猫とクロと
メイドの言う通り、クロは静かに自室で過ごしていた。棚に並べられた書物を軽く読み、窓を開けて景色をぼんやりと眺める。屋敷に来てからクロは同じような日常を過ごしていたため、特に苦に感じることもなく穏やかに過ごしていた。
以前と変わったことといえば部屋の前に警備が数人見張りをしていることとカトレアの朝の挨拶がなくなったことだろうか。
見張りを置いたのはセバスの指示らしい。時折聞こえる話し声から読み取れた。しかし朝食と夕食は以前と同じく運ばれてくるため、特に窮屈さも感じない。
カトレアはどうなったのだろうか、自分はこれからどうなるのだろうか。考えても仕方のないことだとクロは悟っていた。いくら高待遇を受けようと自分は奴隷でしかないのだ。
「みゃあ」
開けていた窓から生ぬるい風とともに猫が訪れた。どこからやって来たのだろう、灰色の短い毛並みはずいぶん綺麗に手入れをされている。ブルーの瞳と目があう。クロはなんとなく察した。
「……チョココロネ?」
正解だったのだろう。猫は返事をするように短く鳴いた。カトレアが飼っている猫の名前はチョココロネだと以前言っていたのを思い出す。
チョココロネはしなやかに体を伸ばしてクロの腕に絡みついた。ずいぶん人懐っこい猫だ。
「……元気そう?」
誰が、とは言わなかった。どうせ通じないだろう、しかし猫はこちらを不思議そうに見つめている。
「みゃ」
「……」
促されてるような気がして、仕方なく猫に手を伸ばす。背中を少しだけ撫でると猫は気持ちよさそうに目を細めた。クロは無言でひたすら背中を撫でる。
ようやく満足したのだろう。しばらくして猫はするりとクロの手から逃れて窓際に向かった。
「……」
「みゃあみゃ」
外を見ろ、と言っているのか。猫の言う通り、大人しく窓から外を視線を移してみた。
「……あ」
クロの窓からは離れの庭がよく見える。手入れのされた優美な庭は例の少女のお気に入りの場所でもあった。
「クロ、手を伸ばして」
庭に彼女がいる。簡素な造りの洋服と地味なバッグを身につけて。今まで見たことのない服装にクロは少し驚いた。少女は、意を決したような表情で手を差し伸ばす。
「屋敷から逃げ出しましょう!」
思わずクロは少女の手を取る。その手は小さく汚れひとつない手だったため、一瞬だけ躊躇した。しかし彼女は強くその手を握り返す。
「行こう!クロ!」
2人は走り出した。警備の目を潜り、向かった先は裏門だ。裏門に1人の影が見えた。
「カトレア様…」
「ケイト!馬車は?」
名前を呼ばれた少女の腹心のメイドは、にこりと頷く。
「言われた通り目立たない馬車を用意しました!準備は万端です!」
「ありがとう!いってくるわ。さ、クロ、乗って!」
少女に促されて、クロは慌てて馬車に乗った。
「……」
怒涛の展開である。息を整え、ようやく少し落ち着いたところで、クロは少女に視線を移した。
「私、気づいたの。執事が駄目なら、お父様に直接許可を貰えばいいのよ!お父様に会いに行くわよ!」
高らかに声をあげる少女。以前の悲しげな面影は既に消えていた。
ガタンガタン
以前よりも音の響くこじんまりとした馬車の中。2人の距離はいつもよりも近い。
いっそこのまま駆け落ちでもしようか。なんて甘いセリフが飛び交うわけもなく。
明るい少女の笑い声と健気に相槌を打つ少年は、馬車に揺られ、目的地へと急ぐ。




