演技と計画。
「倉水さん、やっぱり可哀想だったな……」
昨夜目にした倉水の涙が、脳裏に焼きついて離れない。
どんよりとして一向に晴れない曇り空が余計に気分を陰鬱にさせ、食欲も湧かない。それどころか、
「う……」
夜からずっと、軽く吐き気までする。
「気持ち悪いの?」
「ああ、ちょっとだけ……。たぶん風邪ではないと思うんだけど、きのう倉水さんが泣いてるのを見てる時から、なんとなく、ずっと……」
が、それでもどうにか朝食のクロワッサンを胃へ流し込んで、佳奈は病人のように気怠く嘆息した。
市子もやはり同じような様子で、いつも以上に怠そうな、眠たげな顔で海藻サラダをモソモソと食んでいたが、
「ぐーすかぐーすか、寝息を高らかに眠ってくださっていたあなたに説明してさしあげますとですね」
向かいの席の生徒が腰を上げると、唐突に口を開いた。
「倉水さんは、全く純粋に可哀想っていうわけじゃないと思うわよ。だって、あのカラスは、倉水さんが自分で自分の部屋に呼んだものなんだもん」
「は? 自分で?」
佳奈がポカンとしながら反芻すると、市子は水で唇を潤してから、
「そう。懐中電灯で森のほうを照らしてね、それでカラスを呼んでたのよ。たぶん睡眠導入剤か何か入れられてたリンゴ酢を飲んじゃったあなたは暢気に寝てたけど――
まあ、あなたがイビキをかくぐらいぐっすり眠ってくれていたおかげで、私も一緒に眠っていると思い込んでくれたんだろうけど――共有テーブルで寝たフリしてた私はね、ちゃんと見てたのよ。倉水さんが窓の外に懐中電灯照らすところ」
「い、いや、でも……ああ、それってアレじゃないのか? カラスがいないかどうか、ただ確認してただけなんじゃないのか?」
「確認するのに、パチパチ光を点けたり消したりする意味はあるの? しかも、それでカラスがやってきたら丁寧に懐中電灯を棚に戻して、それから叫ぶ意味はあるの?」
「…………」
自分は寝ていて見ていないから、何も言い返せない。
しかし、きのう倉水は確かに、カラスが部屋に来たショックで泣いていたじゃないか。涙をポタポタとパジャマに落として、すすり泣いていたじゃないか。市子はあれが、自分たちを騙すための演技だったと言うのだろうか。
「そんなの……そんなのありえないだろ。だって、それじゃあ倉水さんは、自分で自分の悪い噂を学校に立ててることになるだろ。どうしてそんなことをする必要があるんだよ」
「さあ、どうしてなのかしらねぇ」
「しかもさ、倉水さんが自分でカラスを呼んでたとしたら、ミサキの部屋にカラスをけしかけたのも倉水さんってことになるわけ……?」
「さあ……どうなんでしょうなぁ」
市子はあくまでのらくらとしているが、この件についてふざけた姿勢で臨んでいるわけではない。だから、倉水が自分でカラスを呼ぶような行動をしていたという話は冗談ではなく、事実なのだろう。
倉水は、自分を騙していた――
その事実は、佳奈にとってほとんど衝撃的と言ってよく、先程までとは別の意味で食欲も失せてしまった。
しかし、市子にとってはまさにこれこそ期待していた事実だったのだろう。倉水にプレッシャーをかけて焦らせ、計画外の行動――つまり軽率な行動を取らせる。そうして、その尻尾を掴む……。
市子は、まさにまんまとそれに成功したことになる。最早、全てが自分の理解を超えている。佳奈はまだ夢の中にいるような呆然とした心地で、土曜日の半日授業のあいだ中、ひたすらボーッとすることしかできずにいた。だから、
「あの、すみません……」
と、帰りのホームルームが終わった後、新田に急に声をかけられた時、佳奈は空に垂れ込める厚い雲を見上げたまま、しばらくそれに気がつかなかった。が、
「あの、すみません……閏さん?」
と名を呼ばれて、ようやく、すぐ目の前に新田が立っていることに気がついた。
「え? あ……な、何、新田さん?」
「あ、いえ、すみません、あの……!」
と、こちらがわたわたとしてしまったせいか、新田までわたわたとし始めながら、その小動物的な円らな目を臆病そうにこちらへ向け、
「あの……昨日、閏さんと多部さん、真希の部屋に泊まったんですよね? 真希から、そう聞いたんですけど……」
「ああ……うん、泊まったよ」
簡単に頷いてしまっていいものかと悩んだが、倉水自身から既にその話を聞かされているのなら、誤魔化したほうが変に怪しいだろう。そう思って佳奈が頷くと、新田は心配そうに尋ねてくる。
「じゃあ、昨日の……まあ、正確には今日の夜ですけど……真希の部屋でカラスを見たんですか?」
「ま、まあ、そうかな?」
「それで、その、閏さんは――」
「カナソンくん、カナソンくん」
決意を込めたような瞳で、何か重大なことを尋ねようとしてきている気配を漂わせる新田を見て、佳奈はマズいと感じていた。だが、そこへ、ちょうどよくふらりと市子がやってきてくれた。
「お喋りをしている暇はないよ。行く所があるから、君もついてきてくれたまえ」
「あ、ああ、そうか、解った。――じゃあ、ごめんね、新田さん。話はまた今度」
キョトンと立ち尽くす新田を残して、佳奈は市子と共に足早に教室を出る。
それから、階段を下りだしてからようやくホッと嘆息して歩調を緩めるが、後ろを歩いていた市子は佳奈を追い越して進んでいく。
「今度はどこに行くんだ? もしかして、また倉水さんの部屋に……?」
慌てて市子の後を追いながらそう尋ねると、
「ううん、行くのは倉水さんの部屋じゃなくて、ミサキの部屋。ちょっとミサキに訊きたいことがあるから、お昼ご飯を食べる前に行っておきたいの」
「食べる前に? 別に食べた後でもいいだろ。どうせまたミサキの部屋に、昼ご飯持って行くんだから」
「あなたは何を暢気なことを言っているのよ。時は金なり。人生は一分一秒も無駄にはしていられないのよ」
まさか市子にこんな説教をされる日が来ようとは、思いもしなかった。しかし、どうせまたこちらをおちょくろうとふざけているのだろう。
佳奈は初めそう思ったが、隣へと並んで目にした市子の表情は、思いがけないほどに緊迫していた。




