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女子ノ聖域  作者: 茅原
多部市子の冒険
64/81

闇の中から。

「お、おい。言われた通りの場所に来たけど……ホントにやるのか?」


 声を潜めながら、佳奈は電話の向こうの市子に尋ねる。すると、


『うん、やるやる』


 煎餅でも囓っているのか、ボリボリと何か噛み砕くような音を立てながら、市子は言う。


『まあ、予定通りに上手くやってくれたまえよ、カナソンくん』

「あんた……まさか、またあたしで遊んでるわけじゃないだろうな?」

『今ちょうど二時くらいだから、たぶんもうそろそろ来るわよ。もしかしたら来ないかもしれないけど、その時はまた明日ってことで。じゃあ、スマホの光、見られたらマズいから、切るわね』


こちらの話を聞いているのかも解らない。やる気などカケラも感じられない様子で市子は言って、一方的に通話を切る。


「…………」


 ――自分は部屋の中にいるからって、暢気に……!


 と、佳奈は学校という孤島の周囲を覆う海のような森、その森に満ちる墨汁のようにねっとりとした闇の中で、部屋の窓に見える市子を睨みつける。が、やがて自分たちの部屋からパッと明かりが消え、その姿は見えなくなる。


 苦く嘆息しつつ、スマートフォンをひらひらとした長い袖にしまい、襟元を押さえながら木の根元に屈み込む。


 どういうツテからか演劇部から市子が借りてきた、ペラペラな素材の白装束をいま佳奈は着ているのだったが、適当に袖を通して帯を巻いてみただけのこの服がちゃんと脱げずにいてくれるかどうかということも、怖くて仕方がない。


 白装束と一緒に市子が借りてきたカツラの長い髪の毛も、全く扱いに慣れることができない。生まれてから今まで肩に髪がついたことがないのに、急に膝あたりまで髪を伸ばされたら、どうやって歩けばいいのかも解らなくなる。 


 そう思いつつ髪の毛を見やって、それが絡まるようにして雑草の中へ落ち込んでしまっていたことに気づき、佳奈は慌てて立ち上がる。


 夜の林には、真の闇とも呼べるような暗さが充ち満ちている。


 林の手前であるここ辺りはまだ外灯の光が届いているから、かろうじて足元も見える。だが五メートルほど奥には、世界の深淵のような闇が木々の間を埋め尽くしていた。


「ひっ……」


 うそ寒いそよ風が吹くと木々がかさかさと葉擦れの音を立て、佳奈は思わずビクリと身体を固くする。


 まるで闇の中で何かが動いたような、いやこの闇自体が生きて蠢いているような、そんな感覚に襲われて、佳奈は市子の姿を探して寮のほうを見た。


 が、既に全ての窓から明かりが消えている寮を見ても、どれが自室なのかさえ解らないのだった。


「同好会の人、ホントに来るのかよ……? ってゆーか、オオカミはホントに同好会の人なんだろうな……?」


 あまりの孤独さと怖さに耐えかねて、佳奈は独り言を呟く。


 そもそも、なぜ佳奈はよりにもよってこのような時刻に、このような場所にいるのか。それはほかでもない、


「オオカミを捕まえよう」


 市子がそう言ったからであった。


「あれ、たぶん白百合同好会の人っていうか、たぶん芋館さんなんじゃないかな? まあ、それは単なる勘だけど、大丈夫、本物のオオカミなんかじゃないから。

 それに、佳奈はその人を捕まえなくてもいいの。学校をうろつく巫女の格好をして驚かせば、たぶん慌てて寮に帰ってくるでしょ? その現場を私がしっかり押さえて、それで終わり。ね、簡単でしょ?」

「まあ、それだけなら……」


 と、安易にこの役を引き受けた自分がバカだった。確かに自分がするのは、巫女のコスプレをして林の中で佇むことだけである。


 しかし、深夜の二時に、誰が来るとも解らない林の中で身を潜めるという、それだけのことがいかに恐ろしいことか。佳奈はいま生まれて初めて、そのことを実感しているのだった。


