悲痛の静寂。
「あの、じゃあ、私は……」
と、グレーの薄手のパジャマに身を包んだ倉水が、部屋の左側を占めている自らのスペースから共有スペースの所まで歩き出て来て、手をもじもじと胸の前で合わせながら言った。
「あ、うん。こっちのことは気にしないでいいから」
倉水が気を遣って掃除をしておいてくれたのだろうか、使われていないにも拘わらず、埃も積もっておらず綺麗だったベッドの畳に腰かけていた佳奈は、ゲームをしていたスマートフォンから顔を上げて笑みかける。
「うん、おやすみー」
佳奈と同じく制服姿で、窓の前に置かれている机の椅子にだらりと腰かけている市子は、顎を天井へと向けるようにしながら倉水のほうを見て、ゆらゆらと右手を振る。
はい、と倉水はやはり居心地悪そうに頷いて、しかし、
「あ、そうだ……!」
と、パタパタと小走りしながら部屋を出て行くと、キッチンのほうで冷蔵庫を開けたり閉めたりしてから、淡く黄色がかった飲み物が入ったコップを二つ持って戻ってきた。
「これ、この前に言ってたリンゴ酢の、水割り……。もし、よかったら……」
「あ、ご、ごめんね。気遣わせちゃって……!」
『リンゴ酢を飲んでみたい』
先日、自分がつい考えなしに言ってしまったことを気に懸けていたらしい倉水に、佳奈は立ち上がって頭を下げながらそれを受け取る。倉水は長い前髪の下で「いえ」と恥ずかしそうに微笑んで、自らのスペースへと戻っていった。
「おい、市子。これ、倉水さんがくれたぞ」
倉水が、自分のスペースの明かりを消したのを確認してから、佳奈は机の上にそのコップを置いた。
市子は倉水への礼も言わず、背もたれに深く背を預けたまま、それを眠たげに見つめていたが、その目をつとベッドのほうへ向ける。それから、チョイチョイと人差し指を曲げて、
『顔を近づけろ』
と無言のメッセージを投げてくる。佳奈はそれに従って市子へと顔を寄せ、
「どうした?」
「ベッド……普通の位置に戻ってるわね」
「え? ああ、そうだな。まあ、結構目立つ感じの工事の跡だったし……あたしたちにそう言われて、気になったんじゃないのか?」
「冷蔵庫の横にあった、酢のボトルも綺麗になくなってた」
「このリンゴ酢を作るのに使ったんだろ?」
ふぅん。と市子は鼻を鳴らして背を起こし、机の上のコップを持ち上げ、フラスコでも振るように目の前で軽く振る。すると、入れられていた氷がカラカラとキレイな音を立てて鳴った。
佳奈は自分のそれをちびりと口へ含んでみる。すると、
「んっ?」
それは、なんだかまるで酒のような味である。未成年なのだから、無論、これまで酒を飲んだことなど一度もない。しかし、酒のニオイと同じような味がして、咄嗟にそう思ったのだった。
しかし、後に残るのはすっきりとした甘みと酸味、瑞々しいりんごの香りで、悪くない。
「うん……美味いな、これ。初めて飲んだけど、リンゴ酢って、こんなに美味いのか」
「美味しいからって、『また頂戴』なんて言っちゃダメよ。佳奈は食べ物のことになったら、ホントに卑しいんだから」
「べ、別に卑しくはないだろ。ってゆーか、あたしはそんな食いしん坊じゃ……ふん」
思わずムキになって言い返してしまってから、佳奈はまた市子にからかわれていることに気づき、ぐっと怒りを呑み込んでベッドに腰かける。
市子はそんなこちらのことは見向きもせず、そっと椅子から腰を上げると、ベッドの頭上のにある床の工事跡へと歩み寄り、その傍に屈み込んで、それをしげしげと見つめ始めた。そして、
『ん?』
と、何かに気づいたような表情をした。まるで餌を食べる犬のように四つん這いになり、床に顔を近づける。
「おい、何やってんだ?」
