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女子ノ聖域  作者: 茅原
多部市子の冒険
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冷たく静かな青い空。(エピローグ)

「――ってこと。だから、別に新田さんはミサキが男だってことを知ってたわけじゃないし、それが理由で嫌がらせをしたわけでもなかった。ただ、あたしたち……ってゆーか、市子をこの件に巻き込みたかっただけなんだってさ」

「すまないね、ミサキくん」


と、市子はテーブルの上に置かれてあったアーモンドチョコレートの箱からそれを一つ摘み出し、半ば無理矢理ミサキの口へと突っ込む。


「このイチコック・ホームズがあまりに優秀すぎるばかりに、君には迷惑をかけてしまったようだ。そのお詫びと言ってはなんだが、君にこのチョコをあげよう。ほら、二個でも三個でも、好きなだけ食べたまえ」

「い、市子……一つずつでいいから……!」

「おい。それ、あたしが買ってきたんだぞ……」


机の前に立ち、ミサキの部屋の窓から見える見慣れた前庭の景色を見渡していた佳奈は、じゃれ合う二人を見て思わず苦笑する。


青々とした前庭の芝生は、強い陽光に照らされて眩いほどに輝いている。壁の所々に黒いカビの生えた厳めしい石造りの教室棟は、白亜の城のような入道雲を背景に今日ももどっしりと地に足つけて佇み、学校の敷地を囲う山と森は、茂った青葉をセミの鳴き声に合わせて踊らすようにしてさやさやと揺らしている。


 あの夜から早くも一週間が経ち、開け放した窓からは、いよいよ夏の到来を告げるような熱気が流れ込んでくる。


 佳奈は、この季節が好きな人間だった。


 だから、鬱陶しくもどこか心待ちにしていたその強い陽の光や熱気を、まだしばらくは浴び続けていたい気分だったが、机の椅子を持ちつつ開け放した窓の前を離れ、共有スペースのテーブルで向き合って座っているミサキと市子の間に椅子を置いて、それに腰を落ち着ける。


「まあ、今回のことは……アレだよな。なるべく早く忘れたほうがいいよな。市子も言ってたけど、『人の噂も七十五日』って言うしさ。どーせみんな、すぐにミサキを噂することも忘れるよ」

「うむ、君もなかなか解ってきたね、カナソンくん」

「もう怪談騒ぎは終わったんだから、その呼び方もやめろよ」


と佳奈は、なぜか偉そうにふんぞり返っている市子を睥睨するが、その自らの言葉に戸惑いのようなものを感じて、嘆息しながら目を伏せる。


「でも……これで終わりにしてホントにいいのか? あたしたちは見たわけじゃないけど、倉水さんは、あの部屋の地下で、その……ヤバいものを見つけたって言ってたし……」

「ヤバいもの?」


 ミサキが口の中に詰め込まれていたチョコレートを飲み下してから、長い睫毛をパチパチさせて怪訝そうにこちらを見るが、市子がその口へ再びチョコレートを突っ込み、


「終わったことは、スッパリ忘れる。寝た子は起こさない。私の経験則から言うと、何ごとにおいてもそれが一番なのだよ、カナソンくん。倉水さんも、新田さんも学校からいなくなっちゃったんだし、もう全ては遥か彼方の謎の中よ」

「……それも、そうかもな」


 もうおそらくは長いあいだ眠りに就き、人々の記憶からも姿を消していた過去の怒りや恨みを掘り返したところで、いったい誰が幸福になるだろうか。


市子がまるで探偵のように、白百合同好会の秘密を解き明かしたあの夜から二日後、突然、倉水が学校を去っていった。

 

 それについて担任教師の五百雀(いおじやく)は、「家庭の事情での転校」と言っていたが、おそらくそれが事実ではないことを佳奈は知っていた。


しかし、知っていたからどうなると言うのだ。最早、ここに『禁忌』を企てていた人間――倉水はいないのだし、新田は部外者を装い何も語らず、生徒たちに『怪談』の言葉が上ることも薄情なほど減りつつある。


 やっと以前と同じ穏やかな雰囲気が学校に戻ってきたというのに、今更ことを蒸し返して、なんのためになる?


佳奈はそう納得し、これ以上の言葉は呑み込んだが、実際のところ、納得をしたというよりも、怖くてこれ以上は踏み込めなかった、倉水が残した言葉の真偽を確かめる勇気がなかった、と言ったほうが正しかった。


 自分のような人間が踏み込めば、きっと二度とは戻れない闇――あの深夜の森に蠢いていたような底なしの闇が、先に待ち受けている。佳奈は本能的に、それを感じ取ったのだった。


神妙に黙り込んだこちらと市子とを、ミサキは不思議そうな顔で見ていたが、やがてミサキまで表情に陰を作りながら言った。


「でも……倉水さんがホントにそんなことしようとしてたなんて、信じられないよ。あんなに優しい子なのに……」

「そうかな? 私は倉水さんの気持ちは理解できなくもないわよ」


市子はテーブルに載せていたビニール袋から希司生徒会長お墨つきのショートケーキを取り出し、そのプラスチックの上蓋をかぱんと取り外してから、ふと思い出したように立ち上がって、


「ミサキ、フォーク借りるわよ」

「あ、うん。どれでも使っていいよ」

「だって、ねぇ……。好きな人ができたと思ったら、実はその人は初めから自分を利用するつもりで自分に近づいていて、挙げ句には恋人としてはおろか人としても扱ってもらえなくて、しかも、それでもまだその人が好きでしょうがないんだから、それは、もうアレよ……『愛の憎しみほど激しきものなし』ってやつよねぇ」


 と、気怠げにキッチンからフォークを取ってきながら、ぶつくさと呟くように言う。

 

 まだ一週間前からの疲れが抜けきっていないように嘆息しながら椅子に座り直し、もそもそとあまり美味しくなさそうにケーキを口へ運び始める。


その視線は、ぼんやりと窓の外へと投げられている。青空に浮かぶ白雲に意識を飛ばしたような、いつも以上に気の抜けたような目をしながら、フォークで突き刺したイチゴを見つめ、


「白糸さんってさ……きっと昔から、とにかく色んな人に好かれて生きてきたのよね。だから、人から恨みを買うっていうことがどういうことなのか、たぶんよく解ってないんじゃないのかな。だとしたら、それって、とても恐ろしいことよね……」

「まるで自分は解ってたみたいな言いぐさだな、市子」

「んー……まあねぇ。私も、もう今年で十六だからねぇ……」


 ムキになって言い返してくることは期待していなかったが、それにしても上の空な言葉が返ってきて、佳奈はその張り合いのなさに口を尖らせながら頬杖つき、しょうがなく市子の視線を追って窓の外へと目をやる。


夏の輝きを湛えているはずの青い空は、それを四角く切り取る窓枠越しに見ると、妙に冷たく静かに、恐ろしく見えた。

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