 ――こんな当たり前のことに気づけなかったあたしもあたしなんだけど……。


 それにしたって、あまりにも怖すぎる。


 第一、もし人でないものが来たらどうするのだ。市子はあくまで推理で、オオカミの正体は白百合同好会の人間と言っているだけで、別に事実を知ってそう言っているわけではないのだ。

 

 本当に幽霊が――禁忌を警告する聖域の巫女がその姿を見せている可能性だって、まだ少しはあるのだ。


「いや、待てよ」


 そういえば市子は、『オオカミは白百合同好会の人』と言っていたが、巫女については何も言っていない。それはひょっとして、巫女は本当かもしれないと思っているということじゃないだろうか。


つい先程まで吹いていたそよ風が、今はピタリと止んでいる。


 風が起こす葉擦れの音が消えると、周囲には小さな虫の声だけが残る。リィ、リィという澄んだその声は、どこか物悲しく、まるで鈴の音のようにも聞こえる。と、


「っ……!」


 不意に、これまで耳にした音とは違う、明らかに生き物が立てた音が静寂を破った。しかも、その『ガサッ』という草を踏み分けるような音は、思わず耳を疑うほどに傍から聞こえた。


 佳奈は危うく叫び声を上げかけたが、どうにかそれを堪えて木の陰で身を強張らせる。


 と、ガサッ、ガサッと雑草を踏み分けながら、やがて闇の中にぬっと大きな何かが姿を現した。


 その大きな何か――黒い人影は、こちらに気づいた様子もなく傍らを歩き過ぎていったが、ほどなくその足を止めた。


 それから、手元でコソコソと何かをするような動きをして、『カチ、カチ』と何かスイッチを押すような小さい音を立てて、その足元を弱い光で照らし出した。そして、


「ほうき静かにクチタテしゃんせ……繭は柔肌、絹一重……わたしゃ十七、花なら蕾……手荒なさるなまだオボコ……」


 何か歌らしきものを呟きながら、再びゆっくりと歩み始めた。左手に持っている小さな光源を東の方角――寮のほうへと向けながら、一歩一歩、草を踏みしめるようにゆっくりとした足取りで歩いて行く。


 その後ろ姿を佳奈はつぶさに観察しながら、半ば呆然と立ち尽くしていた。


 まさに市子の言った通り、今そこを歩いているのは間違いなく――白百合同好会の副会長である芋館、その人であった。


 落ち着いて、とうに暗がりに慣れている目を凝らしてみると、黒っぽいジャージを着たその格好まで、よく見ることができた。


 一体この人は何をしているのだ。というか、自分はこんなバカげた仕掛けに怯えて大騒ぎをしていたのか。


 バカバカしい。何もかもバカバカしい。そう思うと、困惑と恥ずかしさとがない交ぜになったような感情が、怒りとなって頭を突き抜けた。


 この野郎、懲らしめてやる! 佳奈はキッと芋館の背中を睨みつけ、そして、あらん限りの声で叫んだのだった。


「お前ェ、何をしているゥ! 呪い殺すぞォォォ!」

「どわぁっ!? な――ひっ……ぎゃあああああああああああああああっ!」


 初め、ただ単純に驚いたように芋館はこちらを振り向いた。しかし、芋館に向かって両手を振り上げて走り出していたこちらを見ると、断末魔のような叫び声を上げながら一目散に逃げ始めた。


 木の根に足を引っ掛けてすっ転び、ほとんど前転するようにしながら森を出て、前庭を横切り寮へ向かって駆けていく。


 人を無様に驚かせるという妙な快感が胸に溢れて、佳奈の表情は思わず綻ぶ。が、すぐに自らの仕事を思い出し、袖にしまっておいたスマートフォンを手に取って市子に電話をかける。市子はすぐに応じる。


