としたようにこちらを見つめる人や、何があったのかと怪訝そうな顔をしながら通り過ぎていく人の目に改めて気がつくと、カッと恥ずかしさで顔を熱くしながら逃げるように教室へと入る。
しかし、そこへ入ってすぐ、シノは思わず足を止めた。そこでもまた、全ての目がじっとこちらを向いている。
そして、そのほとんどの目はシノを心底、軽蔑している目であった。嘲りなどではなく、剥き出しの軽蔑をこちらへ突きつけている目であった。
しんと静まり返るクラスの中、シノは慌てて目を伏せ、自らの席に着く。すると、やがて、教室中に刺々しい囁き声が立ち上り始めた。
中でも、聞こえよがしにこちらのことを罵り、また教室にはいないゆらを憐れんでいる声の聞こえてくるほうをちらりと伺ってみると、クラスの女子をほとんど集めたようなそのグループの中心には、悲しげな表情をした下谷の姿があった。
その暗い表情の、しかし瞳だけは鋭く光った下谷と視線が合った瞬間、シノは直感的に自らの状況を理解した。
ゆらだけではない。自分もまた、下谷の罠に嵌められたのだ。
『休み時間が暇だからサ、よく人の話し声、聞いてるんだ。おかげで、私はみんなが思う以上にみんなのこと知ってるよ』
昨日、下谷が言っていたこの言葉は本当だった。特に今日は、これまでにないほど教室が静まり返っていたから、どんな小さな話し声でもよく耳に入ってきた。
特に、朝から休み時間の間はほとんどずっと喋りっぱなしである下谷の声は聞こえすぎるほどよく聞こえてきて、皆に広まっている話の詳細もすぐに解った。
下谷が、朝のホームルームからずっと空席のままであるゆらの席を申し訳なさそうに見やりながら言った話をまとめると、それはおおよそこのようなものである。
『私はよく解らないが、朝岡さんと希司さんの二人は、一人の男子を巡って憎み合っていたらしい。それで昨日、希司さんが朝岡さんを罠に嵌めるために、その男子が書いたように見せかけた偽のラブレターを朝岡さんの下駄箱に入れた。
でも、初め希司さんは、下駄箱に手紙を入れる役割を私に押しつけようとしてきた。私が朝岡さんによく思われていないことを知っていて、これに協力してくれれば、ちょうど朝岡が抜けていくことになるし、私をグループに入れてあげてもいいと言ってきた。
当然、私はそれを断った。これは立派なイジメだ、こんなことをするのはよくないと希司さんを止めた。そうしたら、希司さんは怒ってどこかへ行った。だから私は、てっきり希司さんは諦めてくれたんだろうと思っていた。
でもどうやら、希司さんはあの時、朝岡さんの下駄箱に偽のラブレターを入れにいっていたらしい。今朝、皆の話を聞いて、私はとても驚いている。自分が朝岡さんを守ってあげられなかったことが悔しいし、悲しい……』
思わず目眩がした。
席を立って、今度は自分が下谷にビンタを張ってやりたい衝動に駆られたが、そのようなことをすれば余計に自分の立場が悪くなることは明らかだったから、どうにかそれは堪えた。がしかし、既に自分を取り巻く状況は最悪と言えた。
ここにいる誰もがこちらを軽蔑していた。まるで汚物を見るような目がどこへ行ってもこちらを取り囲み、ゆらが自分へ叩きつけた『悪魔』という言葉が、自分の名前と一緒になってそこかしこで囁かれていた。
――どうしてこんなことに……。
居場所がないとは、まさしくこのことだった。
授業中でさえほとんど目を上げることもできず、シノは耳を塞ぐように頭を抱え続けた。トイレへ行くとき以外はじっと自らの席で目を伏せ、周囲を遮断するように自らの中に閉じこもりながら、しかしむしろ周囲に神経を張り巡らせ続けた。
やがて昼休みの時間になった。ふとゆらの席を見てみると、その机の横からは鞄がなくなっていた。
どうやら、ゆらは早退をしたらしい。ゆらのことを噂する、失笑を含んだような話し声が耳に入ってきたこともあってそれを知ると、自分も同じく早退しようかと思った。
しかし、親にこの状況をどう説明すればいいのかという問題があることに気がついて、その考えは却下した。絶対に親にだけは知られたくない。まるで本能的な感情のように、その思いに迷いはなかった。
教室中で大っぴらに自分の悪口が言われるのはイヤだが、今日も昼休みは図書室で過ごそうか。そう思った時、ふと視界の端に水越の姿が映った。
水越は今日も、窓際最後尾の席で、遠い眼差しで外を眺めている。周囲はひたすら罪人を見るような眼差しをこちらへ注いでいたが、その少女だけは違ったのだった。
なぜ今まで自分はその存在を忘れていたのだろう。ここにただ一人、自分を嫌ってはいない人がいるじゃないか。
自分はまだ完全な一人ぼっちではない。救いを見つけたような気分で、シノは意を決して弁当を片手に席を立った。すると、ふっと教室の囁き声が消え、空気が肌に痛いほど張り詰める。
シノはその凍りついた静寂の中を歩き、水越の隣に立つと、腹に力を入れて笑顔を作る。
「あ、あの……水越さん、一緒にお弁当、食べよう?」
「どうして?」
水越はこちらを見上げ、その表情になんの色も浮かべないまま言った。
どうして、などという言葉が返ってくると思っていなかったシノが、その人形よりも人形のような無表情に戸惑うと、水越はその目にほんのわずか不快の色を示し、
「私はあなたの仲間じゃない。一緒にしないで」
そう言って、あたかもシノを視界から払いのけるように窓外へと顔を向け直した。
自分が何を言われたのかよく解らず、シノは頬杖ついて向こうを向く水越をポカンと見下ろす。
『私はあなたの仲間じゃない。一緒にしないで』
その言葉が山彦のように繰り返し頭の中に鳴り響き、全身にまでしみ渡った時、シノはようやくその言葉の意味を理解した。そしてまた、自分という人間を理解した。
自分は、自分と水越が互いに孤独だから、それで水越に声をかけた。ただそれだけのつもりだった。しかし、そうではない。
自分は水越を見下していたから――このクラスで唯一、自分の思いどおりになる、孤独で憐れな存在だと見下していたから、声をかけたのだ。水越はおそらくそれを看破して、それゆえにその目に不快の色を表したのだろう。
『私はあなたみたいに、皆に嫌われて孤独になっているわけではない。あなたの面倒ごとに私を巻き込まないで』
突き飛ばされたように、シノは自らの席へと戻った。ちらと水越の様子を伺ってみると、水越は何ごともなかったかのように、いつもと同じく遠いどこかへ視線を向けている。
その横顔を見た瞬間、シノはハッと気づいた。
水越の目は、父と目とよく似ていた。一切に興味がない目。全てに対して好意もなければ悪意もない、ただ物を見るためだけの目。こちらが劣った存在であることを痛感させられるだけの目――
自分が水越に感じていた妙な親近感は、これが原因だったのだ。
そう気がついた瞬間、シノは猛烈にこの場を去りたくなった。遠巻きにこちらを睨む多数の目にはどうにか堪えられても、まるで父がそこにいるような目が傍にあることだけには堪えることができなかった。
シノは教室を出て、放課後までの時間を保健室のベッドで過ごした。体調が悪いのは事実だったし、よほど病的な顔をしていたのか、養護教諭は仮病など疑う様子もなくベッドを使わせてくれた。




