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みなと食堂へようこそ  作者: 庭野はな
営業編 第6章.鬼豚と呪いの店 
39/44

39.共同開発

 騒動があった晩、警察沙汰になったのでアレーナさんに連絡し事情を説明すると、翌朝一緒に警察署へ同行することになった。

 朝、店まで迎えにきたアレーナさんの車には、ボースさんの会社のお抱え弁護士さんまで同乗している。

 ひとりは心細かったからありがたいけれど、余計に事が大きくなるのではと内心不安でいっぱいだった。


 署へ着くと、小さな会議室のような場所に通された。

 そこで待っていたのは前日現場に来て私に事情を聞いた警官。

 彼がこの件の担当で、千登勢の奥さんの事情聴取などで徹夜をしたのだろう、皺だらけのシャツや無精髭もそのままに、ひどく疲れた顔を見せていた。

 更に私の後ろにいたアレーナさん達から名刺を渡され、顔が青くなったり白くなったりする彼に同情を禁じ得なかった。

 最初に私の個人情報の確認と、昨夜の私の聴取記録の書類にサインすると、ようやく本題の状況を説明してもらえた。


 奥さんの侵入の目的は強盗などではなく、嫌がらせにあったらしい。

 海水でびしょ濡れになった衣類の中から、数多の呪いグッズが出てきたんだそうで、それを庭に侵入して埋めたり建物に貼ったりしようとしていたらしい。

 ただ理由を尋ねると、「あの店はやっぱり呪われていた」とぶつぶつ繰り返すばかりで、正気とは思えない状態とか。


「全くとんだことでしたね。それでこの度の件はどうしますか。確かに不法侵入は犯罪ですが、あのような状況でしたし。起訴するかどうかはあなた次第です」


 話がとぎれた所で、担当の警官はそう切り出した。

 私は、アレーナさんと弁護士さんをちらりと見ると、彼らは黙って頷く。

 私は既に答えを決めていたので、まっすぐ警官を見据えてきっぱりと言った。


「今回は事件にするつもりはありません。実質的な被害はありませんでしたから、示談にしたいと思います」


 その後、改めて弁護士さんと共に先方との話し合いを持った。

 奥さんは精神的な不調で、釈放後にそのまま病院へ入院したらしい。

 その為直接の詫びは改めてとなり、代わりにご主人が私に謝罪した。

 そして、彼の口からぼつぼつ語られた奥さんのとった行動の理由は思いも掛けないものだった。



 そもそも千登勢の奥さんがこんな行動をとるきっかけになったのは、私がこの吉祥寺にくる前、二年前にあった。

 二代に渡り地元で長い間愛されてきた蕎麦屋だったけれど、建物に不具合が出て店の移転を考えた時期があったんだとか。

 店も手狭だしすぐでなくてもそのうち引っ越しをと場所を探していた時、うちの店が入る前の店舗が目にとまった。

 もちろんこの土地の生まれ育ちで、呪いの家の怪談の存在は知っていた。

 だけど、実際はただの管理者のいる空き家だということは周知の事実。

 駄目元で私が最初にそうだったように、不動産会社を通じて管理会社に問合せたけれど、やはりにべもなく断られてしまったらしい。

 その為に現実的には無理だと分かった後でも、近所なだけに、側を通る度にもしここで店を開いたらという夢物語を奥さんに語っていたらしい。

 はっきり断られたことまでは教えられていなかった奥さんは、すっかりその気になり、息子達にもあそこに引っ越す予定だと話してしまった。


「あの日、うちの息子が友達に自慢したらしいんですよ。今度あそこに引っ越すからと。その友達は昔の怪談を親から聞いたので嘘だ本当だと言い合いになり、売り言葉に買い言葉で忍び込もうとしたらしいのです。それで怪我をしてしまって……。所有者さんの計らいで、息子の事は伏せてもらいましたが、それがいけなかった。息子の友人達にも口止めをしたのですが、中途半端な噂が一人歩きをして呪いの噂になってしまったようです。それを知った時、私は妻と息子に事の次第を話し理解してもらったはずでした。ところが……」


