28.狐の好物
仕込みを終え、厨房から上階の台所に戻った私はご飯を炊いていた。
ぐつぐつという音が、次第に軽くふつふつと変わっていく鍋の音に耳を傾けながら、根菜を刻む。
傍らの鍋の中にあるのは、仕込み前に油抜きをし甘辛い醤油ベースの煮汁で煮込む油揚げ。
本来なら一晩置いておきたいところだけど、冷めるまで煮汁の中で味を含ませたところで良しとしておこう。
そう、私が作っているのはいなり寿司。もちろん関東風。
関西風も好きだけれど、この甘辛い濃い味の揚げが馴染みの味だもの。
鍋の中がかすかにパチパチと乾いた音をたて、あわてて火を止め蒸らしに入る。
そして待つ間に酢飯を作ろうと、調味料入れを除き、伸ばしかけた手を止めた。
「米酢がないのがほんと残念。こればっかりは私の手に負えないな、せめてもっとお米が普及すれば状況も変わるのだろうけど」
一人でいる油断もあって、つい愚痴が口をついて出てしまう。
大将宅とお店には、この世界では定番の麦由来の穀物醸造酢に始まり、果実酢が数種にバルサミコ酢まで合わせて八種類ほどが揃っているけれど、米酢はない。
もちろん、寿司酢に必ずしも米酢を使う必要はなくて、出雲で出された田舎寿司は、流通している穀物酢に柑橘の果汁を加えた香り良いものだった。
だけど、甘辛い揚げに柑橘の風味はいまいち合わない気がする。
穀物酢だけでもいいのだろうけど、米酢に慣れた私は風味に違和感があるのよね。
とりあえず穀物酢で寿司酢を作ると、味見をして軽く眉根を寄せてしばらく悩んだ末、出汁で茹で水気を切っていた根菜をそこに浸した。
そして濡れた手をエプロンで拭きながら、小走りで階下の店の冷蔵室へと向かった。
「やっと飯がきたか。おせえよ」
私が盆を手に自分の部屋の扉を開くと、蓮也くんがずいぶんすっきりとした顔で身体を起こす。
いつも通りぶっきらぼうな口調で文句を言いながらも、何故か私と目を合わそうとしない。
その様子に怪訝に思いながらも、私はそのまま中に入った。
蓮也くんのために大将が用意した替えの布団は来客用で、普段私が使っているものより一回り大きいせいか、部屋が狭く感じてしまう。
足下に気をつけながら枕元にゆっくりと腰を下ろすと、手にしたお盆を傍らに置いた。
「もう起きてたんだね。気分はどうなの」
「おう、熱が下がってずっと楽になった。あの薬、くせーけどさすがに効き目もすごいな。それより早く飯くれよ」
「はいはい。その前に手を拭いてからね」
「ちぇ、いちいちこまけぇな」
私はせかす蓮也くんに手拭き用のお湯で絞ったタオルを差し出す。
すると、朱の糸を巻き付けた手がひったくるようにそれを受け取り、乱暴に手だけでなく顔まで拭う。
まるで拗ねた子どものような様子に苦笑しながら吹き終わったタオルを受け取ると、代わりにお皿を渡した。
「なんだこれ、肉じゃないのかよ」
皿に乗った茶色い塊を見て最初は肉料理だと思い喜色を浮かべた蓮也くんだったが、それが揚げだと分かると不満の声をあげる。
私は笑いをかみ殺しながら説明した。
「野生を取り戻して貰っては困るから、お肉はやめときましょうってことになったのよ。女将さんが治ったら焼き肉にするから楽しみにしてねですって。それはいなり寿司といって、米料理よ。味付けした油揚げの中に酢で味付けしたご飯が詰めてあるの」
俵型のそれをひとつ手にし、おそるおそる一口かじった蓮也くんは、味を確かめると顔を一段輝かせ、勢いよく残りを口に押し込んだ。
皿に盛ったのは、俵型のいなり寿司が6つ。
