23.暗雲だって怖くない
「……ヴィヴ?」
「夜分遅くに申し訳ありません。庭でぼや騒ぎがありまして……今のところ問題はありませんが、一応安全のために避難しておきましょう」
窓から差し込む月の光に照らされたヴィヴ、ゆったりとした寝間着を着た彼は、美しい顔をくもらせ、こちらに手を差し伸べていた。
あわてて飛び起きて、ヴィヴの手を取って部屋を出る。
「ぼや騒ぎ、ですか?」
「はい。僕たちが連れてきた馬が少し体調を崩していたので、ダニエルが様子を見にいっていたんです。そうしたら、庭の一角で火の手が上がっているのを見つけました」
「でも、庭には火種になりそうなものなんてないのに……雷も落ちていませんし」
今は冬とはいえ、この庭にはみずみずしい緑がかなり残っている。枯れ木ならともかく、あれだけ緑があるところがそう簡単に燃えるだろうか。
廊下を早足で進みながらうなっていると、ヴィヴが固い声で答えてくる。
「それが、火の手は一つではないのです。ダニエルの知らせを受け、蝶を飛ばしたところ……燃えているのは、少なくとも庭の四か所。それも木々の少ない、通りやすいところばかりで」
「あの、もしかしてそれは……」
木の多いところが燃えるのならまだ分かる。けれど、木の少ない道が燃えているというのなら、それは。
「……何者かが、庭に侵入したと考えるのが妥当でしょう」
二人で険しい顔を見合わせたその時、大きな声がした。
「アリーシャお姉ちゃん! よかった、無事だった!」
廊下の向こうのほうから、ミラが勢いよく駆けてきた。すぐ後ろに、エステルが付き従っている。エステルがそっとヴィヴに耳打ちした。
「屋敷の中は今のところ無事です。庭はダニエルと、それにブルースさんが見回ってくれています」
「ええ、ありがとうエステル。それでは僕たちも、いったん避難しましょう」
そうして今度は四人で、廊下を走る。ステイシーとポリーがまだだけれど、何か危険なことがあった場合は玄関に集まることになっているから、そこで待っていればいいだろう。
と、廊下の窓から庭が見えた。その所々が、赤々と燃えている。
「あっ……」
窓の向こうには、こぢんまりとしたキッチンガーデン。その隣には、私がここに来て最初に植えたラベンダーの大鉢。
もうすっかり大きくなったその株は、冬なので花こそつけていないものの、細く上品な葉をいっぱいに茂らせていた。
そのラベンダーに向かって、火の粉が降り注いでいた。すぐ隣に生えていた古い木に、火が燃え移っていたのだ。
駄目、ラベンダーまで燃えてしまう。そう思った時にはもう、庭に飛び出ていた。肌を焦がすような熱い風、ぱちぱちという不吉な音。
ここに来たって、私にできることなんてないのに。そう思いながらも、ラベンダーのほうに駆け寄らずにはいられなかった。
頭上のほうで、ばきりという音がする。燃えた木の枝が、すぐ目の前に落ちてきた。驚いてしまって、立ち尽くす。ラベンダーを守るのか、火から逃げるのか。そんな判断すら、とっさにできなくなっていた。
「アリーシャ!!」
後ろのほうから、ヴィヴの声がする。けれどそちらを見る余裕もなかった。
しかし次の瞬間、信じられないものを目にすることになった。
私のすぐ目の前で、火の塊がふわふわと浮いていたのだ。さっき落ちてきた燃える枝を、その火の塊がのみ込んでいる。まるで、枝を食べているようだった。
「やれやれ、間に合いましたねえ。私の足がもうちょっと機敏に動いてくれたら、こんな大騒ぎになる前に片付けられたんですけど」
今度は、背後から声がした。おっとりした声に振り向くと、ステイシーに付き添われたポリーが立っていた。
彼女はよっこいしょと言いながら、空中の火の塊に手を差し伸べる。たちまち火の塊はくねくねとした大蛇のような形になり、周囲の火を次々とその体に取り込んでいった。
見る見る間に、庭のあちこちに散っていた火が消えていく。
「さあ、他のところでも燃えているみたいですし、そちらも消してしまいましょうかねえ」
のんびりとそうつぶやいて、ポリーはのろのろと庭の奥に向かっていく。その後をあわてて追いかけながら、戸惑いつつ尋ねてみた。
「ね、ねえ……これは、いったい……?」
「内緒にしてましたんですけど、私もギフトを持っているんですよ。目覚めたのは、もう二十年以上前になりますかねえ」
彼女の少し前では、大きな炎の大蛇がうねうねと空中を泳いでいる。その恐ろしげな見た目を除けば、まるでよく懐いたペットのようだ。
「私のギフトは、炎を操る力なんです。お料理にはとっても役に立つんですよ。微妙な火加減も簡単にできてしまいますから」
なるほど、それでポリーの料理はとびきりおいしいのか。衝撃の抜けきっていない頭で、そんなことをぼんやりと考える。
そうして私とヴィヴ、それにミラとエステルとステイシーは、ポリーを先頭に庭を練り歩いた。
火を見つければ、ポリーが炎の大蛇を操って消し。賊を見つければ、同じく炎の大蛇をけしかけて叩きのめし。「いただいた炎、お返ししますねえ」とポリーが物騒な笑みを浮かべていたのが印象深かった。
そうこうしているうちに、賊と戦っていたダニエルとブルースとも合流して。
庭を一周回り終えた時には、もう辺りはすっかり静かになっていた。火は全て消えていて、屋敷を襲った賊は全て倒されていた。
