悪役令嬢の婚約者-リチャード- 9
リチャード視点です
「なあ」
「…………なんだ」
パトリックの小さな問いに顔も動かさず応える。
「見てるよな」
「振り返るなよ、逃げるから」
また何をやっているんだ……、とパトリックの潜められた声が空気に溶けた。
あの日の夜が明けても、のらりくらりと避けられローズには避けられている。
避けられてはいるのだが、見られている。
ローズは今日も物陰からじっとこちらを見つめているのだ。あの目で。
振り返ったり、話しかけようと近づけば逃げてしまう。
だから今日も”気付いていないふり”をして、ローズの存在を感じるにとどめている。
妹に未だ避けられているパトリックは、日に日に顔色が悪くなっている。ほとんど白だ。
今もよほど振り向きたいのだろう。無表情を装いながら先ほどから何やら「お兄ちゃんにも話してくれないのか?」「お兄様おかえりなさい、ぐらいは言ってくれたって」「そんな目で見てくれるな」と呟いている。大丈夫か。
時間切れなのか、注がれていた視線が解けローズはするりとどこかに歩いて行ってしまった。
とたんに肩から力が抜け、椅子の背に体を預ける。
「────まったくもう、可愛いにもほどがある」
ふふ、と思わず笑ってしまえばパトリックがとんでもないものを見るような目を向けてきた。
帰路ではローズがどんな反応をするのか楽しみで仕方がなかった。
戻ったと知って待てないとばかりに出てくるだとか、
俺が不在の間に何をしていたか話したいとウズウズした顔を隠しながらやってくるだとか、
寂しがって会いたいと思ってくれていたら御の字だと考えていたが。
今までにないローズの様子を見て、まだ知らない部分があったのかと驚いた。
この不審な行動の原因が前回のヤキモチ関連ならば、それが存外心地いいなんて言ったら更に怒らせてしまいそうだ。
「余裕そうだが、このままでいいのか?」
相手はローズだぞ、とパトリックが怯えたような表情でメイドから水を受け取った。
それを一息で飲み切るまで待つ。
「もう少し見つめられたいところだけど、そろそろ捕まえに行かねばね」
妹のことは任せてくれと安心させるように笑顔を向けると、パトリックはいつものように胃のあたりを押さえた。
「なんだか俺は心配だ……」
*
書庫の中、真剣な目で本の背表紙を追うローズの後ろから忍び寄る。
傍に立っていた侍女たちに向けて静かに下がるよう指示を出す。
侍女たちが、なぜか待ってましたというような興味津々な顔をして下がっていったことは気になるが、
それにも気づかないほど、真剣に何かを探すローズの背後に立ち本棚に両手をかけ腕の中に囲って捕まえた。
腕の中に納まるほど華奢な背は、わずかに揺れただけだった。
いつもの変わった「にゃ!」だとかは出てこない。
両脇に置かれた腕が邪魔で逃げられないのか、ローズは本棚の前から動かない。
「──ローズ」
逃げないのをいいことに、目の前にある柔らかな髪にキスを一つ落として名前を呼んでみる。
しかし、反応はない。無視するようだ。
可愛すぎて、やりすぎてしまいそうだ。
「聞こえないのかな?」
なら仕方ないね、と続けて頭にキスを贈る。
この柔らかい髪をかき上げ耳にキスを落としたら怒らせてしまうだろうか、とまで想像して
まだまだ無視されるのも悪くないと思ってしまった。
ローズはわずかに震えながらも無視を続けている。
あくまで触れないように伸ばしていた腕を少し縮め、距離を詰めた。逃がさないように。
そして髪の上から耳のあたりにキスを落とし、予告する。
「──聞こえるまで続けようか」
今度はビクリと大きく体が揺れたかと思った次の瞬間には、腕の中でローズがグルンとこちらを向いた。そして、ぐいっと腕を伸ばして近付くなと抵抗している。可愛すぎて死にそうだ。
しかし、振り返ったローズは頬が少し染まっているだけで、目はあの夜に見たままだった。まだご機嫌ナナメらしい。
「残念。聞こえたみたいだね」
じとーっとあの目でこちらを見上げるローズを見下ろし、返事を待つがあの小さな唇は動かない。
返事があるまで続けてもいいが、やはり嫌われるのだけは回避したい。少し意地悪が過ぎたかな、と言葉を選び直す。
「──会いたかった」
ただいま、と囁いた声は少し弱いものになってしまった。ああ、やはり声が聞きたいな。