うち3つは、揚げを裏返しにし、酢飯に根菜を混ぜ込んだ酢飯を詰めたもの。そして残りはゴマだけを混ぜ込んだ酢飯を詰めたもの。
「おい、これうっめーな。もうこれしかないのかよ」
「たくさん作ったから、まだあるよ。とってこようか」
「おう。甘辛い揚げがじゅわっとしてうまいな。中の米がさっぱりしてすげー食べやすい。でもなんでこれ、いなり寿司っていうんだ?稲荷って、神社のことか」
「あたり。私の故郷では、揚げは狐の好物だって伝承があってね。稲荷神社にいなり寿司をお供えするって風習があったのよ。だから蓮也くんも喜んでくれるんじゃないかと思ってね」
「ええっ、狐って油揚げも食うのか。って、俺を狐扱いしてんじゃねーよ」
憤慨したように腰の尻尾を荒々しく振るけれど、その食べっぷりは肯定してるも同じじゃない。
私はニヤつきそうになる口元をうつむいてごまかしながら、まじめぶって言う。
「どうかな。揚げの色が狐色だからとか、俵を模してとか諸説あるらしいけどーー」
「いや、稲荷神様も眷属の狐達も油揚げが好物だぞ」
上から、私の言葉を遮って低い声が落ちてきた。
あわてて振り返ると、開けたままの部屋の入り口にいつの間にか大将が立っていた。後ろには、女将さんも一緒だ。
「英里ちゃん、これって私たちも食べていいのよね?」
女将さんが手にしているのは、キッチンのテーブルの上に置いていた木桶だった。
中には、皆が食べるのに十分な数のいなり寿司がぎっしりと並んでいる。
「はい、もちろんですよ。お二人には後で声をかけようと思ってました」
「じゃあここで皆で食べましょう。一緒に食べるほうが美味しいわ。それに、蓮也くんに一人で食べ尽くされそうなんですもの」
皿に残った二個を両手で持つとどんどん口の中に押し込む蓮也くんの食べっぷりに女将さんが安心したようにほほえんだ。
狭い部屋の中で布団を囲むように三人が座り、思い思いにいなり寿司を頬張る。
「大将、さっきの稲荷神様が油揚げを好きって、本当なんですか」
「ああ『お狐様は黄金好き』ってな。祭りになると、黄金色に揚がった油揚げを奉納するぞ。そうか、英里の故郷でも同じなんだな。ところでこれは、一度煮て味をつけてそのうえ飯を詰めたのか」
大将はそう言うと、料理人の血が騒ぐのか楽しげにいなり寿司を見る。
「あら熊ちゃん。西の方だとこれに似てるのがあるわよ。”しのだ”って名前の、揚げの中におからを詰めて出汁で炊いたものを稲荷神様に差し上げるのよ。形も三角でね、ほら、ちょうど狐の耳みたいでしょ」
女将さんが膝の上の皿に乗った二つのいなり寿司を手にすると、横にいる蓮也くんの頭の上に添えて見せる。
「お、俺で遊ばないでくださいよぅ」
「あら、これだと狐というより耳が垂れた犬みたいね」
「女将さんっ」
じゃれつく女将さんに尻尾を逆立てて抵抗する蓮也くんの明るい姿に、二人きりの時のぎこちなさはない。
あれはなんだったんだろうと首をかしげていた私に、大将はせっつくように声をかけた。
「おい英里、こっちの炊いた米は普通の醸造酢を使っているだろう。出汁で炊いた根菜を酢に漬けたんだな。お互いの風味が馴染んでいるな。だがもう一つの、ゴマ入りのほうは普通の酢ではないだろう」
「そうなんすよね、野菜の入ってるほうがさっぱりしていて、ゴマのほうが味が濃いっす。俺はゴマのほうが食い応えがあって好きっす。だからそれをもっととってくださいよ」
「蓮也っ、だからいつも言ってるだろうが。料理人なんだから、物を食うときは好き嫌いだけじゃなく何を使ってるかやどうやって作ったかを考えろ」
