倒すべき敵は。
「ずいぶん早いんですね、アオイさん。だいぶ待ちましたか?」
部屋の扉の前で佇みながら、鍵を持っているシノを待っていると、遠くからこちらに気がついたらしいシノが小走りにやって来た。
いえ、とだけアオイは答え、シノと共に部屋へと入ると、私服の赤いジャージへと着替え、共有スペースの椅子に腰かける。すると、白い半袖のトップスと七分丈のタイトジーンズに着替えてきたシノが、普通であれば、
『今日はコーヒーとお茶、どちらがいいですか?』
と訊いてくるに違いないのに、椅子に座ったきり何も喋らないのだった。
いつ、どうやってシノに謝ろうかと悩んでいたアオイは、いつもと様子の違うシノにすぐに気づいて、おずおずと目を上げてその表情を伺ってみる。すると、
「うっ」
獲物を狙う猫のような目で、こちらをじーっと見つめていたシノと目が合った。アオイは驚いて目を逸らすが、シノは逃がすまいとするように言う。
「廊下で見た時から思っていたんですが、アオイさん、なんだか様子がおかしいです。どうかしたんですか? 何かあったんですか?」
「えーと……はい。実は、その……」
このシノの目からは逃げられないだろう。もう打ち明けるしかない。いよいよ心を決めて、アオイは自分のしでかした失敗を正直に打ち明けた。
ユキとケーキの奪い合いになってしまったこと。ユキにやられて、思わず手を出し返してしまったこと。そして、ユキが最後に『椿へ報告する』と言ったこと。
それらを一つの嘘も脚色もなくシノに明かし終えると、アオイは力なくうなだれた。
「すみません。これって、やっぱりすごくマズいですよね……」
「ともかく、アオイさんが無事でよかったです。鼻や口は大丈夫ですか? 立ち眩みは、まだありますか?」
「いえ、もう大丈夫です。立ち眩みもありません」
「そうですか……」
シノは肩から力を抜き、やや目を伏せて言う。
「しかし、そうですね。こうなってしまったからには、洋菓子クラブ……引いては生徒会との戦いが始まってしまうのを止めるのは非常に難しいかもしれません。わたしは、アオイさんがもっとこの学校や、女子力というものに慣れてからと考えていたのですが……」
「いえ、私のことはいいんです。それより、このままじゃ私達、久々原さんよりも先に宮首さんと戦わなくちゃいけないん……ですよね、やっぱり」
「はい、おそらくはそうなるでしょう」
「そ、それはダメです! なんとかなりませんか?」
と、アオイは腰を浮かして訴える。
「私が買った、シノさんのお気に入りのケーキ……ユキさんはあれを、宮首さんの大好物だと言っていました。それで私、やっぱり確信したんです。シノさんが久々原さんを倒して救おうとしている友人って、宮首さんなんですよね?」
「それは……。ええ、そうです。しかし――」
今度は逆の立場になったようにアオイがシノを見据えると、シノは気まずそうにしながら小さく頷き、それからすぐに決然と口を開く。だが、アオイはその口を封じるように言う。
「なんていうか、上手く言えないですけど……シノさんと宮首さんの絆は、きっとまだ切れていません。宮首さんは記憶を操作されて、それでシノさんを憎んでいる。でも、それだけじゃないと思うんです。シノさんが憎いはずなのに、どうしてもシノさんから目を逸らすことができないから、あんなにも突っかかってくるんです。二人は今でも、敵であって敵じゃないんだ。だから、絶対に宮首さんとは戦うべきじゃありません。戦うきっかけを作った私が言うのもなんですけど……」
「いえ、アオイさんがきっかけなのではありません。わたしが、いつか椿さんを本気で打ち負かさねばならない日が来るというのは、ずっと以前から決まっていたようなことです。既に覚悟は決めています」
シノは真っ直ぐな瞳でアオイを見ながら言い、そして諦めたように笑うのだった。
「できるなら、わたしも椿さんと戦いたくなんてありません。ですが、戦うしかないんです。信じるしかないんです。もしまだ絆というものが残っているなら、それがこんな戦いで壊れるものではないということを」
「そうかもしれないですけど……でも、本当にそうなんですか?」
「何が、ですか?」
「本当に、宮首さんとの戦いは避けられないんでしょうか。私は……そうは思いません。確かに、覚悟を決めて戦うことは美しいです。でも、それってある意味、ただのカッコつけじゃありませんか? シノさんは、宮首さんを本気で正面から受け止めることから逃げている、そうとも言えるんじゃないですか?」
「逃げている……? 違います、わたしは逃げてなんかいません!」
と、シノは珍しく気色ばんでイスから立ち上がる。シノに睨まれ、アオイは思わずたじろぐが、なんとか自分の中の男を奮い立たせて淡々と続ける。
「なら、絶対にこちらは宮首さんに手を出すべきじゃありません。もしもこれから、宮首さん、ユキさんとの戦いになったとしても、私達はひたすら耐えなくちゃならない。なんなら、私はこれから土下座でもなんでもします。だって私達の敵は、あくまで生徒会長の久々原さんなんですから」
