第十三夜 桜の微笑(前編)
――振り向くな、振り向くな。後ろには夢がない
いつか誰かが言ったように、振り返ればそこには過去があって、前を見ればそこには『夢』がある。
少なくとも前には、変え難い「事実」となった過去はない。
そこには、自分の生き方一つで、無限に広がっていく人生があるのだ。
だが、彼等には――死者達には、夢なんてない。
無限に分岐する人生や、未来でさえもない。
彼等には、振り返った先――自分が死ぬまで歩んできた、『過去』しかないのだ。
「だから私は、過去にすがるしかないんです。恋人と過ごした、綺麗な思い出に……」
今回の依頼人の女性は、伏し目がちにそう語った。
河岸桜さん、19歳。
昨年六月の暮れ。
悪性リンパ腫を患い、三ヶ月にも及ぶ闘病の末、恋人や家族に看取られながら永眠。
「なるほど、今回はその恋人さんの枕元に」
「はい」と河岸さんが頷くと、腰まで伸びたブロンドの髪が柔らかに触れた。
端正な面持ちには悲しげな影が指していて、どこか浮世離れしている。
恋人との死別は、よっぽど応えたらしい。
ユメヒトを訪れる人は、皆どこか影がある。
「虫の知らせ」的な用途で訪れる死者もいるが、大半は未練がある死者だ。
未練を抱えて生者に何かを伝えようとする分、その顔は暗い。
僕の横で仕事を見学する、倉敷さんもそうだ。
話を重ねる度に表情は柔らかくなったが、未だその暗い影自体は拭いきれない。
彼女は誰に、何を伝えようとしているのだろうか?
そんなことを考えると、いやに胸が痛んだ。
「……恋人のお名前は、若松翔さん。18歳、今年の四月に私立医大に進学したばかり。
その他に、何か気になっていることはありませんか?」
「気になっていること、ですか……」
ブロンドの毛先を弄び、河岸さんは苦笑を浮かべた。
「私、恋人を置いて先に死んじゃったから……。
彼、変なところは頑固だから、未だに恋人を作れないんですよね。イヤホンの掛け方とか」
確かに頑固だ。イヤホンの掛け方とか、別にどうでもいいと思うけどな。
だが河岸さんにとっては、大切な思い出らしい。
目を細めていじらしく笑う河岸さんは、どこか嬉しそうだった。
「きっと、私を忘れたくないんだと思います。
忘れるのが怖くて、ただどうしようもない悩みを紛らわそうとしてるんだと思います。
だから彼は、フラフラになっても医学部の勉強を止めないんです。
月命日には、必ずお墓に来てくれるし……」
果たして本当に、それだけの理由なのだろうか?
河岸さんを忘れたくないと言う理由に、間違いはないのだろう。
ただ「それだけか」と考えると、どうしても引っ掛かる部分があった。
「医者になろうとしてるのも、毎月のお墓参りも。多分、罪悪感があるからだと思うんです。
『医師家系なのに、自分は何も出来なかった~』って」
時々相槌を入れながら話を聞いて、僕は「ああ」と確信した。
彼女なんていた試しはない。だが、そんな僕でも分かった。分かってしまった。
引っ掛かる「ナニカ」の、正体が。
「それは多分――」
「多分、違うと思います」
僕の言葉に覆い被さるように口を開いたのは、僕の左隣――河岸さんの逆に座った倉敷さんだった。
「確かに、罪悪感はあるんだと思います。
でも、それだけで毎月お墓参りに行ったり、医学の勉強を続けてるんじゃないと思います」
「え?」と河岸さんは目を丸くした。
多分、今までずっと黙っていた倉敷さんが口を開いたからだろう。
「好きなんですよ。過去形でもなく、今まさに、河岸さんの事が好きなんですよ。
恋人さんの中では、まだあなたは死んでないんです。
いつまでもあなたは綺麗なままで、生きてるんです。
だから、恋人さんは新しい恋人を作れないんじゃないんですよ」
倉敷さんが溢す言葉は小さくて、まるで木琴の音色のように僕たちの間に転がる。
けれどそれは確かに河岸さんに届いていた。
「……なんで彼は、新しい恋を始めないんでしょうか?」
諦念が色濃くこびりついていた河岸さんの顔が、複雑に歪んだ。
自分はもう死んでいるのに、言葉を交わすことすらできないのに。
自分の大切な人の中では、自分は確かに生きていて、そのせいで大切な人は縛られている。
それじゃあんまりだ。残酷すぎるだろう、と思った。
「簡単です」
倉敷さんは、相変わらず感情の薄れた目で河岸さんを見つめて言った。
「好きだから、作らないんですよ。浮気になっちゃうから」
「あ……っ」と河岸さんは絶句した。
「じゃ、じゃあ、医学部を止めないのは……」
「それは純粋に将来を考えてのことじゃないですか?」
「「えっ」」
僕と河岸さんは、揃って素っ頓狂な声を上げた。
だってそうだろう。普通こんな場面で、全部台無しにする方向に持っていくだろうか?