良いか悪いか返事があることを期待して、やはりまた意地悪な言葉を選んでしまう。
「ローズ、戻って来たことを確かめたいのだけれど、触れても良い?」
これでもかと俺を突っぱねていた手がピクリと揺れ、眉がやや下がる。
その表情が泣きそうに見えて冷やりとする。
やりすぎたか。
「あぁ、すまない。触れないから泣かないで」
ローズに安心させるように”リチャードお兄様”の仮面をつけ、逃がさないように捕まえていた手をぱっと離した。二歩後ろに下がり距離をとり、両手をゆるりと持ち上げて触れないと示す。
ローズはパッと手を胸の内に縮めると、またプイッと背を向けてしまった。
「……泣いていません」
しかし、今度は小さな返事があった。それが嬉しくて、ふふと思わず笑ってしまう。
「~~~~っ、わたくし、怒っていますの!!」
笑ってしまったのが気に入らなかったのか、先ほどよりしっかりとした返事が返ってきた。
「ローズは、なぜ怒っているのかな?」
「まあ!! 身に覚えがないと!」
ローズは勢いよく振り返るとふわふわの毛をブワリと逆立てた子猫のように怒りを膨らませた。激しく怒っても可愛いだなんて、俺の婚約者は怖い。
やましいことは何もないと肩をすくませ、背を背後の棚へ預けた。
わなわなと怒りに震えるローズは離れろと示していたことなんて忘れたのか歩をこちらに進め、勢いよく俺の背後にある棚にパシンと手をついた。こちらから見れば近距離で上目使いに見上げられているようにしか見えないが、おそらくこれは凄んでいるのだろう。全く恐ろしくは無いが、可愛すぎて恐ろしい。
「リチャード様は……っ、出立前に……!」
「あぁ、そういえば話の途中だったよね。侯爵家から戻って来てくれて嬉しいよ」
ぐっと言葉に詰まったローズは何かを堪えるように唇を強く結んだ。
「──ローズはずいぶんと機嫌が悪そうだけれど。それは、どうして?」
先ほどより距離が近いとローズは気づいているのだろうか。
うっかり伸ばしてしまわないように組んでいるこの腕を解き、無防備に近づいたローズを抱き寄せ捕まえてしまおうと思えば出来るというのに。
「どうして……、ですって……?」
今度こそグラグラと瞳が揺れ始めた。涙がぷわりと浮かんで瞳が揺れて見える。泣かせたくないと思っているのは嘘ではないのに、自分のために涙が出るのだと思うと隠しておきたい暴力的な自分が歓喜に震えている。
「なんだったかな、あぁそうだ。──ローズのお気に入りの、彼女と、ローズより先に、”口づけ”をしたのが許せないと言っていたよね?」
もしかして、それのことかな? と、ゆっくりと確認する。
よほど悪い顔をしていたのか、ローズがジリッと後ろに下がろうとした。それをすかさず片腕で捕らえ引き寄せる。
自分で言うのもなんだが、”我慢強い”方だという自信がある。
それなのに、ローズに対してどんどん堪え性が無くなっているようで困る。
「大方、レイノルドから『リチャードは必要とあらば何でもする』とでも聞いた? それは、まあ……ある意味で合ってるかな」
ローズが信じられないものでも見たかのように目を見開く。
弟から婚約者を奪うために何年費やし、何を引き換えにしたか。これを知っているレイノルドなら、俺のことをそう評するだろう。
「そうレイノルドから聞いたローズは、思ったわけだ。『必要であればローズが気に入って連れ歩いている彼女にも手を出しておかしくない男だ』と。俺がローズ以外に触れることを想像したんだ? こんな風に」
視線を合わせながら、顔にかかっていた髪をすくいとりキスを落とす。
ピシリと固まってしまったローズの顎をゆっくりと持ち上げ、菫色の瞳をのぞき込む。
ただおもしろくないな。俺よりレイノルドの言葉の方を信じるなんて。
そばにいれなかった俺が悪いのか。不安にさせたのが悪かったのか。
だがこれからも、きっと会えない時間もあるだろう。すれ違う時もあるだろう。不安につけこみ甘言を囁く者も現れるだろう。
それをローズは乗り越えられるだろうか。
「────それで、もう、俺の婚約者でいることは嫌になった?」
それは残念だ、と呟けば。
一拍、時が止まり。
もう引き返すつもりもないのに、失言してしまったことに気付く。
ああ、もしかして俺は恐れていたのかもしれない。
