第十七夜 僕へ宛てた、僕からの怨嗟
僕は家を飛び出した。
姉さんと同じ空間にいることが、耐えきれなかった。
姉さんに覚えた胸の高鳴りに、どうしようもなく嫌気がさした。
姉さんを親無しにして、姉さんを苦しめて。幸せにすると、誓って。
それなのに姉さんを《異性》として見てしまった自分に、僕は耐えきれなくなったのだ。
死んでしまいたい、と思った。
でも、死のうとは思わなかった。
今まで言葉を交わしてきた死者達の思いが、僕に恐れを抱かせた。
どうしていいか分からなくなって、頭は混乱してこんがらがって。
僕はひたすら、大通りを目指した。
僕と姉さんが住むボロアパートは、繁華な大通りから少し離れた、閑静な住宅街の一角。
人通りも少ない道を歩き、僕は大通りを目指す。
大通りは人で溢れ返っている。
猥雑で、多色的で、氷のように冷たい。
凍った雑踏に混じれば、僕も凍れるんだと錯覚した。
そうと、思い込んでいたかった。
そう錯覚する他に、この昂った気持ちを抑える方法を知らないのだ。
大通りを目指し、歩く。
ほとんど着の身着のまま。防寒具の類いは、数年前に買った丈短のコートだけ。
冬の風に当たるには、あまりにも寒々しい。
ただ何故か、全く寒さを感じなかった。
とは言え、端から見た僕は、単なる異常者だ。
どこの学校にもいた、真冬も半袖半ズボンを貫く越冬戦士と言うには、些かとうがたちすぎている。
案の定僕は、青い服を着た公務員に捕まってしまった。
「ごめんなー、ちょっと話いい?」
職務質問。俗に言う、職質と言うやつだ。
「はい」と僕は大人しく足を止めた。
「いやー、今日めっちゃ寒いなー」
「はあ……」
何故か始まった、独特の鈍りがある世話話に僕は怪訝な顔をする。
僕の表情を読み取った男性警官は、苦笑いである。
「いやー、恥ずかしいことに、まだ配属されたばっかやねんなー」
「は、はあ」
「すぐそこの交番やから、何かあったらいつでも来いや」
今現に、二重の苦難に遭遇している。
一つは姉さんの問題。そしてもう一つは、今のこの状況だ。
「困ってることならありますよ」
「おっ、なになに?」
このやたら食い気味の若い警官は、きっと正義感で警官の道を選んだのだろう。
この自分と一つ二つしか歳の変わらない警官は、僕とは違って少し輝いて見える。
「職務質問で引き留められたのに、全く質問されず拘束されている……って事案なんですけど」
「ああ! ごめん、忘れとったわ」
清々しい、どこまでも清々しいその真っ直ぐさに、僕はある種諦念混じりの爽快感を覚えた。
「別にいいですよ、僕も暇なんで」
「そう、それよ」
「何がです?」
一瞬、この関西人の意図を飲み込めないでいた僕は、それがすぐに職質の真意であると気付く。
「このくっそサブい中に、パジャマ一丁。しかもコートは着んで持っとーだけやん?」
「家出でもしとん?」と警官は首を傾げる。
言われて初めて、僕はコートを手に持ったままだった事に気付く。
「いや……」
そう言う訳じゃない、と喉をせり上がる声を、僕ははたと呑み込んだ。
着の身着のまま、目的もなく彷徨う青年。
それはあまりにも不審で、そして何よりも「家出」と言う言葉が似合う。
事実僕は、家出をしたも同然だった。
姉さんと気まずくなったから、着の身着のまま逃げ出してきた。
一応「用事」とは言ってあるけれど、僕が休みの日に用事を作らないのは姉さんが一番よく知っていることだ。
何よりあんな出来事があった直後なら、僕が家出したと言うことは姉さんだって分かっているはずだった。
「単なる、用事ですよ……」
だからこそ、僕は嘘を吐いた。
相も変わらず鼻の奥が痛んで、顔をしかめる。
「人と、待ち合わせです」
だが今日初めて会った「彼」と言う個体には、僕のきてれつな癖なんて分かるまい。
案の定、彼は渋い顔を形作った。
だが次の瞬間にはまた苦笑を張り付けると、彼は「送ってくわ」と提案した。
「え、いや、いいですよ」
「えーからえーから。ほら、最近物騒やし」
意外だった。
警官特有のしつこさやら、過剰な言いがかりやらを味わうと言うのはよく聞く話だ。
それが身分証の提示さえも求められとは。
この若い警官は、案外この職への適正が低いのかもしれない。
「俺にもそんな時期あったわ。なんもおかしーことちゃうで」
ただ、嫌な人じゃあない。
僕は素直に、警官の提案を受け入れた。
「んーで? どこ行くん?」
「あ」
答に窮する。
何の目的もなしに姉さんから逃げ出した僕に、目的地なんてない。
怪しまれるのも面倒だったので、適当に「公園」とだけ言っておく。
「公園? この辺何個かあるけど」
「この前女性が自殺した公園ですよ」
僕がいつも倉敷さんと会う、あの公園だ。
「因みにあの公園で自殺した人、週四くらいで会ってますよ」なんてことは、口が裂けても言えない。
「こないだ自殺……って、ああ、あっこか」
彼も納得したようだ。ただその顔は暗い。
何となく倉敷さんの死について聞いてみたかったが、流石に一般市民には話せないだろう。
試しに「あの自殺はなんだったんですか」と聞いたら、「事件性はない」と機械的に返ってきた。
事件性がないと言うことは、つまりこれ以上捜査はしないと言うことなのだろう。
倉敷さんは淡白が過ぎる。態度は冷たいし、素っ気ない。
服装も地味だし、どこか陰気だ。多分、友達も少なかったと思う。
