46.『やさしいおばあさん』
俺の中にぽっかりと出来た空洞。
俺を蝕む空白が、奥底で嘆く自分を嘲笑う。
「よぉ、遅かったじゃねぇか。この俺を待たせておいて朝帰りたぁ良い御身分だな、オイ」
帰宅して自室に戻るや、ローブ姿でソファに寛いでいるクローガに出迎えられた。
「……朝っぱらから野郎の半裸なんぞ見たくないんですが」
「ふっ…俺の色気に下半身が疼くか? そうかそうか。なに、隠す必要は無い。仕方のない事だ。男さえも虜にする俺の美体はそれだけで罪なのだから」
「何言ってんですか、アナタ。屋敷の女性に手を出すのも程々にしろといってるでしょうが。疲れているのに、明らかに情事の夜を明かした男を見る気力はありませんよ。全く…摘み食いばかりして……アナタ暇人ですか、暇人なんですね? 分かりました」
ラドゥーは自己完結し、そしてさり気無く空の天気を仰ぐようにバルコニーに続く窓へ視線を映した。
「…ああ、もしかしたら、そろそろ暇を持て余した誰かさんを心配して、ここに居場所を尋ねにいらっしゃる方がお見えになるかもしれませんね」
不穏な空気を察知したクローガは青ざめた。
「そろそろ…って、まさか…お前」
ラドゥーは社交会の花々ならば顔を赤らめずにはいられない笑みを手向けた。そしてこれ見よがしに耳に手を当てた。
「ああ、何やら下が騒がしいですね」
クローガはその瞬間、窓へ走った。
「陛下っ!!」
バタン、と扉が開く音がして、何人もの男達が雪崩れ込んできた。
従者の恰好をした青年とダンクル国近衛。
「見つけましたよ! 執務机に積まれた決済の上に『ちょっと行ってくる』とだけ書き置き残して、何処へ行かれたかとどれだけ心配したと思ってるんです!? 今執務室は溜まった仕事で埋まりそうなんですよ!」
「アオト…」
バルコニーへ逃げようとしたクローガは首だけを捻り、闖入者を振り返った。
「さあさあ! こんな所で油売ってないでさっさと帰りますよ」
近衛達が王の両脇を固める。
「お前らっ! …ええぃっ離せ!」
「アオト殿。お久しぶりです」
ラドゥーは引き摺られるクローガを無視してにこやかにアオトに近づいた。
「や、これはシューノレイヤ伯爵…お見苦しい所をお見せいたしました」
貴人に対する礼を返すアオトにラドゥーは苦笑した。彼とは久々に会うが、こういう時、標的しか視界に入らくなるところは変わっていない。
「貴方のおかげでこの困った人を見つけられました。ご協力に感謝致します」
深々と頭を下げる彼にラドゥーは笑顔で応えた。
「いいえ、我らが頂く陛下に何かがあってはいけない事ですから。それに、困った人を助けるのは当然でしょう。人として」
どの口が言うんだっ、と羽交い絞めされながらも抵抗する誰かの叫びは左に受け流した。
「このっ…裏切り者!」
「いつ貴方を匿ってあげると言いましたか。ここにいらっしゃるのだって突然でしたし」
「さ、陛下。汽車のお時間が迫っております故」
近衛達が有無を言わさず部屋の戸を開ける。
「お…覚えてろよ―――!!」
三流悪役の台詞を吐いてクローガは扉の向こうに消えた。
暫く扉の向こうで脱走常習犯が何事か喚く声が聞こえたが、すぐに静かになった。
やれやれと一息ついてテーブルにある本に気付いた。そういえば、こんな本をおじじの店から借りたっけか…。
「ちょっといいかい?」
何か引っかかりを覚えて考えごとをしていると、控えめなノックの後、父が扉から顔を覗かせた。
「おはようございます、父様。何です? 今日はやけに早いですね」
日の出からいくらも経っていない。朝食までまだ間がある。こんな時間に父が起きだすなんて珍しい。