こうしてやっと手に入れたというのに、ゴチャゴチャと邪魔が入り、またローズが『リチャード様の幸せのために』なんて去るのではないかと、頭の片隅で恐れていたのかもしれない。
まいったな、と自嘲気味に笑えば
先ほどまで固まってされるがままだったローズの表情がふわりと綻んだ。
その女神のような笑みに目を奪われる。
そして、ローズがゆるりと両手を持ち上げ、その手が、腕が、俺の肩を過ぎ、包み込むように抱きしめられた。
ゆるりと弱い力なのに引き寄せられるように体が前に傾く。
触れてはいけないと思っていたローズが。ローズの方からやって来た。
これはまた夢かと一瞬疑い、今まさに起きている現実だとローズの熱が伝えてくる。珍しく頭の中の処理が追い付かない。
いや、でも、と性懲りもなく疑う気持ちと、夢ならば抱きしめ返していいかと遠慮のない力で引き寄せ────
首に痛みが走った。
「────────っ」
想像していなかった痛みに腕の力が抜けてしまったのか、腕の中からローズがするりと抜け出した。
痛みを感じた首筋をおさえて、遅れて気づく。どうやらこの愛らしい白猫に噛まれたらしいと。
「馬鹿にしないでくださいませ!! わたくしは逃げも隠れもいたしません!! 最期まで立つのはわたくしです!!」
今までにないローズの怒号に何かを察したのか、出入り口で待っていたはずのトーマスがわざと大きい物音を出して近づいてくる。
気遣いはありがたいが、恐らくトーマスの考えている事態は起きていない。まだ。
その音で状況を思い出したのか、ローズは口を引き結んだ。
大丈夫か? 見ても大丈夫なんだな? としつこいぐらい確認してから恐る恐る状況を確認しに来たトーマスに、手を振ることで何もしていないことと、また離れるように伝える。
何を想像していたのかあからさまに安堵した表情でトーマスが去った後、ローズに向き直る。
そしてローズの瞳からポロポロと涙が零れているのを見て、もう降参するしか無くなった。
先ほどのローズの宣言に自然と喜びなのか安堵なのか、なぜだか笑みが湧いてくる。
やはりローズはたまらない。いつだって俺の想像を軽く飛び越えてきてしまうのだから。
「笑うところではありません!」
「あぁ、ごめんね。つい、嬉しくて」
クツクツと笑ってしまうのを抑え、ローズに向き直る。
「嬉しいよ。ローズの気持ちを聞けてよかった」
すると、ぐっと何かが詰まる音が聞こえた。
ローズは真っ赤な顔をして震えながら何やら魔王だのなんだの言っているが、可愛すぎるのでもう一度捕まえてもいいだろうか。
「では、我が婚約者殿はヤキモチを焼いて避けていたのかな?」
「べ、別にヤキモチを焼いて避けていたわけでは……」
「彼女とは何を話していたのか聞いているだろう?」
「……サーラ様からは何も。二人の問題は二人で解決するようにと」
出立前の彼女とのやり取りを思い出し、あのしたり顔の聖女に心の中で舌打ちをしてしまう。
「まぁ、そうだね。そんなことよりもまず、婚約者に一刻も早く会いたいと急ぎ戻った男の話をしても良いかな」
ローズの中では話は済んでいないのか、ぷくっと頬が膨らみ、視線が下がってしまった。残念ながら、俺の中で彼女のことよりもローズの方が優先順位が高いんだ。
「待たせている婚約者のことを、今度は夢ではなく抱きしめたいと馬を飛ばして帰ってきたんだ」
その視線を持ち上げるように、顎に指をかける。
「他のことをしていても頭の片隅にはいつもいる婚約者の喜ぶ顔が見たくて、色んな土産を持ってきた。
その愛する婚約者は、寂しすぎて拗ねてしまったようなんだ。どうしたらいいだろうか?」
愛を囁かれたことがないなど言っていたが、これは伝わっただろうか。
「……他と同じは嫌です」
小さな声に一つ相槌を打つ。
「…………特別なお土産でないと許しません」
もちろんだと、もう一度相槌を打つ。
「………………それに、わたくし”我が儘”を思いつきましたの。それを叶えて愛を示してみせてくださいませんと、仲直りはしません」
ローズの白い手が小さく俺の服を握りこみ、まだ涙が残っている瞳で睨み上げてきた。
────俺の婚約者はとんだ魔性だな、と目眩がする。
さて、問い詰めるのが先か、ローズの方から近づいて来たのだからと、思考を巡らせていたのに。
パトリックが派手な音を立てて扉を開けたものだからローズが正気に戻ってしまった。
パトリックの勘は侮れない。




