聖女の野望。
十秒か、三十秒か、もしくは一分か。もっと長い時間が流れたように感じられるほどの重く苦しい静寂が、場に充ち満ちた。
だが、ふとユキの青い瞳が微かに揺れた。そして、
「ッ……ハハッ、アハハハハハッ!」
大口を開けて、ユキが笑い出した。
「ぐっ!」
アオイの腹に、ユキの足の裏が叩き込まれる。吹き飛ばされて、アオイは息もできないような腹の痛みに呻く。
「アオイさん!」
と、シノが叫ぶが、なおも一人哄笑し続けていたユキのその声が、程なく尻すぼみになった。
「ハ……ハハ……バカな……。こんな、こんなことで私の女子力が……? 私の『甘き迷宮』が……?」
ユキは額を抑えながらぶつぶつと呟き、つとその目を俺へと向ける。だがすぐに、サッとその目を逸らして壁際へと後ずさり、畳を凝視する。
「み、見るなっ! 私を見るな! これ以上、私をどうする気だ!? やめろ! 私を殺さないでくれ!」
「殺しなんて……」
パンツの尻には穴が空いた全身下着姿で、頭にもパンツを被った不審者が傍にいれば、それは確かに命の危機を覚えるかもしれない。
だが、つい今しがたまで人を見下し、冷笑していたユキとはまるで異なるその豹変ぶりに、アオイは思わず戸惑う。
どうしていいか解らない。とにかく落ち着かせようか、とアオイがユキに歩み寄ろうとした、その瞬間だった。
「や、やめて、百合園さん!」
背後で椿が叫び、シノの手を振り払うようにしてこちらへと走ってくる。たどたどしい足取りで、ほとんど倒れ込むようにユキの背中に抱きつくと、
「どうしてユキを虐めるの!? ユキが、こんなに怖がっている……! お願いだから、もうやめて! ユキを虐めないで!」
「椿様……」
自らにしがみついて、涙を流し懇願する椿を、ユキは呆然としたような目で見つめる。そして、まるで絶望したように揺れたその目をギュッと瞑り、ただ静かに嗚咽を漏らし始めた。その白い膝に、ポタポタと涙の雫が落ちる。
「ユキさん……」
と、アオイの隣に立ちながらシノが呟く。すると卒然、ソファに横たわっていた久々原がすっくと立ち上がった。
なんだ、今ごろ目が覚めたのかとアオイは無関心にそれを見て、息を呑んだ。久々原の目が、まるで鬼火を宿したように青く光っていたのだった。
久々原はその青い目だけを動かしてこの場にいる人間を睥睨し、
「ユキ・ラモリエールに勝利したのは……お前か」
と、その目をシノへと定めると、久々原のものではない、底冷えしたように低い女性の声で言った。
アオイはそのまさに人の変わったような久々原の瞳にちらと射すくめられ、それだけで声を失った。しかし、まるで峻険な高峰でも前にしたかのような、そのただならぬ気配から容易に悟ることができた。
――これが、山岳の巫女(山ガール)……!
『もしあなたが生徒会長を倒して新たなそれとなり、山岳の巫女(山ガール)による祝福を得られれば、あなたの女子力は今の数倍、数十倍のものとなるでしょう』
理事長の言っていたこの言葉の時が、いま訪れたのだ。シノの野望が叶うその瞬間が、今まさに到来しようとしているのだ。
アオイは息を呑んで、シノを見る。と、
「え? い、いえ、違います! わたしではなく、アオイさん――この方です!」
なぜかシノはあたふたとそう言い、アオイの肩を叩く。アオイはギョッとして、
「うぇっ!? ちょっ、シ、シノさん! なに言ってるんですか! あれは久々原さんじゃないんですよ!」
「そ、それは解っていますが、しかし……!」
「解ってるなら、しっかりしてください! シノさんには、どうしても果たしたい野望があるんじゃなかったんですか!」
今こそ待ちに待った時のはずなのに、何を動転しているんだ。アオイが叱責するようにシノを諭すと、シノはハッとしたように目を見開いてから、
「は、はい、そうでしたね。そう、そうでした……」
静かに頷いた。部屋の片隅で身を寄せ合う椿とユキを見やりつつ、自らの菫色のスカーフに手を当てる。
「わたしには、成し遂げねばならないことがあります。そのために、わたしはアオイさんと共にここへ来たのです」
「ならば」
と、久々原――否、久々原であって久々原ではない者が、再び口を開く。
「希司シノ。そなたに問う。そなたはこの学舎の治者となりて、この学舎を、聖域を、いかように導くつもりか」
様子のおかしい久々原に対して、シノは身構えるように肩を強張らせたが、すぐに状況を理解したらしい。背を伸ばし、毅然と答えた。
「それは、解りません」
「……解らぬと?」
「はい。わたしがこうして生徒会長との戦いに挑んだのは、あくまで自分のため、自分の友人のためです。なのでわたしは、学校を導くだとか、そんな大きなことは解りません。わたしにはただ、この学校を友人といつも笑い会えるような楽しい場所にしたいという、そういう願いがあるだけです」
魂の奥底を見つめるような久々原――山岳の巫女(山ガール)の目と対峙しながら、シノはきっぱりと断言する。山岳の巫女(山ガール)は真意を見定めようとするように、その青火の瞳でシノをじっと見つめてしばし沈黙し、やがて重く口を開いた。
「よかろう。いささか退屈であるが、そなたには確かに信念がある。認めようぞ。そなたが、この聖域の新たなる治者である」
「はい、ありがとうございます」
「新たなる美しき治者よ。我らはそなたを見込み、力を授ける。希司シノ、そなたは美しい。我らは美しき少女を愛し、そのいかなる行為をも肯定する。つまり我らは、そなたがそなたの美しさを磨き続ける限り、そなたの全てを愛すと誓おう。さあ、そなたの望む世界を我らに示せ」
山岳の巫女(山ガール)がそう言い終えると、シノの身体の周囲にぼうっと白い光が浮かび始めた。
それはあたかも神々しい光の着物であり、シノはまさに祝福を受けていた。アオイはそんなシノを、目を奪われたように見つめ、言葉を失う。
「アオイさん……。わたしは、この学校から女子力を消します」
と、シノがこちらへ背を向けたまま言った。
「わたしの『絶対聖域』(サンクチユアリィ)でこの学校全体を包み込み、女子力を全て無効化します」
「……はい」
シノがこう言うのであろうことは解っていた。アオイが微笑しながら頷くと、シノは未だ幾分の迷いを含んだような表情でこちらを向く。
「おそらく、女子力を消し去ったからと言って、ここが誰にとっても楽園のような場所となるということはないでしょう。女子力が消えたことで、逆に苦痛を感じてしまう人も少なからずいるはずです。
それに、わたしがいなくなれば、またここに女子力は戻ってしまう。しかし、それでもわたしは……この選択が今にとっての最良であると、そう信じています」
アオイは何も言わず、ただ頷いて見せる。
シノは張り詰めた表情でこちらを見上げて、手が自ずとアオイを求めたようにその左手をアオイへ差し出す。自分自身にシノを繋ぎ止めてやるように、その微かに震える手を握ってアオイは微笑みかける。
すると、シノはほっと肩から力を抜くように表情を和らげ、そしてその左手を真上へと掲げた。遥か高き星を掴むように上げたその手を見上げ、その桜色の唇から、聖女の意志を宣言する。
「ここに、わたしの聖域を」