「ああ、うん。さっきの王城の人達の騒動で目が覚めたよ」
「そうですね。お騒がせしました」
ダンは微笑ましそうに顔を緩めた。
「いやぁ、うちの王様も困ったもんだね。こうしてよく家に遊びに来てくれるのは嬉しいんだけど、お付きの人達を困らせちゃいけないよね。まぁ君と歳が近いし、悪戯盛りなのかな?」
「……二十もいいとこの男に悪戯盛りはないでしょう」
いつまでも子供に対する様な言い草の父に呆れる。まぁ悪戯盛りというのは、あながち間違いでもないかもしれない。昨晩だって家の使用人の誰かと大人の悪戯…もとい、よろしく過ごしていたようだし。恐らくリオが用意したんだと思うが。
「そっか…もう二十になられるんだね。時の経つ速さに吃驚だよ。お小さい頃の陛下を知ってるだけに、まだ小さい印象があるのかな」
「そうですね。五歳児がそのまま大きくなったようなもんですね」
「対して君は変わったよね。昔の君は身体が弱かったけど、丈夫になったし」
「…ええ。本当に」
ラドゥーは気どられない程度に瞼を伏せた。そして、駆け引きの腕もここ数年で上がったと思う。
「それで、君は楽しかったかい? 夜の散策は」
「ああ、はい。帰りが遅くなってすみません」
「森で一晩過ごしたのかい?」
ラドゥーの記憶にあるのは、アルネイラ達と森に入ったところまでだ。
…何故か、それ以降の記憶が定かではない。どうしてメンバー全員で寝そべる羽目になった経緯も。何処か森じゃないところにいた気がするのだが…
「ええ…まぁ…そうです、ね」
「まぁ、キグはそう危険な森でもないし、ちょっと冒険したくなってもしょうがないよね。男の子だし」
え?
「キグは…」
「迷いやすいけど、猛獣もいないし、盗賊も出ないし、水も綺麗だから少しくらい野宿しても大丈夫なところだからね。まぁ女の子もいたならちょっとは考えてあげるべきだとは思うけど」
「樹海じゃありませんでしたか?」
「ん? そうだよ。それがどうかしたのかい?」
「キグは迷いやすくて、亡霊が出るって噂があって、夜は立ち入り禁止になるほど危険な場所では…」
「何言ってるんだい? 迷いやすいと言ってもそれは広さの所為だし、奥に行かなければあれほど散策に適した森も無いじゃないか」
「………」
俺の記憶違いだろうか? じゃあ、なんで肝試しに行ったんだった。目的は悪友達が女の子とお近づきになりたいが為だった筈だが…。
何だろう…この違和感。さっきから胸が落ちつかないというか、地に着かない不安定さ。
「…そ、うですね…俺の勘違いだったかもしれません」
何かが変わっている違和感を感じるも、ラドゥー自身あやふやで、それ以上何も言えなかった。
「そうだよ、キグが危険な訳ないじゃないか。なんたってルミネと初めて出会ったのだってキグなんだから」
「え…そうなんですか?」
それは初耳だ。ルミネの昔話はどうやって父との結婚に漕ぎ着けたかに始終している。
「うん。僕はここ出身じゃないのは知ってるだろ? ここに来たばかりの時、あの森で迷っているところに、気に入らないお見合い相手を殴って逃げてきたルミネとばったり出会ったんだ」
「…へぇ」
そういえば昔の母は結構なじゃじゃ馬だったらしい。じい様が父と母の結婚を支持したのは暴れ馬を乗りこなせる男なら、と容認した節があるくらいだ。
「そんな僕と妻の思い出のデートスポットを勝手に心霊スポットにしないでおくれ」
くすくすと可笑しそうに笑う父に、曖昧な笑みを返した。
「はぁ…もう父様達の惚気話はお腹一杯ですよ」
「そうかい? 僕はあまり言ってない筈なんだけどな。ルミネが嬉しそうに話すのを見るのが好きだし」
「…そうですか」