確かに、時には現実を見なければいけない。だが、せめて今くらいは現実から離れてもいいと思う。
「アッハハハハ!」
だが、河岸さんは笑っていた。
「確かにそれはそうだね、うん。有り難う御座います。お姉さんて、ちょっと変だけど面白いですね~!」
ひとしきり腹を抱えて笑った後で、河岸さんは涙目になってそんなことを言っていた。
「え? そうですかね?」
一方の倉敷さんは、キョトンとしていた。
「はい、倉敷さんは変わってますよ」と僕も頷いておく。
何故か僕だけ睨まれたのは、この際だから放置しておこう。
やっぱり幽霊にも人間らしいところかあるんだな、と感心した。
よく考えれば、当たり前のことだよな。幽霊だって、元は人間だ。
例え死んでしまっても、感情まで死んでしまうなんて、一体誰が決めたのだろうか。
「さて、そろそろ立たれますか?」
「立つ? ああ、夢枕ですかー。なるほどなるほど~」
しきりに頷く河岸さんの横で、「なるほど、面白い言い回しですね」と倉敷さんも頷く。
納得されているはずなのに、こんなにも照れ臭いのは何故だろうか?
誰かの話題になった時のように、母親に褒められた少年のように。何故だか気恥ずかしくなる、僕がいた。
「でもまあ、もうちょっと、お話してたい、かな……?」
不安げな感情を圧し殺すように、河岸さんはまたぞろ苦笑を浮かべた。
河岸さんは、生前もこんな笑い方をすることが多かったのだろうか?
こんな苦い笑い方されたら、意地でも笑わせたくなるよなぁ。
なんて、僕は恋人の若松さんに少し共感した。
(ああ、そっか……)
若松さんが医学の勉強を止めないのも、毎月墓参りをするのも。
全部、河岸さんを笑わせるためだったんだ。
好きだから。好きな人には、ずっと笑っていて欲しい。
ならせめて、今回の夢枕では笑って欲しい。
誤魔化しでもなく、心からの笑みで。
僕は死者の願いを叶える立場だけど、生者の願いも叶えてみたくなった。
恋人の笑顔を願うことくらい、そんな些細な幸せくらい。
別に叶えてもいいじゃないか。
僕は大嫌いな神様に、そう願わずにはいられなかった。
◇◆◇
「彼と出会ったのは、ここからちょっと行った所の河川敷でねー。買ったばっかのイヤホン開けれなくてイラついてたら、通りすがった翔が開けてくれたんだ~」
鼻にかかったような、少し甘い声で、河岸さんはニヤついた。
河岸さんは僕と同年代、倉敷さんとは同性と言うこともあって、僕らはすぐに打ち解けた。
「初めは暗い感じの男の子だな~、って思ってたんだけど、喋ってみると以外と話が合ってね~。
そしたら、どんどん彼のこと好きになっていっちゃった」
河岸さんが語る話は大半がのろけ話で、女性経験に乏しい僕には理解不能だ。
だが倉敷さんには共感する所があるようで、河岸さんとは頻りに男の愚痴で盛り上がる。
「ここに男がいるんだけどな~」と思いつつ、僕も曖昧な笑みと首肯で応じた。
「それで告白されたんだけど、その時の翔ったら、柄にもなく緊張しててね~。私まで緊張しちゃったよ~」
当時のことを思い出し、頬を仄赤く染める河岸さん。
倉敷さんは僕を挟んで、「ひゅー」と微妙に感情の欠けた声で囃し立てている。
微妙にシュールな倉敷さんに、僕は思わず笑ってしまった。
「あー! ユメヒトさん笑ってるー!」
「ホントですね、女の子の純情を笑うなんて、失礼なオスですね」
「えっ」
冤罪だ。
僕は倉敷さんの台詞と声音のミスマッチを笑ったのであって、河岸さんの純情を笑った訳じゃない。
「そーいうユメヒトさんはどーなんだよぉー!」
「えっ、僕なにも言ってないんですけど」
「細かいこと気にしないでください。男のクセに」
「あっ、今の問題発言ですよ、お嬢さん方」
「「うるさい」」
「えー……」
以心伝心、と言う言葉をご存じだろうか?