 ご主人は声を詰まらせ、私から目をそらし俯いた。


「うちが断られたあの場所に、新しい店が出来ました。しかも同じ庶民向けの食堂ではないですか。申し訳ないが、私はその時悔しかった。先方には無理をした相場よりも良い家賃額を提示しても相手にもされなかったし、親父の代からこの土地の味になってきた自負もある。だからあなたが挨拶に来られた時も、どこかそっけない態度をとってしまったかもしれません。申し訳なかった」


「そんなこと……あの、そこは気にしないでください」


 私は、挨拶に行った時に、私の顔を見て表情薄く言葉少なかったけれど普通に挨拶をしてくれたご主人の様子を思い出す。

 千登勢のご主人は強面ではあるけれど、大将に比べれば穏やかで素朴そうな人という印象。奥さんはしっかりもので、似合いのご夫婦だと思っていた。実際、それが本来の二人の姿なんだと思う。

 それがどこかでボタンを掛け違えてしまったように、おかしくなってしまったんだろう。


「ありがとう。私も最初は悪い方に考えてしまっていましたが、みなと食堂さんが若いのに自分の店を持って頑張っている姿を見て初心を思い出しましてね。実はこの家業を継ぐ前に寿司屋で修行していたんですよ。のれん分けして寿司屋を出そうと金を貯めて。だけど、私はやっぱり親父の店を継ぐことを選んだ。古い千登勢の店をね。それで発憤し出汁の味を少し変えてみたり、創作蕎麦を出したりしていたんだが、そのせいで少し客足が少し遠のいてしまったんだ。自業自得なのにそれを妻が勘違いしたわけです」


「えっと、うちのせいで千登勢さんのお客様が減ったと?」


 私の言葉に、ご主人は今にも泣き出しそうに顔を歪めた。


「昼時が終わると長く出かけることが増えたんですよ。ご近所付き合いもうちみたいな店には大事なことだから大目に見ていたんですが、今度は息子に『あの店は呪いの店だ、だからお前は怪我をしたんだ』と言い聞かせているのを聞いたんです。息子も来年は高校生になるんです。そのくらい自分で判断もつくはずなのに、驚いた私は妻をきつく叱りつけたんです。どうもそれが反抗期の息子は気に入らなかったようで……。昨夜息子を問いただしたら、母親に唆された通りに学校で噂を流したと白状しました。妻が店を思ってしたことが、逆の結果を招いてしまった。息子も今の状況になって、ようやく全てを理解したようです」


 ご主人は、自嘲気味に言い切ると赤らんだ鼻をすすった。

 事件の後、一部始終見ていた人達により想像で尾ひれがついた噂が流れ、千登勢の一家は腫れ物をさわるような孤立した状況にあった。店も休業中らしい。

 私も色んな人から今回の件について聞かれたけれど、千登勢さんとの間が解決するまではこのことを話すのは控えている。


「もし店が競合して客が減ったなら、他店の足をひっぱるんじゃない、もっと店を良くするよう努力すべきなのに。そのことを分からせることが出来ず、私の監督不行届でこのようなことになってしまい本当に申し訳なかった。改めて妻と息子のしたことをお詫びする」


 後で知ったことだけど、アレーナさんは私から連絡があった時に相手の名前を聞いて、ちょうど少し前に資料を見ていたこともあり二年前の事件の少年の母親だと気付いたのだとか。

 子どものために情報は伏せる約束だったので私には言わなかったけれどルリちゃんが仕掛けたピンク蛙は明らかにやりすぎだったので、もし相手がそのことでごねた時のため、当時担当した弁護士さんを用意したとか。

 でもそんなものは必要なく、千登勢のご主人も弁護士さんの顔を見ても動揺することなく協力的だった。

 お陰で話もトントンと進み、奥さんからお詫びの手紙と、今後このようなことをしない念書をもらい、慰謝料を受け取ることで手打ちになった。


 そして次の日曜日、正午ちょうどに千登勢の父子がみなと食堂に現れた。

 定休日だけど、私は営業用の赤いエプロンをつけている。


「この度は、迷惑をかけてすみま……した」


「声が小さいっ。最後まできっちり言わんか」


「迷惑をかけて、すみませんでしたっ」


「もっと頭を下げろ」


「千登勢さん、もうその話は先日終わったじゃないですか」


「いや、息子も自分がしたことをお詫びしなきゃならんでのです。悪い噂がどんなに店に致命的か昔から言い聞かせていたのにこの馬鹿は。みなとさん、改めて私からも息子の失礼をお詫びする」


