その5
明るいサロンで王妃主催の茶会が開かれていた。
ここにバルベナの席はない。何故なら、ここに来る資格があるのは高位貴族の女性、しかも令嬢か夫人だからだ。……女侯爵はその枠を外れると、シスルは堂々と言って憚らなかった。
サンフォール侯爵が名誉あるベスティアの修道士になったと聞いてから、シスルは苛ついていた。その様子を周囲の令嬢も夫人もびくびくして窺っている。
王妃の機嫌を損なうと命を落とす。
黒い噂はさざ波のように広がっていて、令嬢も夫人もこのサロンでは笑いながらも緊張感を忘れない。体調を実際に崩す者も居て、最近では令嬢や夫人を領地に行かせる者も増えた。物理的に遠ければ、出席できないからだ。
それでも、宮廷に務める領地の無い貴族もかなりの数存在し、彼らの妻や娘には逃げ場がない。
話題は慎重に選ばれた。ファッションと菓子、天気の話、後は第二王子を褒める言葉。
シスルは茶会の出席者が減っている事に気付いていたが、話題の心地よさが変わらないから、そのままにしていた。幾分気分が和らぐからだ。
いずれこの国は母国の属国になる。今の貴族制度も意味を成さなくなるだろう。シスルはそう思っていた。
彼女には前世の記憶がある。乙女ゲームが趣味の普通のOLだった。ある日、気づけばシスルになっていた。乙女ゲーム転生をしたと思っていたが、全く見覚えのない世界。どのゲームとも合致しない。だから慎重に立ち回り、家族の信頼を勝ち取り、幸せな少女時代を過ごした。
見知らぬゲームに転生したならこの国を出た方がいい。乙女ゲームの鉄則として、身分の高い令嬢は悪役にされがちなのだ。もしそれでも冷遇されるなら、母国に帰ればいいと考えたのだ。
結果、ガウランはあまり好みではなかったが紳士だったので嫁ぐことにした。
ところが、ロウランを見つけてしまったのだ。結婚式の際中だった。結婚披露パーティの準備で遅れてやってきた夫の弟。そっと祭壇の側の最前列に並ぶその姿に見惚れる。
これは見知らぬゲームの世界で、シスルが大人しくしていたせいで本来の攻略対象と出会えないままになってしまったのだと、シスルは思い込んだ。
ガウランは美丈夫だが、ロウランを見た後だと途端に色あせて見えた。
結婚披露パーティでは、ロウランの隣に清楚な美人が並んで立っていた。……婚約者だ。あの女はきっと、自分が乙女ゲームの舞台に現れなかったから選ばれたモブだ。
取り戻したい。本来の流れを……。
白い結婚をしてしまえば離婚する事になる。そうなればロウランと会えなくなってしまう。だからシスルはガウランを受け入れた。そして、ロウランの婚約者に病を盛った。シスルは腐敗した牛肉の汁をごく少量……グラスに塗り、夜会でそれに果実水を注いで飲ませたのだ。
シスルは軽い気持ちで思いついて実行した。
いくら王族でも毒を持っていたら身の破滅だ。だったら自分で作ればいいと考えたのだ。そこで前世の食中毒のニュースを思い出した。
壺に入れて腐敗させた牛肉の肉汁は、王都外れの墓地で墓守に金を握らせて作らせた。上下水道が完備されていない城下町は前世よりも不衛生だ。腐敗の匂いは墓地では当たり前で誰も気づかない。
しかも夜会になると香水の匂いで大広間はむせかえる程になる。グラスに塗っても分からない。
これで夜会の際中に腹痛を起こし、恥をかいて二度と社交に出て来なければいいと考えていた。しかしロウランの婚約者は死んでしまった。
城内でもこのグラスを運んでいた給仕も、墓守も、連絡係に使っていた商人も、肉汁の瓶を持ち運んだメイドも死んでいる。吐血し、何も食べられずに腹部の激痛を伴いながら衰弱していく病だと聞いた。
とんでもないものが入っていたと思ったが、彼女の薄いレースで覆われた指は一切汚れていない。
「可哀想に」
そう独り言をつぶやく口は弧を描いている。
圧倒的な情報量と権力、そして金で無知な者を一方的に叩くのは、極上の甘露の様に脳に染みわたった。知らないのは努力不足だとあちらの世界では言われた。なら、この世界は全てが努力不足だ。
この世界で偉ぶっている学者も、宰相も、大臣も、そして王すらも自分より知識がない。
この世界の者達を馬鹿にしていた。全てが上手くいくように思えた。しかし……
「王妃シスル、国家反逆罪で拘束する!」
騎士団長の言葉と共になだれ込む近衛騎士、出て行く第二王子、それに付き従う他の侍女達。シスルの周囲には近衛騎士以外、誰も残らなかった。
「え……」
無礼者と叫ぶ事も、やめなさいと叱責する事もできなかった。ただ驚いて狼狽えるばかり。
シスルは、何が起こっているのか全く理解できなかった。
私はお姫様で王妃。女性ではこれ以上ない程の権力を持ち、前世の記憶と言う情報もある。これは一体何なの?どうして?
