#163 暗躍部隊 I
夜明け際の薄暗がりを走る影が、何かに気付いてその足を止める。
――それは一種の符牒であった。連絡や合図として使われる匂い。
事実それを嗅ぐまでは忘れていたし、思い出したくもないモノであった。
「まったく……」
犬耳メイド――と言っても今や元であり、商会の外套に包んだクロアーネは毒づく。
本能に訴えかけられたそれは、肉体と精神に刻まれた忌まわしき記憶――
ゲイル・オーラムのに救われる前に、かつて所属していた王国侯爵の私設部隊が使っていた匂い。
100人近い獣人奴隷からたった6人にまで選別された、ありとあらゆる汚いことを請け負った暗部。
獣人種ゆえに可能な体捌きや野生の本能、何より鋭い感覚器官を有した実行部隊。
侯爵家そのものはゲイル・オーラムの手によって、お家まるごと潰されてしまった。
その時に部隊も解散したハズであった――しかし、である。
「過去の亡霊とでも言えばいいのでしょうか」
なんらかの形で部隊そのものが生きている。あるいは基底にして新設されたのか。
彼女にとってはもはや関わり合いたいシロモノではなかったが、気付いてしまえばそうはいかない。
主戦域外で騎獣民族に見つからずに動き回っている面倒な連中を、このまま放置するのは憚られる。
クロアーネの大腿筋が躍動し、大地を跳ねるように進んでいく。
風下を確保しながら動向を追跡していき、しばらくして捕捉するに至った。
迷うということはなかった。そうした多くが、無駄で無為であると経験で知っている。
同時に直接的な禍根とは違うものの……これは過去を共有する己が処理すべき事柄であると。
「――ッぐ!?」
敵部隊の数は20人ほど。その内の一人が、叫びを一つ残して息絶える。
首に刺したダガーナイフの柄頭から伸びたワイヤーで、クロアーネは手元まで戻す。
――と、部隊はすぐに陣を組むと厳戒態勢を取った。
キョロキョロと部隊が見回している中で、一人の男が前へ出て来るのが見える。
もう一度会いたいとは微塵にも思わなかった。
同じ犬人族であり、かつて部隊の長を務めていた苛烈で冷徹な男。
幾度も同じ任務をこなした男は死体を一嗅ぎした後に、真っ直ぐクロアーネの方向を見据えて喋りかける。
「殺した武器を回収したのか、血が臭うぞ……不意討ちはもはや通じん」
クロアーネはゆっくりと、部隊の前に姿を現す。
フードを被り、ローブの内側にいくつもの暗器を隠したまま……。
即応できるように備えつつ、こんな形で再会などしたくなかった男へと。
「何者だ」
「匂いでわかりませんか、耄碌したものですね」
クロアーネはゆっくりとフードを取ってみせる。
「嗅いだ記憶はないが……身覚えはある――クロアーネ」
「……隊長」
姿を晒したのは――はたして感傷に近いものだったのかも知れない。
好感を抱いたことはなかったが、それでも同じ部隊で任務を何度を潜り続けたのだから。
「……いきなり攻撃してきたということは、おまえはインメル領軍の手先か」
「そうですね、一応はそういうことになります」
元隊長は目を鋭く睨み付ける。一方でクロアーネは感情の見える視線で受け止めた。
「そうか、おまえも使われる身か。ならばこちらへ裏切れ」
「私が任務を失敗した時に見捨てたというのに、いまさらですか?」
「それは部隊の規律だった。本意ではないが仕方がなかったことはおまえも理解できよう」
「……たった今あなたの部下を殺した私に、裏切れと?」
「おまえの持っている情報は得難いだろう? それに死んだ奴の穴埋めをしなければならん」
「私が代わりになれ、などと――部隊の者は納得しないでしょう」
「こいつらにはそういった感情はない、ただ任務をこなすだけだ」
「――……魔術契約済みというわけですか」
視線を移して目を凝らしてみれば、誰も彼もが空虚の色を瞳に宿している。
「詳しくは言えないのだが……王国に属する、さる人物との共同作品とでも言えばいいのかな。
"強制契約魔術"で心を限界寸前まであえて壊し、薬物と手ずから徹底的な教育を行う。
すると思考と経験を維持しながらも、私心なく実に従順な兵士ができあがるというわけだ」
「かつての隊員はいないようですが……貴方だけですか」
「最初の頃は、"選別"も難航したものだ」
クロアーネは大きく溜息を吐いてから、呆れるように言い放つ。
「貴方は未だに囚われているのですね」
「なにを言う、こいつらは言わば我々の後輩であり完成された部隊。それを統率するのがおれだ」
「完成された部隊? その割にはあっさりと私に殺されたようですが」
「そいつができそこないだっただけだ。それにこいつらも全員、今後さらに進化していく叩き台に過ぎん」
唾と共に吐き捨てられた仲間の亡骸を見ても、部隊員は反応をまったく見せなかった。
「哀れな……」
そう口からついて出た。かつて感情なく任務をこなしていた頃の己と重ね合わせるように……。
しかし彼らは感情を殺しているのではなく、もはや精神そのものが崩壊しているのだ。
"進化"という言葉1つとっても、こうも違う感じ方になるものかと。
「哀れなものか。おれたちの頃と違い、痛苦から解放されているのだから」