ブルースとダニエルがせっせと賊を縛り上げ、エステルが最寄りの町へ兵士を呼びにいく。
なんと彼女はつつましやかな長いスカートのまま、馬に横座りになって駆け出したのだ。不安定そうなのに、とても速い。
そうして、賊たちは全て兵士に引き渡された。ありがたいことに、庭の被害も大したことはなかった。……ここで済めば、めでたしめでたしだったのだけれど。
賊たちは尋問の末、自分たちを率いていた人物を白状した。それはなんと、私の父だった。彼らの証言により、父はあっさりと捕縛された。
そして父は、自分の背後にいる人物について吐いたらしい。自分を脱獄させ、あれこれと手助けしたその人物は。
「……ハロルド様は、どこまで私が憎いのでしょうか……」
その知らせを聞いてしょんぼりする私を励まそうとしているのだろう、ヴィヴが穏やかに笑いかけてきた。
「どうか元気を出してください、アリーシャ。……どうやっても分かり合えない相手というものはいるものです。それに今回の件で、さすがの彼も大人しくなるでしょう」
彼の言う通りだとは思う。ハロルドは罪を犯した。もし重罰にならないとしても、謹慎は確定だ。
それに社交界で、きっと今回のことは噂になる。離縁した元妻が気に食わなくて、その父親を脱獄させて嫌がらせを仕掛けた。
間の抜けたこんな話に、日々退屈している貴族たちが飛びつかないはずがない。ハロルドは、しばらく人前には出られないだろう。
それでも浮かない顔をしている私に、ヴィヴがもう一度笑いかけてくる。さっきよりちょっぴり焦ったような、必死さがにじんだ笑みだ。
「……何があろうと、僕がついていますから。だからどうか、笑ってください。僕はあなたの笑顔が好きです」
まるで口説き文句のようなその言葉に、びっくりして心臓がぴょんとはねた。ついでに、暗い気分が一気に消し飛ぶ。
「あ、ありがとう、ございます……」
照れながらそう言ったら、彼の顔にほっとしたような笑みが浮かんだ。心配させてしまったな、と少し申し訳なくなる。
「あの、でしたら気晴らしに付き合ってはもらえませんか。心を落ち着かせるハーブティーを調合してみようと思うので」
「ええ、もちろんです」
とっさに口にしたそんな提案に、ヴィヴは嬉しそうに乗ってくる。
うん、もう暗くなるのは止めよう。これからは、きっといいことしか起こらない。そう信じよう。
そうして、ヴィヴと二人でハーブの保存庫に向かう。いつものように、気ままにお喋りしながら。
◇
「ああんもう、どうしてこうなるんですか!!」
人気のない荒野を突き進む馬車の中で、ノエルがぎゃんぎゃん吠えていた。
「私だって、ピアソン元伯爵があそこまで使えないとは思わなかった」
彼女の隣では、ハロルドがぎりぎりと奥歯を食いしばっていた。
花森屋敷を襲った賊たちから、芋づる式に彼らの名が挙がってすぐのこと。二人はいち早く、屋敷を逃げ出していた。最低限の必要なものだけを持って。
ノエルのギフトがあれば、道中路銀には困らない。それにハロルドも、まだ隠し玉を持っている。捕まりさえしなければ、まだやり直せるのだ。
二人ともそれは分かっていた。でもやはり、不満は山のようにあった。
「ギャレットのお屋敷で優雅に過ごす日々があ……」
べそをかいているノエルの手を取り、ハロルドがぎこちなく微笑む。
「ノエル、泣くな。これもみな、あのアリーシャのせいだ。あいつが私たちにおとなしく屈さなかったから、こんなことになったのだ」
「でもお……脱獄なんて言い出したのはハロルド様で、あたしは手伝っただけで……あたしだけなら、こんな風に逃げなくても……ハロルド様、ヴィヴ様のところに寄ってくれませんか? あたし、そこで降ります」
べそをかきながら、そんなことを堂々と言うノエル。ハロルドは小さく咳払いをして、静かに言った。
「駄目だ。君はずっと、私のそばにいるんだ」
「……はい……」
何一つだだをこねることなく、ノエルはこくんとうなずいた。
これがハロルドの隠し玉、彼の持つギフトだった。
一人に対して、一度に一つだけ、命令をすることができる能力。ただし、複雑な命令や、相手の意志に大きく背く命令は失敗することが多い。また、意志の強い相手にはほとんど効かない。
かつてアリーシャに花森屋敷を譲れと言った時も、彼はこのギフトを使っていた。しかしアリーシャは一瞬違和感を覚えただけで、その命令をはねのけていた。
しかし意志薄弱な、というより快楽だけを追い求めがちなノエルには、このギフトはよく効いていた。といっても、彼女のわがままを抑え込む程度だが。
「……このまま国境を越えて、隣国デンタリオンに入ろう。そうすれば、追っ手もやってこない」
「もっと遠くに逃げたほうがいいんじゃないですか? あたしたちのギフトを合わせれば、どこでだって……」
しょんぼりとつぶやくノエルに、ハロルドは力強く笑いかけた。
「いや、行先はデンタリオンだ。あのヴィヴとかいう男について調べていたら、少し面白い情報をつかんでな。……うまくいけば、今までの意趣返しをできるかもしれない」
この期に及んで、ハロルドはあきらめていないようだった。
目障りで仕方がないアリーシャ、そして彼女に手を貸すヴィヴをどうにかして叩きのめす。そのことを。
逃亡中とは思えないほど不敵に、彼は笑う。その目は、遠くに広がる異国の地を見据えているようだった。