大将は、さすがにいつものように拳固をふるうことはなかったけれど、蓮也くんをギロリと鋭い目でにらみつける。
だけど大将の叱咤はどこ吹く風、女将さんの差し出した皿を受け取ると何事もなかったのように十個目になるいなり寿司を口に放りこんだ。
「ちっ、まあいい。で、このゴマのほうに使ったのは何だ。普通の酢じゃないな。生姜の風味が強くてこの飯の薄い桜色……さっき下に取りに来てたのはあれか」
私は、大将の言葉に深く頷く。
「そうです、紅生姜の漬け汁を分けてもらって混ぜ込みました」
初夏に仕込んだ梅干し作りで出来た梅酢に新生姜を漬けると紅生姜が出来る。この世界でも焼きそばやお好み焼き、たこ焼きに欠かせない馴染みのもの。
その紅ショウガの漬け汁を寿司酢の代わりに使った。
梅と生姜の風味が揚げの味を相乗効果で引き立ててくれる、癖になる味。これは昔、祖母が残った漬け汁の再利用で作ってくれた鯖寿司を思い出して使ってみた。
狙い通り、揚げとの相性も良くて、ほのかに薄ピンクに染まった酢飯が初春らしい。
私も、自分が作ったそれに舌鼓を打ちつつ、満足の笑みをこぼした。
思えば、群馬から戻ってきた時から色々あったせいで、揃ってゆっくり過ごすのは久しぶりな気がする。
歓談しながらの食事を終えると、私と大将が店に戻る時間になっていた。
大将と女将さんが食器を集め持って階下に向かい、私は夜に部屋に戻らなくていいよう着替えなど必要なものをまとめていると、布団に潜った蓮也くんが話しかけてきた。
「なあ、寝飽きたんだけど暇つぶせるものはないのか」
「蓮也くんの部屋から何か持ってこようか」
「げ、あの臭いは今かぎたくねぇから勘弁してくれ」
「うーん、下にある女将さんの本は……趣味じゃないか」
私は、読書が好きだというリビングの棚に並ぶロマンチックなラインナップを思い浮かべ苦笑する。
かといって、私が持っている書籍というと、群馬から持ってきた教材一式と、料理関係の本に限られる。
「私が今持っているものというと、お店関係の雑誌と食材関係の本くらいかな」
「それそれ、そういうのでいいんだよ」
押し入れの木箱に詰めたグルメ雑誌を数冊か枕元に置いてから部屋を出ようとしたところで、蓮也君に呼び止められた。
「その、飯、ありがとな。うまかった」
「改まってなによ。いつも賄いで私の作ったもの食べてるじゃない」
「だって、わざわざ作ってくれたんだろ。あと、悪かったな」
「何がよ」
苦々しい顔での突然の感謝の言葉に驚き、更に謝まられて戸惑って思わず言葉を返した。
だけどそれには答えるつもりはないようで、いつもの素直じゃない蓮也くんらしくフンと鼻を鳴らし話題を変えてしまった。
「そういえば、机の上のも読んでいいか」
机の上と言われて目をやると、地図やノートなどを積み重ねた一番上に吉祥寺周辺の飲食店をまとめた雑誌が乗っている。
それは店舗探しをするのに、近隣にあるお店を調べる資料に使っていたものだった。
付箋をつけてるし書き込みがあるけどそれで良ければどうぞと答えた時、階下から大将に呼ばれ、私は慌てて部屋を後にした。
居酒屋野豚野郎の初営業は、お正月のお祝儀のように始終満席だった。
年始の挨拶代わりに家族や友人を連れて途切れなくやってくるお客さんに忙殺され、蓮也くんの抜けた穴の大きさを痛感した。
そして閉店後、一人最後の片付けを終えて店の戸締まりを終えると、草臥れきって着替える余裕もなく、リビングのソファーに倒れ込み毛布を被ると数秒で深い眠りに落ちた。




