エピローグ。
「そっか……。アオイちゃんは、別に女の子になりたくてここに来たわけじゃなかったんだね」
誰もいない教室。遠くから漂ってくる吹奏楽器の音色。それと調和するように淡く黄色くなり始めた空へ目を向けながら、ミサキは溜息混じりに言った。
窓枠にもたれかかるミサキの、その傍にある机の上に座っていたアオイは、自分のスカートを摘み上げて、あははと乾いた笑いを浮かべる。
「うん。それなのに、結果的にはこんなことになっちゃって……ホント、なんでこうなったんだか」
うん、とミサキは複雑そうな微笑を浮かべながら頷いて、
「でも、よかったね。その……戻れて」
「え? ああ……いや、今は確かに元に戻れたけど、たぶん、また女になっちゃうんだよね。シノさんが卒業していなくなったら」
「そうなの?」
「もし俺が、ここの女子力に潰されないくらいの男気を身につけられれば、そうじゃないのかもしれないけど……実際にその時が来ないと解らないよね。あはは――アイタッ!?」
諦めの笑いを漏らしながら椅子を引き、そこにどっかと腰を下ろした直後、下腹部を猛烈な痛みが突き上げ、アオイは股間を押さえた。
「ど、どうしたの、アオイちゃん? 大丈夫?」
「だ、大丈夫。ちょ、ちょっと忘れてただけだから、『潰したらダメなものがついてる』ってこと……」
「そ、そう……」
と、ミサキは痛みを共感するように顔を引きつらせる。
「で、でも、わたしもアオイちゃんが男の子に戻ってくれて、本当に嬉しいよ。わたし達は、『漢の絆』で結ばれた親友なんだし……そ、それに、わたしは女の子のアオイちゃんより、男の子のアオイちゃんのほうが……その……」
「おーい、ミサキぃ? 何して……って、なんだ。アオイと話してたのか」
何か言いかけていたミサキの声を遮って、佳奈が騒々しく扉を開けて教室へ入ってきた。その後ろには市子の姿もある。
佳奈は軽くスキップするような足取りでこちらへ歩いて来て、
「ねえ、アオイ、ちょうどよかったよ。これからあたし達、って言ってもあたしと市子だけなんだけどさ、みんなでミサキの部屋で遊ぼうと思ってるんだ。だからさ、あんたも来ない? 今日、生徒会なんもないんだしさ」
「ミサキちゃんの部屋で?」
「うん。みんなでお菓子買って、集まりましょう。いいでしょ?」
と、すすすと忍び寄ってきていた市子が、背後からアオイに抱きついてきて、痴漢のようにそっとアオイの胸を撫でる。
きゃっとアオイが叫ぶのと同時、ミサキが慌てたように言う。
「え? わ、わたしの部屋? いつの間に、そんな……?」
「今、あたしと市子で決めたんだけど、別に問題ないでしょ? っていうか、どうせあんた、まだアオイにちゃんとあのこと言ってないんでしょ? まあ、色々あったけど……色々あったからこそ、あたし達はアオイの友達なわけじゃん? だから、あんたのことをちゃんとさ、アオイにも説明しておくべきだと思うんだよ、うん」
佳奈は腕組みして重々しく言うが、おそらく佳奈がミサキに言わせようとしていることを、アオイは既に知っているのだった。それに、今日はこれから大切な用がある。
「あ、あのさ、佳奈。悪いんだけど、今日はちょっと用事があるっていうか、シノさんの傍にいないといけなくて……」
「またぁ?」
と、市子がアオイの肩に顎を載せながら囁く。
「あなた達、生徒会長と副会長の関係で、しかもルームメイトだからって言ったって、ちょっと仲がよすぎない? 実はあなた達デキてるんじゃないかって噂になってるの、知ってる?」
「え? デ、デキ……ち、違うよ。まだシノさんが生徒会長になってからたった一週間で、いろいろ不安定でしょ? シノさんを襲ったりする人もいるから、それで一緒にいるだけだよ」
と、アオイは女郎蜘蛛のように絡みついてくる市子の腕の中から逃れて、
「まあ、そういうわけだから、遊ぶのは今度ね。また明日!」
一方的に三人に別れを告げて、教室を後にした。
――さっきミサキちゃん、何を言おうとしたんだろう? まさか……。
ミサキは男である。そう解っているのに、その愛の告白めいた言葉に、アオイは思わずドキドキしてしまったのだった。その恥ずかしさもあって、慌ててミサキから逃げてしまった。
――でも、ミサキちゃんなら、私……。