「――そんな操り人形に私にもなれと言うのですか」
「拷問の末に死ぬよりはマシだろう?」
そう信じてやまぬ言葉を紡ぐ男に対し、クロアーネはわずかに波立っていた心身を落ち着ける。
頭の中では……学園の風景と見知った顔とが、いくつも浮かんでくる。
「貴方は最初、"私の匂いがわからない"と言った……とても喜ばしいことです」
「……なんだと?」
「それは私が変われたという証ですから」
昔の自分とは違うということ、それは賛辞にも思える言葉。
「知ったことか……。四号、五号、六号、"奴の手足を潰せ"」
隊長は明確にそう命令を下すと、部隊員は即座に動き出す。
囲むように迫る敵に対し、クロアーネは山刀を即座に抜いて回転した。
ほんの一瞬の交錯で、3人の部隊員の命にまで到達し――それでおしまい。
今度は不意討ちではなく正真正銘、正面から背後を含めて一刀に断ち切った。
「っ……馬鹿なッ!?」
「貴方がたとは、食べている物が違います」
「は? なにを……言っている……?」
「気高き精神は、強靭な肉体に宿る。その資本となるのが、洗練された料理ということです」
言い切った瞬間にクロアーネの両袖から飛び出たダガーが、隊長であった男へと放たれた。
ワイヤーを通じて"有線誘導"の魔術によって操作される、煌めく二つの白刃。
クロアーネ自身が嗅覚から得た情報と直結させるように……。
ワイヤーの先に括り付けられたダガーナイフが、獲物をを捕捉して隙間を縫うように飛んだ。
刃は標的の前に立ちはだかった2人の部隊員によって、強引に体ごと阻まれ――
即座に軌道を変えた白刃は、2つの心臓を貫いていた。
「よくやった七号・九号、"そのまま突き崩せ"!!」
「ッ――!?」
その命令に忠実に、血液を噴出した状態で間合を詰めてきた隊員に対し、クロアーネは驚愕をなんとか呑み込む。
有線誘導ダガーの結界を踏み越えて白兵距離まで迫り来るものの、次は振るわれた山刀で刈り払った。
「七号、"隠剣"!! 九号、"振り下ろし"!!」
心臓に加えて横っ腹から内臓の半分ほどまで切り裂かれながらも、9号と呼ばれた部隊員が振り下ろした剣を弾き返す。
同時に頭のない7号の投擲したナイフを、体を捻って躱した。
それ以上の命令がない死体は、そのまま地面へと沈むように倒れ込む。
「チッ……」
投げ放たれた短剣が、しかし少しだけかすってしまったことにクロアーネは舌打ちする。
絶命しながらも、直近の命令に従って動き続けたほどの業にして業。
命令よりほんのわずかばかり先に、首を落とし切れなかったことが悔やまれた。
左脇腹の痛みと、鼻腔に届く血が滲む匂いからすれば――大した傷ではない。
しかし問題は"もう1つ"の方にこそあるのを、経験から知っている。
「終わりだな」
「かつて部隊が使っていた"毒"……。私たちが耐性を持っていたことすら忘れているようですね」
刃に塗られていた毒は、匂いで気付いていた。それゆえにかすり傷でも負うつもりはなかったが……。
敵が完全な致命傷を喰らっていようと、襲い掛かって来られては如何ともし難かった。
「フンッそれは死なないというだけの話であって、肉体と感覚がひどく鈍るのは避けられまい」
はたしてそれは事実であり、虚勢とまでは言わぬが状態を見抜かれていた。
血液を通して駆け巡る毒はクロアーネの体を蝕み、じんわりと脂汗が浮かぶ。
「まったくやってくれたな、だがどうだ? 死んでも動き続ける部隊とは実に厄介なものだろう。"相互契約"程度では成し得ん」
「私を殺すには、ほど遠いことです」
「なあに、おまえが死ぬのはこれからだ。」
「こいつらと同じように……傀儡にするのではなかったのですか」
クロアーネはあえて会話を続けながら、肉体の状態を確認しつつ気を静めていく。
「もう侮りはしない、補充は別途すればいいし情報も二の次でいい――十三号、"濃霧"だ」
部隊長はそう答えて命令を下すと、部隊員の1人が霧を発生させる魔術を使う。
(厄介ですね)
かつて部隊を共にしていた時を思い出す――苛烈で冷徹なそれを。
先刻までは付け入る隙が見られたものの、もはや言葉通りこちらを確実に殺しに掛かってきている。
霧の発生と同時に立ち込めていく臭気は、連絡合図用のものを撒き散らしているようだった。
(視界を塞ぎ、嗅覚を不能にする――)
こちらも相手をよくよく知っているが、相手もこちらを知っているがゆえの戦法。
敵部隊も正確な捕捉はできまいが、数に勝っていて、こちらは毒によって動きが鈍い。
犠牲を承知の上で圧殺するという、ただただ対処しにくい殺り方だ。
(毒を喰らってしまった時点で……戦術的撤退も困難)
しかし昔ならばいざ知らず、今の己は諦めることはない。
「美食を求めるという私の夢を、こんなところで潰えさせるわけにはいきません」
はっきりと口に出して、視覚と嗅覚が機能しない中でも集中する。
状況を打開する最大効率のやり方――隊長を殺すこと。
命令で動く部隊ゆえに、その司令塔は絶対の弱点となる。
次なる継戦命令よりも前に先んじて、最速で殺すべく動くその瞬間であった。
霧を晴らす叫びが――知った人物の声が、大きく響き渡ったのだった。