そうして呆然としている内に、謁見の間に引っ立てられ、玉座の前で跪かされた。
「■■■■■■を連れてまいりました」
何を言っているのか、シスルには分からなかった。確かに口が動いているのに聞き取れないのだ。
ガウランは半眼で妻を見下ろし、言った。
「我が弟であるホウランは、■■■■だ。■■■■は■■■■■■を、■■■■■■■■■■」
聞き取れなくて、シスルは何度も瞬きをする。
ガウランは静かに言った。
「ベスティア神は、■■■■■■に情報が渡らぬように、隠しておられる。声は意味を成さず、文字にしても読めず。これは天地開闢からの不文律である」
シスルはそのとき唐突に悟った。ここは乙女ゲームの世界などではなく、前世の記憶を持つ者が見つかれば、罪人として裁かれる世界で、やり過ぎて、見つかってしまったのだと。
ガウランはシスルに聞く。
「先ほど、私が言った事を復唱するがよい」
言える筈がない。分からなかったのだから。
「陛下、私はあなたの妻です」
「そうだ。それは変わらないが城からは去る事になる」
「子供達はどうなるのですか!」
「母親がいなくなるのは悲しい事だが……病気なのだから仕方ない」
表沙汰にはしないが、決して許さないという決意がガウランにはあった。
「ベスティア大聖堂で養生するといい」
シスルは真っ青になって首を左右に振る。その言葉が恐ろしくて仕方ない。本能的に分かっているのだ。そこに行ってはいけないと。
「お許しください!どうか、あなたの側にいさせて下さい!」
「私ではなく、ロウランの側にいたいのだろう?」
シスルの喉から、細く高い息が漏れた。
ガウランは一瞬歪んだ口元を元に戻し、言った。
「連れていけ!」
シスルが居なくなった謁見の間で、ガウランは大きく息を吐いて玉座に深く腰掛けた。
側に居た王の専属近衛騎士が、気遣う様にガウランの側に近づく。
「王がこんなことを言ってはいけないのだろうが、とても……疲れた」
ガウランだって王である前に人間だ。結婚した妻に情も信頼も、かつてはあったのだ。それを踏み躙られた事に強い怒りがあるし、恨んでもいる。しかし生まれながらに王として教育されたガウランは、それを口にしなかった。……王の矜持が、それをさせなかったのだ。
「いいえ、王とて人です。疲れることもありましょう。ご立派でございました」
近衛騎士はそう言って、騎士としての最上の礼をし、他にも謁見の間を守っている騎士達も同じ様に礼をしたのだった。
入れられた貴族牢のベッドに座り、シスルは思い返す。……確かにガウランの弟であるホウランが来ていた。シスルは、ホウランの容姿が思い出せない。紹介されて初めてそこに居ると分かって慌てた事だけは、記憶に残っている。遠方の国の王配になったとは聞いていたが、それだけだった。
しかしそれでは辻褄が合わないのだ。何故ならシスルはロウランの肖像画を見るために、王家の肖像画のある回廊へ繰り返し行っていたからだ。何より……双子で容姿がそっくりであることも何度も聞いていたのに、ホウランの事は全く興味を持てなかった。
シスルは濃い赤色の絨毯の敷かれた床を見据えたまま、考え続ける。そうでなければ、ホウランのことを忘れてしまいそうだと思ったからだ。ホウランには特別な何かがあり、自分を転生者だと見破ったのだ。しかし、何故見破れたのかが全く分からない。殆ど会話をしていないからだ。
『あなたは何を望みますか?』
転生前に聞いた、あの声を思い出す。
『優しい家族が欲しいです』
本当は、見目が良く、誰もが羨む男と恋をしたかった。
けれど、その願いを口にするのは恥ずかしかった。彼女は生まれてこの方、異性と付き合った事が無かったからだ。だから、そういう男と出会った後に起こる未来を願った。
『本当にそれでいいのですか?』
シスルは、その答えを変えなかった。
何故こんな事になったのか。シスルは分からないまま、気を失うように眠りについた。
翌朝、シスルは昨日考えたことを何も覚えていなかった。だからロウランに会わせて欲しいと、繰り返し要求した。ロウランが現れる事はなく、シスルは貴族牢から出されて密かに質素な馬車に乗せられた。
見送りもなく、ベスティア大聖堂へと送られる事になった。
大聖堂へ到着して入口をくぐると、女性ばかりの場所になった。奥の間には、今代の王となった巫女が立っていた。
「可哀想に」
一目見てそう言った巫女王に、シスルは我を忘れて言った。
「私を憐れむな!」
「どうして?」
シスルは言葉に詰まる。
「優しい家族に愛され、皆に祝福される結婚をした末に子も得た。それを全て手放す程に凋落した姿を、そう言って何がいけないの?それとも……」
巫女王は澄んだ目でシスルを見据える。
「愚かしいと言えばいいかしら?」
次の瞬間、シスルは叫んでいた。
「私は!私は間違っていない。真実の愛だった。何を失っても、後悔なんてしない!」
気づけば、真っ白な空間に立っていた。
『では、失いなさい』
「あ……」
胸に透明な手が入り込み、ズルリと何かが引き抜かれる。
引き抜かれたシスルは、その透明な手によって落とされ、下へ下へと落ちていく。その中で思い出す。
恋愛が恐ろしくてゲームに逃げた前世を。更にその前には、遊郭の遊女で、入れ込んだ農民の男によって無理心中させられたこと。更にその前には、合戦場で死体から金目のものを盗って帰って来ると言ったまま帰って来なかった兄を待ち、餓死した幼子だったこと……そして、護衛の若武者と共に逃げて命を失った平安時代の姫だったことを。
気づけば姫だった頃の姿に戻っており、目の前に若武者が立っていた。姫は泣きながら若武者に抱き付いた。
『会いたかった』
姫が言うと、若武者は言った。
『私もです。あなたは許して下さいますか?』
姫を抱きしめたまま、若武者は告げる。
『他の男のものになるのが赦せなくて、あなたを不幸にした過去を』
言葉は赦しを乞うているが、若武者はその結果に満たされ、優しい笑みを浮かべている。……そして二人は、業火に呑まれた。