もう何を言う気にもなれない。ご馳走様だ。
片手に持つ本でもう片方の手を軽く叩く。
「父様、ちょっとこれからやりたい事があるので…」
長い惚気話が始まりそうだったので、それとなく退出を促す。
「帰って来てそうそう何をする気だい? 野宿したんだろう。疲れてるんじゃないのかい」
「そうでもないです」
寧ろ、身体は身軽だ。日頃の疲れもキレイさっぱりとれている。だが、気分は打って変わって暗欝としていた。
本をパラパラと捲る。白紙。何かがこの本に書かれていた筈なのに、何も書かれていない。故意に消されたのではなく、最初から何も書かれていなかったかのように、新品同然の白い紙の束になっている。
内なる自分が自分を急かす。早くしろ、と。
なんとなくラドゥーの様子を察したのか、ダンは深く聞かなかった。
「ふぅん、まぁ君がそういうならとやかく言わないけど、あと一刻ほどしたら朝食の時間だからね。その時には降りておいでよ」
「ええ」
パタン、と静かに部屋の扉が閉じられると同時にラドゥーは机に飛びついた。
息子の部屋から出たダンは向こうから歩いてくる女性に目を止めた。
「おや、おはようルミネ。珍しく早起きさんだね」
「おはよう、ダン。起きたら貴方がいないんだもの。寂しくって起きちゃったわ」
軽いキスを交わす。いつもの事なので、ルミネの後ろに従う侍女は平然としたものだ。
「それはすまなかったね。昨夜、王がこっそりお見えになったらしくて、慌てて起きて挨拶しようとしたら、アオト殿らが雪崩れ込んできて、ゆっくり挨拶する間もなく出て行かれたよ」
背中に目がある義父であるゴルグルドはきっと知っていたに違いないが、あえて素知らぬふりをしていたと思われる。ゴルグ自身こそ挨拶に赴かなかったが、昨夜の夜の警備は堅固にし、かつアオトに王の居場所をチクッたのも義父だからだ。
「まぁ。陛下も困った方ね。夜に態々?」
「お忍びだしね。ラゥに王都に来るよう催促する手紙をいつも無視されて鬱憤が溜まってたんじゃない?」
「何だかんだいってあの二人仲いいものね」
「幼い頃何度も遊んだ仲だしね。将来自分の片腕として国の運営を任せるおつもりなんだろうし…」
自分は所詮庶民出だ。今でこそ、そこそこ各国の要人達と渡り合えているがやはり足場は弱い。グリューノス家という名札を目一杯使わないことには、ダンはいつまで経ってもよそ者扱いなのだ。
けれど、息子は違う。
「心配?」
「そうだね。もっと子供らしく遊ばせてやりたいかな」
自分があのくらいの歳の頃は、遊ぶことばかりが頭を占めていたと思う。いくら賢くったってまだ十七。昨夜の肝試しみたいに友達と羽目を外したい年頃のはずだ。
「………息子が若ハゲに悩まなくてもいいように、もう少しだけ、義父さんと頑張るかなぁ」
的外れな父の心配にルミネも乗る。
「あら、あの子は禿げないわよ。家は白髪の家系ですもの」
現グリューノス家当主ゴルグに至っても、齢六十にして豊かな白髪を後ろに撫でつけたロマンスグレーだ。
二人は後ろで聞いている侍女の微妙な顔に気付かない。
「…うちの父さんはちょっと危なかったからなぁ…大丈夫かな」
僕ん家の家系に似たらアウトだな、と上を振り仰いで、ぼそりと呟いた。
「今、なんて言ったの? ダンの故郷の言葉は難しいわ」
「何でもないよ。息子が少しでも楽できるように頑張らなくちゃって思っただけ」
「そう。…でもね? ダン」
ルミネは夫の唇に己れを近づける。
「ん?」
軽い触れ合いをダンは自然に受け止める。
「代わりに貴方が辛い思いをするのも、あたくしは嫌よ?」
ダンは微笑んだ。彼女が愛しいと目一杯訴える、そんな優しい目だ。
