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女子ノ聖域  作者: 茅原
雨ノ聖域
51/81

チョコレートケーキ。

 廊下でシノが待ちぼうけをしていないことに安堵しつつ部屋に入り、まるで暖かな春風に身を任すような気分で、いても立ってもいられずに部屋の掃除に取りかかった。


 自分がシノのためにすべきことは、小さな心遣いの積み重ねなのだ。シノが負担に思わず、自分も負担に思わない。

 

 そのバランスを見失わないようにしながら、相手をちゃんと気遣い続けていくこと。それが共同生活では大事なのだ。


 キッチンや脱衣場などには、どれだけ掃除をしてもシノの長い髪の毛が落ちている。


 アオイが鼻歌交じりでその辺りに掃除機をかけて、ついでに自分のスペースの掃除もしていると、ふと背後で扉が開けられた。


「こんな時間に掃除なんて珍しいですね、アオイさん」


現れたシノは、扉を開けて立ち尽くしたまま、少し驚いたように目を丸くする。


「あ、ああ、いや、ちょっと掃除をしたい気分になりまして……! で、でも、安心してください! 勝手にシノさんのほうを掃除したりはしてませんから!」

「え? いえ、別にそんな心配はしていませんが……というか、むしろ、ついでにしてくださってもよかったくらいです」


 ふふっと花のようにシノは微笑しながら、何やらフランス料理店のウェイトレスのようにその左手に載せていた、銀のボウルを伏せて被せたトレイをそっとテーブルに置く。


「……? それ、なんですか?」

「さあ、なんだと思いますか?」


 当てられるなら当ててみなさいとでも言いたげに、シノは何やら怪しげな笑みを口元に作り、それからテーブルの椅子を引く。


「アオイさん、どうぞここに座ってください」

「へ? は、はあ……」


 なんだろう? 訝りながらアオイは掃除機を本棚に立て置いて、恭しくシノが引いてくれたテーブルの椅子に腰かける。


「そのまま、ちょっと待っていてください。あ、それは絶対に開けちゃダメですからね。絶対ですよ」


 食に関しては一切の妥協もない、ようやくいつもの厳然とした表情を見せながらそう念を押し、シノは菫色の制服スカートをひらひらさせてキッチンへと歩いて行く。


 そして扉も閉めず、まるでこちらを監視するようにこちらの様子を伺いながら、お湯を沸かし始める。キッチンの下にある棚から硝子のポットを取り出し、カップへと手を伸ばして、


「あら? アオイさんのカップがありませんが……」

「あ、さっき使って……」


 アオイは慌てて腰を上げ、自分の机の上に置きっぱなししていたカップを駆け足で取りに行き、同じく駆け足でそれをシノに渡す。


「さ、さっき使ったばっかりなんで、別に洗わなくていいですから……!」

「そうですか」


 と、シノは受け取ったカップを軽く水洗いして布巾で拭くと、程なく湯気を噴き始めたヤカンの火を止め、そのお湯を空のガラスポットに注いで、それをまたカップに注いだり何をしたりと慣れた様子で作業を進めていく。


 アオイが再びテーブルの椅子に座り、何やら楽しそうなシノの横顔に見惚れるようにぼんやりとその様子を見ていると、やがてシノが紅茶を入れたカップを二つと、一人分のフォークと小皿、それから小さなナイフをお盆に載せてこちらへ戻ってきた。


 紅茶の香りが匂い立つカップをアオイの前に置くと、アオイの傍らに立ったまま、どこか緊張しているような様子で、


「どうぞ、クロッシュを開けてみてください」

「え? クロッシュ?」

「その蓋のことです」

「あ、ああ、これですか。なるほど、クロッシュ……」


 なんだコレは。何か生き物でも飛び出してくるんじゃないだろうなと怯えつつ、クロッシュというらしいそのボウルをゆっくりと持ち上げてみると――


 その中には、ワンホールのチョコレートケーキがあった。


その表面全体は、まるで新雪の積もったようにチョコもしくはココアのパウダーで覆われ、上面には薄くスライスされたチョコレートがパラパラと繊細にまぶされている。


 全体的にふんわりとした、淡い雰囲気の漂うケーキだったが、丹精に作り込まれていることが素人目にも解るためか、あたかも宝石のようにキラキラと輝いて見えるのだった。鼻腔をくすぐるチョコレートの深い香りが、その高級感をさらに際立てている。


 店のカウンター内に置かれていてもなんらおかしくないそんなケーキを前にして、アオイは思わず狼狽した。


「え? あ、あの……シノさん、これは……?」

「アオイさんにと思って、作ったんです」


 こちらが唖然としたのを見て、それでホッとしたように笑みを漏らしながら、シノは言う。


「アオイさんには、ずっとお世話になりっぱなしでしたから……ずっと、何かちゃんとしたお返しをしたいと思っていたんです。それで、このケーキを作ってみました。アオイさんでもたくさん食べられるような、甘さ控えめのチョコレートケーキを」

「俺――じゃなくて、私のために、ですか?」

「は、はい……」


と、シノは心なしかその小さな耳を朱く染めて、視線を泳がせながらこくと頷く。


「きょう一日、なんだか慌ただしくて、すみませんでした。でも、これを作るのに忙しかったんです。街へ材料を買いに行ったり、それからまた急いで調理をしたり……。それで、どうにかこうして作ることができました。本当は、もう少しだけ冷ましたかったんですが、あまり遅くなってもと思って……」

「い、いえ、大丈夫です! 今すぐ食べます! こういうのって気分も大事ですから!」


 思わず大きな声を出してしまいながらそう言うと、シノはパチクリとその大きな目を丸くしてから、


「そうですか。解りました。じゃあ、ちょっと待っていてくださいね」


 どこか嬉しそうにそう言うと、ナイフでケーキを切り分け、それを小皿に載せてフォークと一緒にアオイへ差し出す。


「どうぞ。召し上がれ」


少しはにかんだように微笑み、アオイは子供のように大きく頷いて、ケーキを口へ運んだ。


 甘さ控えめの、けれどやっぱり甘い、ふんわりと柔らかなチョコレートケーキ。

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