突如、奇妙な行動を取り始めた市子を訝り、佳奈はそのゆらゆらと揺れる尻の傍に屈み込む。すると、市子が何も言わずすっと姿勢を直し、耳打ちしてきた。
「なんか、この下から少し変な……酸っぱいニオイがしない? ちょっと佳奈も嗅いでみて?」
「え? なんであたしも――」
しっ。と、市子が口の前に人差し指を立て、声を潜めるようにと指示してくる。指示してきつつ壁際から身を退き、こちらに場所を譲る。
なんであたしがこんなことをしなきゃいけないんだ。そう言いたくはあったが、すぐ傍で眠っている倉水に迷惑はかけられないので、渋々ながら大人しくそれに従う。
倉水の掃除が行き届いていて、ベッドの下にもホコリ一つないのが救いだった。市子と同じように四つん這いになりながら床の切れ目あたりへと鼻を近づけ、くんくんと鼻を鳴らしてみる。
すると、床の切れ目から微かに流れ出してくる冷えた空気に、わずかではあるが酸っぱさを感じた。しかし、
「これ、カビのニオイなんじゃないのか?」
それで工事をしたと言っているくらいなのだし、その工事から既に数年経っているのだから、やはりまた床下はカビで酷いことになっているのだろう。
変なニオイと言えば変なニオイだが、そこまで気になるような強烈なニオイでもない。そう佳奈が耳打ちをし返すと、
「んー……」
と、市子は表情を不満げに曇らせながら立ち上がり、椅子へと戻る。
いったい何が不満なのか。潔癖症というわけでもないのに、急に微かなニオイなどを気にし始めた市子が不思議だったが、今ここでお喋りをして倉水の迷惑になるわけにもいかない。
だから、それからは市子とも何も喋ることなくただぼんやりとしながら、リンゴ酢を少しずつ少しずつ飲んでいるうち、やがて妙に眠たくなってきてしまった。
スマートフォンを見ると、およそいつも眠りに就くのと同じ時間である。佳奈は飲みかけのコップをベッド脇の床に置きつつ、畳しかないベッドへ身を横にした。
また今夜もこの部屋にカラスがたかってくるかもしれないのだが、市子がちゃんと起きて傍にいてくれているという安心感のためか、眠たくてしょうがない。
と思って、うとうとと微睡んでいるうち――
「きゃっ!」
という甲高い叫び声を聞いた気がして、ドキリとしながら身体を跳ね起こした。すると、いつの間にか真っ暗になっている部屋に、
「倉水さん、落ち着いて!」
という、緊迫した市子の声が響いた。佳奈は慌ててベッドから立ち上がって駆け出し、ここからでは本棚に遮られて見えない部屋の左側のスペースへと走る。と、窓のすぐ前で、カラスの大きな羽根が広げられたのが見えた。
『ガァ、ガァ』
と、部屋中に響くような鳴き声を上げながら、今まさに窓のすぐ外の枠に、ひしめくようにしながら数匹のカラスが留まっているのだった。
「また、カラスが……!」
窓に面した机の手前で座り込みながら、倉水は両手で耳を必死に塞いでいる。そんな倉水と、倉水に寄り添って肩に手を置いている市子を呆然と見下ろしてから、佳奈はハッと自らの役割を思い出し、
「コラーっ! こんな所に集まってくんな! どっか行けっ!」
勢いよく窓を開いて、そう怒鳴りつけてやった。すると、窓枠の所だけでなく、窓の前の地面にまでいたカラスたちはすぐさま夜闇へと飛び立ち、鳴き声も上げることなく一目散に遠くへと逃げ去っていく。
それでも、カラスたちはまたここへやって来るかもしれない。佳奈はすぐさま窓を閉じると、キッチンへと走り、コップを一つ拝借して、それに水を入れて倉水のもとへと戻った。
市子に支えられてベッドに腰を下ろしていた倉水は、微かに震える手でそれを受け取ったが、当然ながら口をつける余裕などないようだった。
深夜の静寂に、倉水のすすり泣く声が悲痛に染み渡った……。