「大丈夫。僕はこう見えて、適当に手を抜くのは上手いから」
「それならいいんだけど。無理しないでね、ダン…ダンジロウ」
ルミネは夫の腕に寄り添った。
カリカリという音のみが部屋に響く。
ラドゥー食事以外は部屋に引きこもり、ずっと机に向かって無心にペンを走らせていた。
そして、おもむろに腕の動きを止める。
「……出来た」
書きあげたばかりの本を持ち上げて眺める。白紙だったそれにはラドゥーの筆跡で文字がびっしり書かれていた。
元々何が書かれていた分からない本。もしかすると最初から白紙だったのかもしれない。でも、ラドゥーはこの白紙の本に何か書かなければ、という衝動のままに筆を走らせた。
何を書こうという構想はなかった。ただ、筆を持っただけで自然と腕が動いた。
まるで、最初からラドゥーの頭にあったそれを、そのまま形にしたかのように。
読書は好きだが、物書きはしようと思った事も無かったが…。
「…俺ってもしかして文才あったんだろうか?」
んな訳ないか、と自分に突っ込み、苦笑一つ、口元に浮かべる。
さて、いつの間にか空は暗い。そう言えば夕飯を食べたっけ。呼ばれて目の前に出された物を黙々と食べ続けただけで、ラドゥーの意識はずっとこの本の執筆に取り付かれていたからその辺の記憶が曖昧だ。
腕時計を見る。9:00を少し回ったところだ。もうすぐ妹のツェリが寝る準備を始める時間。
明日にしても良かったが、時間的にも丁度いい。ラドゥーは立ち上がった。
その部屋をノックするとすぐに可愛らしい声が返ってきた。
「やぁツェリ」
ラドゥーが部屋に入るなりツェリは嬉しそうに読み聞かせの催促をしてきた。
「おにいさま、今日はどんなお話を聞かせてくれるの?」
わくわくした瞳とぶつかり、ラドゥーは小さく笑った。
「そうだね…『やさしいおばあさん』なんていうお話はどうですか?」
「『やさしいおばあさん』? なぁにそれ?」
「それは、聞いてからのお楽しみだよ。さぁ、ベットに入りなさい」
さぁ、今度はもっと優しいお話を聞かせてあげよう。
村の厄介物だったおばあさんが、村を脅かす数々の苦難から村を救い、ずっと村の人達と平和に暮らす、在り来たりで平凡で、でもとても得難いそんなお話を。
同じ舞台で、全く違う物語の事など記憶から抜け落ちている筈の彼は、そんなことを思った。
ラドゥーは妹の枕元に近づき、書きあげたばかりの本を開いた。
「昔々、あるところに、いじわるなおばあさんがいました―――…」
「…――」
誰?
「――――ん!」
聞き覚えのある声…
「ドロシーおばあさん!」
ドロシーは目を開けた。
「…え?」
ドアップの子供の顔が視界いっぱいに埋まっており、ドロシーは状況が把握できなかった。
「もぅやっと起きたぁ! 昨日お話の続き聞かせてくれるって約束したじゃん!」
顔を退けて満面笑顔を閃かせた少女の後ろにはもう二人の子供がいた。
ええと…
「約束…?」
あれ…? 私の声何でこんなに掠れてんの?
首を傾げたドロシーに子供達は頬を膨らます。
「え~おばあちゃん忘れちゃったのっ? 『ベイクーパーの幻影郷』のお話だよ。ベイが敵に遭遇して絶体絶命のとこでおばあちゃん止めちゃったんじゃん」
『ベイクーパー』。懐かしい物語の名前を聞いたものだ。でも…それを読み聞かせてあげた子供達は、ずっと昔に…
「ああ、そうだったわね…おばあさん寝惚けてたみたい」
「もぉ~お寝坊さんなんだからっ」
「ごめんなさいね」
これは、夢?
「…今日はお天気もいいから、お外で聞かせてあげましょうね」
逸る気持ちを抑えて子供達と一緒に外に出る。
震える手でノブを捻り、外の景色を確認する。
―――――――ああっ!