この提案は、もしかすると自分にとっての『逃げ』であるかもしれない。自分のせいで二人の仲が修復不可能なほど壊れてしまうのを、なんとか避けようとしているだけなのかもしれない。ないとは言い切れないアオイのその意図を読み取ったように、シノは引かずに続ける。
「それは解っています。しかし、挑まれれば戦うしかありません。宮首さんの女子力はとても強力です。こちらもやり返すという気概で臨まなければ、『絶対聖域』(サンクチユアリィ)をきっと打ち破られてしまいます」
「いえ、シノさんなら耐えられます。宮首さんからの理不尽な憎しみを全て受け止めるのは辛いでしょうけど、今、シノさんは一人じゃありません。私を頼ってください。私が、ずっと隣にいますから。心の痛みまで、全て一人で受け止める必要はないんですから」
「…………」
アオイの言葉にシノは呆けたように立ち尽くして、そしてわずかにその瞳を潤ませた――ような気がしたが、
「解りました」
それを隠すようにニコリと目を細めて、小さく嘆息しながら椅子へ腰を下ろした。
「そうですね。わたし達二人で、生徒会長を倒しましょう。きっと今がその時です」
はい、と安堵しながらアオイも微笑む。
「じゃあ、そうなったら、やっぱりこれから宮首さんの所へ行きましょう。それで、少しのあいだ私達との戦いを待ってもらうように頼むんです。戦いは引き受けつつ、数日はこちらに手を出さないように頼む。そのほうが、きっとこっちにとって安全なはずです」
「なるほど……」
とシノは小さく頷きながら、何か考え込むように視線をテーブルの木目へ向ける。
「それもいいですが……もっと上手くやれる方法がある気がします。ちょっと、その辺りの椿さんとのやり取りはわたしに任せてもらってもよいでしょうか?」
「それはもちろん。何か、いい作戦でも思いついたんですか?」
「ギブ・アンド・テイク。そのやりかた自体は変わりませんよ。同じようなことです」
「はあ……」
何やら悪巧みをするような顔でニヤリとするシノが何を考えているのかは、全く推し量ることもできない。だが確かに宮首との交渉は、宮首を自分よりもよく知っているシノに任せるのがよいに違いない。アオイはそう納得して、
「よし。じゃあ、そうと決まればさっそく行きましょうか」
「ちょっと待ってください、アオイさん」
さあ土下座でもなんでもしてやると意気込んでアオイは立ち上がるが、シノは至って冷静に言う。
「これから先、何があるか解りません。ですから、そのための準備をしていきましょう。それにそもそも、私服で部室棟へ行くことは許されていません」
「あ、すいません。つい勢いで服のことを……。す、すぐに着替えます」
そう言って、アオイは一度、脱いだ制服へと慌てて着替え始める。開けたクローゼットの前でジャージを脱ぎ、ハンガーに掛けてある制服へと手を伸ばして、はたと動きを止める。
――今こそ真の覚悟を決める時、か。
クローゼット下部の引き出しをゆっくりと開き、そこに鎮座させていた母の下着を見下ろす。
薄ピンク色の若々しい下着と、情熱的に真っ赤な下着。アオイが迷うこともなく掴み出したのは、無論、禍々しいほどの女子力を放つ真っ赤な下着、母のブラジャーである。
軍曹に知られたらどやされただろうが、アオイは今日もブラジャーを着けずに過ごしていた。しかし、胸が締められて呼吸が苦しくなるだとか、別に着けなくても困る大きさじゃないだとか、そんなくだらない言い訳を並べていられる状況ではないのだ。
――私は……本当の女になるんだ!
意を決して、アオイは身につけていたボクサーパンツを脱ぎ捨て、軍曹に貰った黒いレースのパンツを穿き、それから母のアダルトなブラジャーを装着した。
股間がVの字に切れ上がったようなパンツ、レース生地のフリルで縁取られた赤いブラジャーを着こなした自分を鏡の中に見て、なんだかさっきとは違う種類の目眩を感じる。
「アオイさん、それは……?」
アオイが着替えを始めると、シノは気を遣って自分のスペースへと戻ってくれていた。だが、アオイが倒れるように壁に手をついた音を聞きつけて、様子を見に来たらしい。
振り返ると、後ろで目を丸くしながら立っていたシノに、アオイは半ば自暴自棄で真正面から向き合い、尋ねる。
「軍曹先生に貰ったパンツと、私の母のブラジャーです。念のために着けていくことにしたのですが……どうでしょうか」
「は、はい。ええと……と、とても強そうですね」
と、シノは顔を赤らめながら、お世辞なのかなんなのかよく解らないことを言う。だが、女子力を上げて強くなるためにこの下着を着けているのだから、よく考えるとそれ以上の言葉はないのだった。
ありがとうございます。アオイは静かに礼を言い、セーラー服(戦闘服)へと袖を通すと、シノと互いに目を見合わせながら頷く。シノが、こちらの緊張を解そうとするように微笑む。
「大丈夫です。きっとわたし達二人なら上手くできます。あ、変な意味じゃないですよ」




