魔法士の最後【Part夙】
崖下。
山肌から崩れ落ちた土石は冷たく、湿り気を孕んで腐ったような悪臭を放っていた。山積された土砂の頂上からじわじわと黒ずみ、泥と化していく。
ずるり、と。その表面がわずかに盛り上がる。誰も気づかぬほどのかすかな膨らみ。それは次第にひび割れ、ねっとりとした泥水が脈打つように揺れた。まるで下からなにかが息をしているように。
刹那の静寂。
ボゴッ!
土砂の中から突き出してきたのは、人間とは思えない不健康な色をした傷だらけの手。なにかを探すように宙を彷徨った後、力強く土砂を掴んで『それ』は這い出てきた。
「……ひ、ひひ……怖いなぁ……怖いよぉ……あんな小細工なんかで、僕を殺せると思ってるなんて。怖すぎるよぉ……」
先程はちょっと油断しただけだ。たかが人間。たかが妖。たかが神のペット。そんな雑魚どもに魔法士幹部が遅れを取るなどあってはならない。
いや、それがあったのだから恐ろしい。
油断大敵とはよく言ったものだ。
「こ、今度はもう油断しない……僕の本領は遠隔から呪い殺すことだ。そうだ。わざわざ姿を現してやる必要などなかった。今、この場で、僕を虚仮にしてくれた連中を皆殺しにしてやろう。ひひっ、怖いなぁ」
土砂が全て呪いの泥と化し、〈恐怖の略奪者〉の周囲で渦を成す。その泥へありったけの恐怖を込めた魔法式を書き込みながら、彼は違和感に気づいた。
「……あれ? おかしい。おかしいなぁ? 魔石の気配が、変わってるぞ?」
無属性の魔石の気配は特殊だ。火でも、水でも、風でも、土でもない。雷でも、闇でも、光でもない。言葉で言い表すことは難しいのだが、属性という枠組みすら拒む、原初の虚無に近い存在感を放っている。
なのに、今の気配はそこに『色』を感じる。
覚えのある色。そう、あの魔石を所有していた少女の魔力の色。
「あ、あの小娘ぇえッ!? 魔石の魔力を自身と同化させやがったなぁ!?」
これでは奪ったところで使い物にならない。いや、全くというわけではないが、一般的な魔力の使い方しかできなくなった。無属性の希少性が失われてしまえば、企んでいた全ての計画が御破算になってしまう。
「……いや、まだだぁ」
完全にあの少女のものとなったのであれば、少女ごと生きたまま奪えばいい。調教、洗脳、使い方の教授。かなりの手間はかかってしまうが計画を頓挫させるよりはマシだ。
「……ひひひ、怖いなぁ。そうなると余計に邪魔が入るだろうなぁ。あの父親らしき男は真っ先に呪殺するとして、妖怪の女も最後まで意識を保ったまま指先からじっくり呪い溶かして――」
「誰のことを言っている?」
「――ッ!?」
投げかけられた言葉と共に〈恐怖の略奪者〉の背中に凄まじい衝撃が走った。
組み上げかけていた呪泥が中断されて弾け飛ぶ。
熱い。背中が焼けている。火の魔法だろうか。
「……だ、誰だぁ!? 後ろから襲うなんて、そんな卑怯で怖いことをする愚か者はぁ!?」
地面を二・三転した後、即座に体勢を立て直して背後を振り返った。魔石の気配に集中しすぎていたせいで接近に気づかなかった。
だとすれば、自分の間抜けさに恐怖を覚える。
魔王級の気配に気づけなかったなど。
「フン、悪い予感とは当たるものだな。貴様、今、那亜を呪うつもりだったな?」
それは、馬鹿みたいに巨大な太刀を腰に佩いた上裸の男だった。逆立つ黒髪に赤く鋭い眼。黒く長いマフラーを巻き、周囲には赤い炎を漂わせている。
「人……いや、鬼かな?」
角はないが、纏う気配は鬼のそれだ。人化している感じでもない。
となると、角なしの鬼。街を襲う前準備で一応調べた中に、そのような存在の名があったことを覚えている。
「無角童子。ひひ、怖いなぁ。なんでそんなバケモノがまだこの街にいるんだぁ? 怖いなぁ」
魔王連合の階級で表せば街で遭遇した『君主』ほどではないにしろ、最低でも『公爵』レベルの怪物だと思っていい。なんの対策もなしに正面からやり合えば、魔法士幹部とて無事では済まない相手だ。