 自分よりも背の高い息子さんを大きな手で押さえつけながら、更に低くご主人が頭を下げる。

 その姿を横目で見た息子さんが涙声で叫んだ。


「親父……やめてくれよ、悪いのは親父じゃない、俺なんだから。おねえさん、嘘の噂流してごめんなさい」


「分かりました。もう顔をあげてください。さあこちらへどうぞ」



 私は、千登勢のご主人の薄くなった頭頂と、青々と刈りたての坊主頭に向かって言うと、店の四人がけの席へと誘った。

 そこには、先に来たルリちゃんが座っている。

 先日の件で、ミカゲさんにこってり絞られ、とうとう私の家でミカゲさんの監督がない限り魔法の使用を禁止と言い渡されてしまったらしい。

 だから、今日のルリちゃんにはどこか覇気がない。

 私が彼女を二人に紹介すると、ルリちゃんは、奥さん本人は同席していないけれど、代わりにご主人と息子さんに自分がしたことを謝罪した。


「じゃあ、これで全て水に流すということでよろしいですね」


「ああ。そう、これで最後に。魔法使いのお嬢さん、あなたのお陰で妻がひどい暴走をする前に止めることが出来た。感謝してますよ」


「それじゃあ私は千登勢さんとすることがあるから、二人はここで待っていて」


 私はルリちゃんと息子さんに飲み物を出すと、ご主人を連れて厨房へ向かった。

 その時に、ジュースを飲むルリちゃんの目が嬉しそうに輝いたのを見逃さなかった。

 「魔法使い見習い」ではなく「魔法使いのお嬢さん」という言葉に喜んだに違いない。

 困った所もあるけど、やっぱりルリちゃんは明るく元気なほうがいい。



「これがみなとさんの厨房……機材は古いが、綺麗に磨かれて……いい店だ」


「ありがとうございます。実は私、魔力が使えない障がいがあるので、古い機材を改造して使えるようにしてもらってるんです」


「えっ、そんなことを私に言っても大丈夫なのか」


「必要がない限り言いませんが、別に隠していませんし。それに、魔力が使えないことと、美味しい料理を作るのは別でしょう」


 私が片目をつむってみせると、ご主人は鼻息荒く頷いた。


「もちろん。最後は自分の腕と舌だ」


「ところで、この間、千登勢さんはお寿司屋さんで修行されたことがあるって仰っていましたよね」


「ああ。うちで寿司は出せないから米は触っていないが、身体が忘れないように魚を捌くのは欠かさない」


 中背でふっくらとした体つきの上に眉と唇の太い頑固そうな顔が乗った千登勢のご主人から、大将と同じ料理人としてのプライドと熱意を感じ、私は嬉しくなった。


「じゃあお店のメニュー、米料理を増やしてみませんか」


「こ、米料理だって?だがうちの店の単価では寿司は採算が……」


「いえ、お寿司じゃなくて、丼です」


「丼?」


「お寿司屋さんにいらしたということはご飯は炊けますよね」


「ああ、それはもちろん。修行の追い回し時代に先輩からたたき込まれたもんだ」


「美味しいお米の味を知って炊ける。だからこそ千登勢さんにと思ったのです。お願いしたもの、持ってきていただけました?」


 私の言葉に、ご主人はずっと小脇抱えていた風呂敷包みを、思い出したように私に差し出した。

 それを受け取り台に置いて包みを開くと、濃褐色の液体が入った小さな壺が現れる。


「希望通り、うちの出汁とかえしを合わせた蕎麦つゆだ」


「ありがとうございます。じゃあ、そこで見ていてくださいね」


 私は小鍋に出汁を入れ、味を見て少し水を足し火に掛ける。