僕は今、それを身をもって体験している。
なんなら、言葉の使用例として後世に伝えられてもいいくらいだと思う。
しばしば女性に翻弄される男性には痛いくらい理解できるだろう。
「それで、ユメヒトさんに彼女はいないんですか?」
倉敷さんは、是が非でも僕の女性事情を聞き出そうとする。
感情の起伏の乏しい性格からは想像できないほど、色恋沙汰には敏感らしい。
こうしていると、僕と言葉を交わすこの二人が、もうこの世にいない「死者」であると言うことを忘れてしまいそうだ。
「僕ですか……」
どれだけ僕が倉敷さんを想おうと、倉敷さんはもう死んでいて、僕はどうすることもできない。
そう考えると、身悶えするほど辛くて、悲しくて、そして切ない。
「ユメヒトさん、クールな雰囲気出してるから一人くらいは彼女いそうですよね~」
「認めたくないですけど、まあ……」
河岸さんは長閑に笑い、倉敷さんは歯切れ悪くも頷く。
僕の目に映るの死者はどこまでも綺麗で、そしてどこまでも人間臭い。
僕が失恋にも似た胸の苦しみを覚えていても、倉敷さんにはそれが届かない。
僕一人だけが彼女の死を気にしているようで、なんだか僕は、馬鹿馬鹿しくなった。
「いませんよ」
精一杯の営業スマイルで答える。
河岸さんは「うっそだ~」と笑い、倉敷さんはただ無言で僕を見つめていた。
「告白されたことはありますが、全部断りました」
「え~、もったいない! お付き合いすればよかったのにー!」
「……」
「そうかもしれませんね」と僕は返す。
実際には、中学は新聞配達。高校からは飲食店、とのバイト三昧で、彼女なんか作る暇はなかっただけだ。
「私が売れ残ってたら、相手してあげてたかもね~」
と河岸さんは笑う。
流石にのろけだと分かったから、僕も「売れ残っても、若松さんと付き合おうとするくせに」と返しておく。
「アッハハー、バレたか~。でもユメヒトさん、なんか今にも壊れそうな感じしてるから、女の子的には放っとけないんじゃないかな?」
そう言って、河岸さんは白み始めた空に立ち上がった。
立て付けの緩くなったベンチが、キィと小さな音を立てる。
「立て付けが悪くなってるな」とぼんやり考える僕の耳元に顔を寄せると、河岸さんは声を潜めた。
「きっと隣のお姉さんも、そう思ってるんじゃないかな」
「そんなこと、ありませんよ……」
覚えず口を出た声は、怒られ拗ねた子供のように捻くれていた。
そんな僕の小さな反論に、河岸さんは小さく笑った。
「君が思ってるほど、人生って悪くないよ」
精一杯自分の人生を生き抜いた河岸さんが言うと、その言葉は重みが違う。
「……夢枕の日は、次の夜。立つ夢枕は、恋人の若松翔さんの夢。
舞台は、河川敷の垂れ桜の下――で間違いありませんか?」
それでも僕は、まだまだ臆病だ。
これ以上話題に触れられないように、事務的な確認をする。
逃げに走る僕に「間違いないです」と河岸さんは苦笑して頷いた。
「禁止事項は、また次回会った時に伝えます」
「わかりましたー」
「……夢の中では、笑ってあげてくださいね」
僕が思い出したように言うと、河岸さんは踵を返した足をピタリと止めた。
何かを考え込むように止まったその背。
顔を覗かせた旭日に徐々に消えていくその背は、何かを拒絶するかのように薄くなっていく。
「――――」
心持ち顔をこちらに向けて、河岸さんは微かに口を動かした。
寒い冬の木枯らしに巻かれたその言葉は、僕の耳には届かない。けど確かに、僕は河岸さんの言葉を聞いた。
『怖いよ……』
そう呟いた彼女の、震える声音を。今にも泣き出しそうな、緩んだ弦のような囁きを。
僕は確かに聞いた。
だが、聞いたところで僕に何かが出来るわけでもなく。僕は倉敷さんと二人、ただ黙して河岸さんを見送った。
冬の夜を蝕む陽に溶け込んでいく、白熱灯の白い灯り。
その下でちょこんと声もなく座る倉敷さんの横顔が、いやに視界の端に引っ掛かった。