失礼だけど、「統計的に考えて自殺する可能性はあった」と思われても、仕方のないことだ。
(次倉敷さんに会ったら、今度は躊躇わずに聞いてみよう)
歩き慣れた道を歩きつつ、僕は密かに誓った。
僕が倉敷さんに対して抱く、奇妙な感情を加味しなければ、死者である彼女が成仏しないのはのは悪手だ。
僕個人の「奇妙な感情」を加味すれば……どうなるのだろう。
あまり考えたくもないし、考えたところで何も始まらないと思う。
とにかく、死者が現世に居座るのはお盆の間だけで十分。
その分お盆は僕の仕事も忙しくなるけど、それは仕方のないことだ。
倫理的にも、倉敷さんは一刻も早く成仏するべきだと思う。
「そう言や、まだ名前聞いてへんかったわ。職質にもならんかったけど、「それっぽいこと」はしとかんとね」
なんともいい加減である。
正義感云々の話は、単なる僕の思い違いでしかなかったのだろうか。
「三条千秋です」
少し複雑な気持ちになりながら、僕は名乗った。
警官の名前は「山戸太一」と言うらしい。
年は21歳。倉敷さんと同い年で……僕の「姉さん」とも同い年だ。
「あ~……ちょっと聞くけどさ」
「はい」
「……チアキ君て、お姉さんおる?」
心臓の鼓動が跳ね上がる。
体の芯がカッと熱くなっていくのが、自分でもよくわかった。
「いますよ」
なんとか平静を装って、答える。
山戸さんは、「やっぱか」と渋面を作った。
「確認やけど、お姉さんの名前って「三条由香」さん、よな? 俺と同いの」
「……現役警官がストーカーですか」
「いや、ちゃうから」
不意打ち的に出た、後ろめたい感情を抱いている人の名前。
急激に上がった心拍数を少しでも抑えようと、僕は強引に冗談を吐く。
普段から冗談を言わないものだから、こういう時、どんな顔をしていいかわからない。
「あー、なんつーか……前のバイト先の同僚? よう相談とか乗っとった」
「姉さんが、山戸さんに相談?」
「おん、最後はショボいことが原因で喧嘩別れしたけど……」
いつだって明るく振る舞う姉さん。
他人には弱音を見せないものと思っていたから、姉さんが他人に相談事を持ちかける姿は想像に難い。
「どんな相談が多かったんですか?」
姉弟のプライベートを詮索するのは野暮だろうけど、ベッドの一件もある。
「これくらいの仕返しはして当然」と思って、僕ははたと気付いた。
(僕は仕返ししたいほど、姉さんに怒ってるのか……)
意味深な言葉を並べて、「誘惑」と取られても仕方のない行為に及んだんだ。
僕が姉さんに対して怒りを覚えていても、なんら不思議はない。
ただ、噛み砕いてみてようやく見つけたその怒りを、僕は何故か不思議に思った。
なぜ不思議に思うのかも、わからないほど。
「どんなって言われても、答えづらいな……」
唸るように呟いて、山戸さんが足を止める。
公園には、いつの間にか着いていた。
その場凌ぎで告げたとは言え、目的地である公園に到着した。
これ以上、巡回中の警官を拘束するわけにはいかない。
「有り難う御座いました」と言って、僕は山戸さんに頭を下げる。
「ちょい、待って、くれ」
頭上から、山戸さんの声が降りかかってきた。
今までの陽気な、瑞々しい声とは違い、その声は何かを躊躇するように拙い。
「なにか?」
特に理由もなく、話の先を急いてみる。
別段公園に用があるわけでもないが、早く一人になりたい、と思う心が在った。
やっぱり僕は、まだ混乱しているらしい。
「ああ、いや、手間取らせてごめんな」
この日何度目かの苦い笑いを浮かべて、山戸さんはくるりと踵を返す。
大きな背中だ、と思った。
普通に話していると、その融通の聞く気前のいい性格や、新人特有の青さを全面に出した表情に隠れて、その大きな背中は見えない。
少しだけ意外に感じ、そして少し、姉さんが頼りたくなる理由がわかった気がした。
惜しむらくは、その頼り甲斐がある人が恋愛対象に見られなかったことか。
「有り難う御座いました。お仕事、頑張ってください」
もう一度、軽く頭を下げた。
一度バイトを初めてからと言うもの、僕は大抵の勤め人には敬意を抱くようになっている。
しがない一アルバイターが「正社員の人カッケー」と思うのと、同じ原理だ。
「ええて、あんまり由香さんに心配かけなや~」
まったりと落ち着いた、不思議な優しさのある声を残して、山戸さんは歩き出す。
僕らを見下す曇天は、あるいはもう朝方に小雨を溢したばかりなのか。
濡れたジーンズに似た色合いのアスファルトの上に、官給の革靴の重々しい音が転がる。
「……ああ、せや。やっぱ、言うといたるわ」
数歩進んだ所で、山戸さんは足を止めた。
その背を見送っていた僕の頭に、疑問符が浮かぶ。
「由香さんの悩み事な、全部チアキ君のことやったわ」
「姉ちゃん、大事にしいや」と言って、今度こそ山戸さんは曲がり角の枯れた生け垣に消えていった。
一人残された僕は、ただ呆然とその背を見送る。
枯れ木と、わずかに残った山吹色の枯れ葉を撫でる風の音が、僕に対する怨嗟の声のように聞こえた。
ある程度の予想はあった。
姉さんが誰かに相談する姿は想像できなかったけれど、もし相談したら、僕に関することだろう、と。
ほとんど確信に近い予感があって、でもそれを無視していた。
姉さんの悩みから、わかった振りをして、目を逸らしていた。
その怨嗟の声は、他ならぬ僕への、僕からの糾弾だった。