「おい、市子。成功したぞ! 芋館さんがそっちに逃げてった!」

『はいはい、おっけー。後はこっちに任せなさい』


 平淡に言って、市子はすぐに通話を切る。


 こちらも急がねば。佳奈は鬱陶しいカツラを脱ぎ、急いで芋館の後を追おうとしたが、ふと、先程まで芋館がいた所に小さな光が落ちていることに気づいて、そこへと歩み寄る。


 見ると、それはなんということもない、キーホルダー型の小さなライト二つであった。その先端には、ごく薄い黄色のビニールが輪ゴムで留められていて、これで光を適度に弱めつつ、光に黄色を帯びさせていたらしい。


 ここまで解れば、佳奈ももはやただ笑うしかなかった。走って追いかけるのもバカらしいくらいだったが、市子がもう予定の場所で芋館を捕まえて待っているはずである。


 佳奈は仕方なく走って芋館の後を追い、寮の玄関ではなくその南端、倉水の部屋のすぐ右手にある裏口へと向かった。すると、市子が言っていた通り、この時間であれば施錠されているはずのその裏口は、薄く開かれていた。


 それをそっと引いて、真っ暗な廊下を覗き込むと、


「やあ」


 と、右手を上げて暢気に挨拶をしてくる市子と、その隣で全て観念したように肩を落として立ち尽くしている芋館の姿があった。


「じゃあ、倉水さんの部屋で待たせてもらおっか」


 言って、市子は倉水の部屋の扉をコンコンと小さくノックする。


「おい、こんな夜中に……明日でもいいんじゃないのか?」

「こんなくだらないことは、できるだけ早く終わらせたほうがいいでしょ。さっさとこんなこと片づけて、みんなゆっくり寝ましょうってことで」

「……あ、そうだ。市子、これ」


 まあそういう考え方もあるかとボンヤリしてしまったが、佳奈はふと思い出して、先ほど拾った芋館のライトを、芋館ではなく市子に手渡す。


「ああ、これが芋館さんが使ってた物ってこと? ふむふむ、なるほど……はい、どうぞ芋館さん、お返しします」


 市子が差し出したそれを芋館は無言で受け取り、それから恨みのこもったような目でこちらを睨んだ。が、何かを言いたげにその口が開かれたのと同時、倉水の部屋の扉が静かに内へ引かれた。


「え……?」


市子を見上げ、それから佳奈と、その後ろの芋館を見て、倉水の顔からさっと血の気が失せたのが、暗闇の中でも解った。


 鼻まで届きそうな長い前髪の下で目を泳がす倉水に、市子は優しく語りかける。


「みんなで色々と話をしたいから、入れてもらってもいいかな。白糸さんも、新田さんもここに呼んでさ。――ああ、芋館さん、白糸さんに電話して、今すぐここに呼んでもらえます? もし今日が白糸さんの『当番』の日だったなら、直接呼びに行ってもらいたいんですけど」

「な……?」


 と、芋館は静寂の廊下に響き渡るような声を思わずといった様子で出して、それから声を潜めて市子に食いかかった。


「おい、なんでオマエ、巫女は当番制だって知ってるんだよ? 誰に聞いた? ああン?」

「別に、誰からも直接には聞いてませんよ。巫女を見たって言う人の証言を聞いて、巫女の身長がまちまちに変わっているような感じがしたから、そう思っただけです。

 でも、白糸さんが自分で巫女役をやっているかどうかは、今の芋館さんの反応を見るまで知りませんでした」


 くっ、と芋館はギロリと鋭く市子を睨みつけてから、小さく舌打ちして、


「待ってろ。いま白糸会長を呼んでくる」


 そう言うと、身を翻して階段のほうへと向かっていった。


 市子はその後ろ姿をしばし見やっていたが、やがてつとその目を戸口でオドオドと立ち尽くしている倉水へ向けると、


「倉水さんも、新田さんをここに呼んでおいてもらえる? 彼女もここにいなきゃいけない人間だって、倉水さんも、もう気づいてるのよね?」

「…………」


 倉水は俯き、何も返さなかった。が、やがて戸を開けたままこちらへ背を向け、部屋の中へと静かに歩き出した。

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