「って、何を考えてんだぁ、私はあああぁぁぁぁぁぁ!?」
乙女のようにときめく胸を押さえて、アオイは人目も憚らずに猛ダッシュで寮へと向かう。
そうして寮の玄関を入ると、まさにベストタイミングだった。玄関を入ってすぐの廊下で、シノがどうやら三年生らしき生徒二人に絡まれていたのだ。
「シノさんに何か用ですか?」
女子と比べると高い身長を活かして、まるでバーの黒人ガードマンのように傲然と二人の後ろに立つと、それだけで気圧されたように、その上級生達は捨て台詞を残して去っていく。
「ありがとうございます、アオイさん。また助かりました。せっかく椿さんにお渡しする物が手に入ったのに、台無しになってしまうところでした」
シノはぺこりと頭を下げてから、その手に提げていた購買のビニール袋を掲げてアオイに見せる。どうやら、宮首に献上する五十個のケーキの一つ目を、さっそく手に入れたらしい。
「それはよかったです。じゃあ、今日これから洋菓子クラブに行くんですか?」
「そうですね。やはりケーキは鮮度が大事ですから、そうしようと思います」
そうどこか楽しげに微笑んで、シノは階段へと足を向ける。アオイもそれに続き、シノの少し大きめなお尻と、スカートからチラチラ見える膝の裏をぼんやり見つつ階段を上っていると、シノがぼそりと言った。
「アオイさん、わたしは本当に正しかったんでしょうか?」
「ん? 何がですか?」
「さっきの人達のことです。わたしは、わたしが女子力を消すことで困る人がいることは、ちゃんと理解していたつもりです。ですが、そういう人が……なんというか、予想以上に多い気がして……」
「いえ、シノさんは間違っていませんよ。だから、女王らしくもっと堂々としていてください」
アオイはシノを追い越しつつその手からケーキの袋を抜き取って持ち、ずんずんと階段を上る。と、目の前の二階の廊下を、
「お、お願いします! 追ってこないでください、椿様~!」
「こらっ! 待ちなさい、ユキったら!」
ドタドタと子供のように追いかけっこをしながら、ユキと椿の二人が走り過ぎていく。かと思いきや、椿がハッと立ち止まって、
「あら、百合園さん、シノ、ご機嫌よう! あ、あの、ちょっと今急いでいて、お話をしている時間がないの! だから、後でぜひ洋菓子クラブの部室へいらっしゃって? 何か美味しいものをご馳走するから! きっとよ!」
と、ほぼ息継ぎもせずに言って、再びユキを追って走って行く。だが、姿を消した廊下の角から再び姿を見せて、
「シノ!」
と、手に持っていた何かをシノへと放り投げた。
「洋菓子クラブの部室の鍵よ! また洋菓子クラブに戻ってきてくれるんでしょう? なら、あなたがそれを持っていてちょうだい。頼んだわよ!」
「は、はい……」
目を丸くして掌の鍵と椿の顔とを見比べるシノに力強く頷いてから、
「待ちなさい、こら! もう、ユキ~!」
椿は再び怒声を上げて廊下を走っていく。
そんな椿と、呆然と立ち尽くすシノの姿にアオイは思わず笑みを溢しながら、再び足を動かして階段を上る。
「必要なのは時間です。きっとこれから少しずつ、みんな慣れていきますよ。ああ、これでいいんだなって、そう気づいていってくれるはずです。気長に待ちましょう」
「時間……ですか。そうですよね。何事も気長に、ですよね」
ほっとしたように言いながら、シノも階段を上る足を動かす。が、その言葉は実感として出たものと言うにはあまりにか細く、その目はまだ不安げに下を向いている。
アオイはそのつむじに向かって、肩越しに頷いてみせる。
「ええ、時間が全て解決してくれます。それまで一緒にお茶でも飲みながら、のんびり待ちましょう」
「……そうですね。せっかく『野望』を成し遂げたのに、俯いてばかりいるなんておかしいですよね」
静かに呟くようにシノは言い、それから小走りに階段を上がってくる。桜の花のように甘い匂いを伴いながらアオイの隣に並んで、何も言わず、はにかむように頬を染めながら、にこりと微笑んで見せるのだった。
そんな乙女の笑顔を目の当たりにして、アオイの呼吸は思わず止まる。
例えこれから女性の作法を身につけようとも、自分が心の底から女になれる日は来そうにないな。ドキドキと高鳴る鼓動の音を聞きながら、そう冷静に確信したアオイであった。