 沸騰した所で、予め用意しておいた串切りのタマネギを入れ、沸騰した所でやはり小さめに切った鶏腿肉を入れる。

 試食用なので、普段の半量。

 火を通す間に具の水分で出汁が薄まり、再び煮詰まり出した頃に刻んだ三つ葉を入れ、更に卵を二度に分けて溶き入れた。

 8分火が通ったところで残りの卵を入れすぐに火を止める。

 茶碗にご飯をよそうと上から出汁と共に卵とじを乗せ、二十秒ほど蓋をし蒸らして完成。

 とろりとした卵の黄色に三つ葉の緑が映える。中から覗く鶏肉も肉汁を滲ませぷりっとつややか。


「どうぞ召し上がってください」


 おごそかに茶碗を差し出すと、長年蕎麦を打ちタコの目立つ手は、躊躇せずそれを受け取った。


「むっ、むう。これは……うまいじゃないか。肉の火の通りに、タマネギの甘さ、つゆの味が米と具全ての味をまとめているな。初めて食ったのに、懐かしい味だ」


 鶏肉を噛みしめ、出汁を含んだ卵を味わい、それらと混ざり合ったご飯を頬張る。

 一口づつ味を確かめるように咀嚼しながら、あっというまに平らげてしまった。


「これだけじゃあ、もっと食いたくなってしまう。なんという名前の料理なんだ」


「親子丼です。鶏肉と卵で親子だから」


「なるほど、そういうことか。うまくつけたな」


「ほんとですね。この鶏肉のかわりに、豚肉や油揚げ、野菜など色々変えることが出来ます。で、肝心なのは具や卵もですが、つゆなんですよ」


「そうか、それでうちの蕎麦つゆなのか。でもどうしてこれをうちに? うちのは先代から継ぎ足してきた無二のものだが、あんたなら普通のつゆくらい作れるだろう。それに、米料理の専門店の側で米料理を出して困るのはそっちじゃないのか」


 千登勢のご主人のもっともな言葉に、私はにやりと笑ってみせる。


「実は、私には野望があるんです」


「野望?」


「米料理をもっと普及させたいんです。だって、需要がないと供給が増えないでしょう。じゃないといつまでも米の値段は高いままで、手を出しにくいじゃないですか」


「おいおい、そんなの店の一軒や二軒で変わると思ってるのか。寿司屋なら全国で何百とあるが、それでも高嶺の花なのはかわらないぞ」


「だからだめなんです。普及させるためには家庭でも作れる簡単な当たり前の食べ物でなくっちゃ。それにこの国は昔は米を食べていたっていうじゃないですか。それを取り戻すだけです」


 私は熱心に語りながらも、この世界の昔ではなく、元の世界のことを考えていた。


「それに、産地では今でも常食されているんです。だから都会でも皆が当たり前に米料理を食べる時代がくる。千登勢さんも、そんな時代を作ってみませんか」


 ちょっと格好つけ過ぎた。

 思わずご主人の鼻先に人差し指をつきつけた所で我に返り、恥ずかしくそっとそれを下ろし後ろで手を組む。


「だ、だが米は高いぞ。うちで出すには採算度外視するしか値段が合わん」


「そこでです。実はうちも出来るだけ安く仕入れる為に農家と直接契約して米を購入しているんですが、よろしければご紹介しますよ。千登勢さんは蕎麦が主力。もしどうしても無理ならいつでも外すことが出来るし、何よりさっきの親子丼は米以外は蕎麦に使う材料で作れるでしょう」


「なるほど。確かに米が安く手に入るなら……タマネギや三つ葉は天ぷらに使うし、肉は鶏蕎麦、卵も……一度試しに出してみるか」


「後でうちの米を一袋お分けします。うちの店で使う半月分ありますから、練習に使ったりお客さんに試食で出すなりしてみてください。お蕎麦と出す天ぷらを炊いた米に乗せて、甘めにした蕎麦つゆをかけた天丼も美味しいですよ」