「ドロシーおばあさん? どうしたの、何処か痛い?」
ドロシーの手を引いていた子供が不思議そうに見上げてくるが、懐かしい景色から目を逸らせない。
「ああ…違うのよ…太陽が眩しくて、涙が出ただけなの…」
「ふぅん、そっか。昨日まですっごい雨だったもんね。久々のお日様眩しいねっ」
「あっちの木陰行こうっ」
子供達が歓声を上げて走りだすのを涙で滲む目で追いかけた。
頬を伝う涙は本物だろうか? 私は魔女の筈、夢の住人のはずなのに…これは、夢なのだろうか…
「おばあちゃん! 早く早くっ」
かつて現実世界で名乗っていた名で呼ばれ、ドロテアはゆっくり外へと踏み出す。
「ええ、今行くわ」
夢でいい…もう二度と覚めないで…
手を差し伸べて、手を繋いで夕焼けの小道を歩こう。
今度こそ、その笑顔を失わないように―――
「やあ木漏れ日の君」
振り返らなくても誰なのか分かる。だから振り返らずに適当に応えた。
「何の用?」
「久々に無茶をしたなと思って」
「私を裁きに来たの? “調律師”」
エルメラの無二の彼に“夢屋”と名づけられた紳士は首を振った。
「裁くのは“審判”の仕事だ。僕は出づる歪みを調停する“調律師”だよ」
紳士はステッキを一つ鳴らした。
「ねぇ…長い付き合いでもある君には幸せになってもらいたいとは思ってるんだけど、いきなり夢と現をひっくり返しちゃうのはどうかと思う」
「説教は聞きたくないわ。今の私は“夢の旅人”よ? ラゥが良ければそれでいい」
周囲を慮るのは人の目を気にし、故に思いやりを持つ人間だけだ。
「千年経って漸く逢えた喜びは分かるけど、なにも名前まで付けさせること無かったんじゃないの? “探しもの”で約束の人である彼にさ」
名前は特別。それが、己にとって大事な人間の付ける名ならば、尚更。
「適当に名乗ればよかったじゃないか」
おかげでエルメラはラドゥーに従属同然になってしまった。
彼は知らない。彼の意思一つで世界一つや二つ、転覆させることだって不可能ではなくなった事を。
彼女自身が望んだこととはいえ、それが余計ややこしくさせる。
ラドゥーが呼ぶ名前を受け入れる。彼に呼ばれる事を受け入れる。全てはラドゥーの気の向くままに。
彼は彼女にとって、弱みであると同時に最大の切り札なのだ。
「…彼が呼ぶ名前が、私の名前よ」
かつて親から貰った名は遠に捨てた。名無しの彼女は“星姫”意外にも幾つもある名前で呼ばれてきたが、便宜上呼ばれるものでしかなく、記号と変わりない。
「私はエルメラ。彼の傍に寄り添う為だけにヒトの身を捨てた」
それが全て。彼が全てだ、と。
“調律師”は溜息をついた。
「それで色んなヒトの道筋を変えられちゃ、僕の仕事が増えてしょうがないんだよ」
夢を現実にひっくり返してしまった事で、ドロテアもケン達もラドゥーもその周囲の人間達もそしてさらにその人物に関わる者達全部全部全部の運命、そして道筋が変わってしまった。
「あの魔女にとっては万々歳でしょ。長年夢見てきたかつての楽園を、ついに取り戻せたんだから」
ドロテアの亡くした村は起きるはずだった戦に巻き込まれる心配はなくなった。
ケンタウルスは外敵から故郷を追われる未来は消え、そこで伴侶を見つけ、そのまま死ぬまで故郷で平穏に暮らすだろう。
人魚達は海に捨てられる運命を免れ、人として母親の腕の中で愛されて育つことになるのだろう。
ずっと夢見てきた『望み』が『現実』となったのだ。
今まで彼らが共に過ごしてきた現実と引き換えに。
「辛い境遇の果てにあの楽園での愉快な日常があった。彼らにとってそれは既にとても大切なものだ。その思い出を強制的に夢に変えてしまったのだけどね、君は」
なんて傲慢で恐ろしい力だと紳士は思う。
「一番大切なモノを失った代わりに出来た大切なものなんて、所詮代替品でしょ。一番が手に入るなら、他はいらないじゃない」
「だけど…あの龍は、今頃何処を彷徨ってるんだろうね」
彼らは幸せな未来を奪われてドロテアの許に集ったが、あの龍だけは違う。
