タンザナイト家のお嬢様
メイドの朝は早い。まず、夜が明ける少し前に起床し、着替えるところからスタートだ。支給されたメイド服は、生地もしっかりしていて見た目よりかなり機能性が良い素材だ。おかげで朝の寒さもあまり気にならない。
この日は、指導係の先輩に従って、食事の配膳の手伝いをした。配膳台に置かれたのは、上級貴族に相応しい豪華な食事…ではなく、パンとオレンジジュースだけ。
自分の下級貴族の家ですらもう少し見栄えの良い品が並んでいた気がするが…と内心考えていたのに気づかれたのか、先輩メイドは「お嬢様は、少し偏食なの」と教えてくれた。
タンザナイト家には一人娘がいる。ケイトはまだ会ったことがない。タンザナイト家は、この広い屋敷に反して肝心の一家が2人しかいないはずだ。ご当主の旦那様と一人娘のカトレアお嬢様だけ。
そのうちの1人に今日会えるのかもしれない。ケイトは少しどきりとした。上級貴族に会えるなんて、ケイトが参加する社交場でも滅多にない。まあ、今回はメイドとしてなのだけれど。
ケイトは少しだけ胸が高鳴った。どんな女の子だろう。
ほんの少しの期待を胸にケイトは先輩の後ろをついて、カトレアお嬢様のいる部屋に向かった。
一際大きく、豪華なつくりの扉の前で先輩メイドは、立ち止まった。
「お嬢様、おはようございます。朝食をお持ちしました」
部屋の中から返事はない。いつものことなのか先輩メイドは「失礼します」と一言声をかけ、扉を開けた。
「……」
幼い少女がベットに腰をかけている。ふわふわの小麦色の長い髪、桃色に染められた頬の少女。天使のように愛らしい顔立ちをしている。
ケイトの想像以上だ。カトレアはケイトが想像する理想の貴族のお姫様の姿で。とても可愛らしく、まるでお人形のようだ。
こんな可愛らしい方にお仕えできるのなんて…メイド冥利に尽きるだろう。ケイトは一瞬のうちにそんなことまで考えていた…が。
「……」
肝心のカトレアは、その可愛らしい顔を歪ませ、ジロリとメイド達を睨んだ。
「部屋に入っていいなんて、言ってないわよ」
まだ幼いからか、舌ったらずな口調で苦言するお嬢様。先輩メイドはうやうやしく一礼した。ケイトもそれにならう。
「大変失礼しました。しかし旦那様にお嬢様の朝の世話をするようにキツく言われていますので、ご容赦くださいませ」
「…お父様が?」
カトレアの眉がぴくりと動いたのをケイトは見逃さなかった。さすがに父の申し付けには従うしかないのだろう。カトレアは不服そうながらも目の前のメイド達の無礼を許した。
「それでは朝食をまず召し上がってください。リクエストされた焼きたてのクロワッサンに直送のオレンジで作ったドリンクです」
手際よく、配膳する先輩メイド。ケイトも内心ドキドキしながらも手伝う。
「…いらない」
「え?」
「今日はパンの気分じゃないの!だからいらない!」
カトレアは、不満が爆発したかのように叫んだ。おまけに手に持つ枕をこちらに投げてきたではないか。子供の力なのでこちらまで届かずに力尽きたようにヘロヘロと床に落ちたが。
「カトレアお嬢様…。いい加減わがままはよしてください。シェフが心をこめて作ってくださったのですよ」
先輩メイドは、枕を拾い埃を払うと、困ったようにカトレアに話しかける。まるで子供に言い聞かせる優しい母親のように。
「そんなのいらない!」
まるで駄々をこねる子供だ。年齢的には仕方ないのだろうか。目の前の少女があまりに暴れるのでケイトは困惑した表情を隠せなかった。
先輩メイドも困ったように呟く。
「困ったわね…。旦那様にキツく言われてるのに」
「……!」
「お嬢様があまりにわがままだと、旦那様は怒って家に帰ってこないかもしれないわ」
「…………!」
「でも仕方ないわね、お嬢様はどうしても食べたくないみたいだし…捨てるしかないわね」
先輩メイドが静かに呟くとやれやれと肩を落としながら、朝食を下げようと手を動かした。ケイトも慌てて手伝おうと手を動かす…が。
その手は、小さい手で止められた。ひんやりと柔らかい感触。カトレアの手だ。カトレアの小さく血色の良い唇がふるふると震えながらも、静かに開いた。
「だめ」
「え?」
「だめ!食べるから!捨てないで!」
小さい少女の叫び。何故だか、少し動揺してしまった。ケイトは身じろぎしながらも、触れられた腕をどうしていいか分からなかった。
重苦しい空気の中、先輩メイドがにこりと笑った。
「ええ、でしたら朝食は置いておきます。私たちは外で控えていますので、ごゆっくりお過ごしください」
慣れているのだろうか、メイドはまた皿を配膳したかと思うと、一礼をし、扉へ向かった。
ケイトもついて行かなかれば。しかし。
「……」
「カトレア、お嬢様…」
きゅっと握られた感触があり、振り返る。カトレアは下を向き、なんだか寂しそうに目を伏せていた。
小さな少女を置き去りにしていいのだろうか?ケイトの良心が痛んだ。
「ケイト」
先輩メイドに声をかけられた。
「……お嬢様、失礼いたします」
ケイトは絞り出したような小さな声で、呟いて。小さな少女の手を、振り払った。カトレアの顔は見れなかった。きっと見たら、自分はその手を振り払うことができなかっただろう。
ケイトは一度も振り返らずに扉へ向かった。
「お嬢様はね、ちょっとわがままなのよ」
部屋を退出し、扉の前で控えている際、先輩メイドが教えてくれた。
「本当に困ってるのよねえ。とにかくなんでもダメだししてくるし、朝食だって昨日のリクエストを聞いて用意してるのにあの始末…」
本当に困ってるのだろう。先輩メイドの顔つきは少し険しい。
「まあでも、旦那様の話をすれば少しはよくなるから。あんまりいい手じゃないんだけどね」
「旦那様は…」
ケイトが口を開くと先輩メイドは困ったように首を横に振った。
「旦那様はね、貿易のお仕事で留守にしてることが多いの。滅多に帰ってこないの」
ケイトは、心が痛んだ。カトレアはきっと寂しいのだ。多忙で娘に顔を見せない父。母親は病気ですでにいないと事前に聞いていた。カトレアは屋敷で1人だ。
先ほどのカトレアの触れた手の感触が未だ残っている。
なんて可哀想なお嬢様。ケイトは目から溢れそうな涙をどうにか堪えた。
自分がお支えしたい。カトレアお嬢様を。
ケイトは密かに決心したのであった。