「それはありがたいが、ここまで教えてもらった上に米まで提供してもらうなんて。ご好意に甘えていいのか」


「ええ。私の野望に乗っていただくんですもの、それくらいはさせてください」


「じゃあお願いする。それで、よかったらもう一度作る所を見せてくれないだろうか」


「もちろん。せっかくですから子ども達の分も作って昼食にしましょう」



 私が、冷えたお茶や箸を机に並べていると、厨房からお盆を抱えた千登勢のご主人が登場した。

 盆の上には大ぶりな丼が4つ乗っているが、日々粉と格闘し鍛えられた太い腕は軽々と持ち歩く。

 ルリちゃんと息子さんがそれぞれの前に置かれた丼を見て、唾を飲みこんだのが分かった。


「さあ、出来たてを召し上がれ。お嬢ちゃんの親子丼は自分が作って見栄えがいまいちだが、味は保証する」


「千登勢さん親子は、鬼豚のロース肉を使ったカツ丼ね。親子丼よりも食べ応えがあるでしょう。気に入ったら、お父さんに作ってもらってね」


「すげーうまそう!いただきます」


「じゃあ自分も、いただきます」


「いただきますわ」


千登勢親子が揃って丼ごと口元に運んで勢いよく食べ始め。ルリちゃんも一口食べると幸せそうに満面の笑みを浮かべた。


「鬼豚を食べるのは始めてだ。こんな肉を手に入れるとはすごいな」


「いただきものですから。分不相応なこの肉が終わった時に普通の肉に戻すことを考えると少し怖いです。かといってこの鬼豚を仕入れるのは無理ですし、他にいい肉がないか探しているんですよ」


 既に私の声が耳に入っていないのか、ご主人の目には箸先に集中し、カツ一切れと卵とご飯の大きな一口を頬張る。

 親子丼より少なめの卵を回し入れてすぐにカツを入れるので、下側の衣はつゆが染みながらも、上側の衣のさっくりさはしっかり残っているはず。

 親子丼ほど蕎麦つゆを薄めず濃いめの味付けだけど、カツにはそのくらいがちょうど良い。


「カツと蕎麦つゆとの相性が良いでしょう。親子丼だと少し甘めのほうが好まれますけど、カツ丼にはお宅の味そのままでちょうどいいのですよ」


「うちの揚げ油は天ぷら専用だから、フライは難しいな。豚肉は蕎麦に使わんし、これは家で楽しむとするか」


「親父、これ週一は食いたい」


「うちは普通の肉だからな。それでよければ作ってやるよ。みなとさん色々感謝する。これからもお互い美味いもんを作っていこう」


「もちろんです。これからうちの美味しい米料理でお客が減っても恨みっこなしですよ」


「あはははは、そん時はもっと美味い蕎麦で、取り返すよ」


 前に座っていた千登勢のご主人が大きな手を差し出し、私はそれを握ると意気込みを示すように力を込めた。


 固い握手を交わしてから二週間後、二ヶ月に渡ってご近所の噂の中心にいたみなと食堂と、先日の騒動でご近所を騒然とさせた千登勢に関する噂が更新された。

『二店の抗争は終結。その証に共同開発をした、千登勢の親子丼と天丼、みなと食堂のカツ丼は絶品』


 抗争なんて身に覚えがないんですけど。噂ってやっぱり怖い。

 千登勢の奥さんは、病院から退院後に実家に戻っているそう。

 ご主人が何度か迎えに行っているけれど、ご近所に顔向けできないからと帰るのを拒んでいるらしい。夫婦仲のこともあるらしく、焦らずに時間をかけるとか。

 その不在の奥さんに代わり、最近は息子さんが放課後や週末に店を手伝っているらしい。

 うちのカツ丼用に売ってもらっている蕎麦つゆを持ってきたご主人が、「まさか息子が蕎麦屋に興味を持ってくれるなんて、三代目は期待していなかったのに」と顔を赤らめ照れながらもとても嬉しそうにしていた。


 その姿を見て、胸中に「店の将来」という言葉が急浮上する。

 戻る方法はあってもその鍵に出会うのがいつなのかあてはなく、明日かもしれないし、一年後かもしれない。十年後、もしかしたら一生をこの世界で過ごすことになるのかもしれない。

 米の普及が野望だと千登勢のご主人に語ったけれど、それは嘘じゃない。

 それが私を元の世界へ戻る鍵を繋げる架け橋だと信じているから。

 だけどその帰還の代償に、この世界に来てからの全てを注ぎ込んだ店をこの世界に置いていかないと行けない日がくる。

 その時全てを、出会った大切な人々と店を手放すことが出来るんだろうか。


 私の心の中に、この世界への執着が芽生えていることに気付いた。

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