元々彷徨っているところに、ドロテアと出会ったのだ。
幾つもの名で呼ばれるあの古龍は、闇に故郷の世界を浸食され、世界の移住を余儀なくされた。ドロテアの世界でのんびり出来たのは幸いだったが、ドロテアの世界がそもそもない未来になってしまったら、彼は何処で休めるというのか。
「龍は大きすぎる。力も体も。並大抵の夢じゃ彼は羽休めにも夢に立ち寄る事さえ出来ない」
“道”は龍にとって脅威でも何でもないが、それでも永劫あそこで彷徨い続けることは出来ない。ただでさえあの龍は闇に故郷を蝕まれた過去があるだけに、あの闇は居心地が悪い筈だ。
しょうがないわね、というようにエルメラは溜息をついた。
「…その龍を見つけたら、私の夢に誘導してもいいわよ」
「そうさせてもらうよ」
紳士は当然というように肩を竦める。
「それで? まだまだ沢山予定の狂ったヒト達がいるんだけど?」
エルメラは溜息をついた。
「……手伝えばいいんでしょう、手伝えば」
“審判”に裁かれたくなければ後始末をしろ、と脅す彼に嫌々ながらもエルメラは腰を上げた。
「暫く、彼と会えないと思うよ」
「そうさせてるのはあんたでしょうが」
エルメラは一度だけ後ろを振り返り、何かを断ち切るかのように、その場から姿を消した。
『魔女の楽園』編 完。
解説広場です、どうぞ↓
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「シューノレイヤ?」
「はい?」
「本編で貴方が呼ばれてた名前」
「ああ。俺はまだグリューノス公爵の名は継いでませんが、貴族の爵位は持ってます。祖父の持ってる爵位を一つを頂きました」
「ふぅん」
「だから正式には今の俺は伯爵ですが、殆ど使われてませんね。公以外では。単純にグリューノスの若君、としか」
「社交界も滅多に行かないしね」
「最低限は顔を出してますって。でも、疲れるんですよ。笑顔張っ付けて和やかに牽制とか駆け引きするのは」
「でもやらなきゃいけないんでしょ?」
「そうですね。グリューノスが他の貴族より別格扱いなのは、我が家が国内において政治面でも経済面でも群を抜いて優れているからです。でも、それは決して不動のものではなく、名前に胡坐をかいた瞬間、衰退は始まりますからね。街を守るには、…手が綺麗なままでいてはいけないんです」
「それは何処に於いても言えることよね」
「ええ。周りにグリューノスが無くてはならないと思わせ続けることこそが家の繁栄の真髄なんです。そのための駆け引きです。この家を敵に回したら家が傾くと恐れさせられないようでは、いくら後継者と言われていようとも、簡単に引き摺り下ろされます」
「でも、滅多に社交界に顔を出さない病弱な若君って振る舞ってるんでしょ? なめられまくりじゃない」
「今は別に構いませんよ。俺がなめられていても、今は祖父が公爵ですからね。敵と味方をはっきり区別するための仮面です」
「…なるほど」
「弱いと思わせて、侮らせることで相手の態度や顔を見るんです。名を継いだ後では全員名前に跪くようになって、俯いた顔がどんな表情をしているのか分からなくなりますからね。まだ顔が広まっていない内に、出来るだけ使えそうな者と使えない者と、信用できそうな者と利用するだけしてポイする者と役に立ちそうにない無能者と敵対する者に分けたかったんですよ」
「…結構細かいわね」
「貴族は一枚岩ではありませんからね。この分別を跨ぐ貴族だっています。貴族に限らず豪商や、爵位は無いものの政界に足を踏み入れてる者だっています。そういう者たち程、何処其処の貴族同士が繋がってるとかも知ってるものですから、侮られがちな彼らと親しくしておくととても便利です」
「だからグリューノスの街はそういう中流階級の地位が他より高いのね」
「おや、分かるんですか? 以前にも俺の街に来た事でも?」
「…え…ええ、まぁちょっと」
「いつ頃ですか?」
「…そうね。ずっと昔よ(…貴方の街がまだ国としても成立してない頃に…)」