――怖い。
明確な『死』を引っ提げた存在がそこにいる。
――怖い。
歯向かうことが愚かしく思えるほどの『圧』を全身に浴びせられる。
――怖い。
「怖ければ、呪えるッッッ!」
叫ぶと同時に地面を呪泥化して角なしの鬼へと殺到させる。呪いの源は恐怖心。恐怖の源は彼自身。相手を怖いと思えば思うほど強力になる呪いは、たとえ魔王級の鬼だろうと殺せるだろう。
彼の呪いは格下よりも、格上の方に効果が出る。
相手が呪いの概念のような存在でない限り、これを防ぎようなどない。
「――烏天狗」
「はいはーい! ちゃんとボクにも出番があってよかったー!」
無角童子の背中からひょこっと顔を出した少女が、天狗の葉団扇をその場で乱雑に振るった。
一陣の風が吹いた。
その風に巻き上げられた呪泥が、まるでリバーシのように黒から白へと変わっていく。呪いの気配が、聖なるそれへと変化する。
「……なっ……」
浄化されたわけではない。解呪されたわけではない。ただ、反転した。
「馬鹿な!?」
怖い怖い怖い! 恐怖を覚えれば覚えるほど、呪いが強化されればされるほど、その全てが反転して聖なる力へと書き換えられる。
「……」
白い泥が無角童子と烏天狗の頭上へと降り注ぎ――腕を一薙ぎ。鬼火が赤い残光を描いて白い泥を全て跳ね除けた。
「……烏天狗、呪いではなくとも、聖力は妖怪に効くぞ。風で払い除けるだけでよかっただろう?」
「あっちゃー。そうだった! ごめんなさい無角様! ボク失敗しちゃったね! 失敗したならオシオキが必要だよねそうだよね絶対いるよね! ぐへへ、その鬼火でボクのお尻を思いっ切り焼いたあとに百叩きされて街の広場に吊し上げられて見世物にされるんだぁ……(*´Д`)ハァハァ」
「わざとか貴様?」
恍惚とした表情で涎を垂らす烏天狗の少女に、無角童子は短く溜息を吐いていた。
「……冗談じゃない……冗談じゃないぞぉ! 僕の呪いを! そんなおふざけで無効化されるなんて怖すぎるじゃないか!」
新たに呪いで泥を生み出し、弾丸のごとく連続して射出する。逃げ場などないマップ攻撃だ。多少風で反転されたところですぐに次の弾丸が迫る。
「罰が欲しければ、壁になれ」
無角童子は烏天狗の襟首を掴んで前方へ雑にぶん投げた。「キャー❤」と嬉しそうな悲鳴を上げた烏天狗は自ら大の字になって呪泥をその身で受け止める。
「無角様酷いよー! イタイケな女の子を肉壁にするなんてうへっ❤ 呪いが、あっ❤ 呪いが体に染み込むぅ❤ 痛い痛い痛いけど……ンぎもちいぃいいいいいいイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイッ❤」
「……え、なにあれ怖い。怖すぎるよぉ……」
呪泥の弾丸を浴びて喜び悶える烏天狗に、流石の〈恐怖の略奪者〉もマジトーンでドン引きしてしまった。
そこに、隙を生じてしまった。
「貴様は那亜を狙った。それだけで万死に値する」
「――ッ!?」
ハッとする。烏天狗の肉壁の奥にいる無角童子から、凄まじい妖力が爆発する。
弾ける灼光。
無角童子が腰の大太刀を抜き、構え、逆巻く鬼火が刃に纏う。
「我が鬼神の猛威に燃え果てろ」
奴の背後で鬼火が何重にも爆発する。その推進力を得た無角童子が自らを流星と化して呪泥の弾幕を突き抜け、刹那の間に〈恐怖の略奪者〉との距離を詰めた。
「や……やめ……」
反撃しようにも、一瞬すぎて恐怖が湧かない。
「――〈鬼々・火夜那流深〉!」
斬断。
火山の噴火を思わせるほどの大爆発が大太刀で斬られた〈恐怖の略奪者〉を呑み込み、恐怖を覚える間すらなく塵と化した。
――数秒後。
呪いの抜けた泥がべちゃべちゃと力なく地面に落下していく。
「えー? もう終わり?」
物足りなさそうな烏天狗は、反転術で呪いのダメージを完全に無効化しつつとたたたたっと無角童子の傍へと駆け寄ってきた。
「流石無角様! 敵にも味方にも容赦がなくて素敵♪」
「……」
きゃっきゃくねくねする烏天狗を無視し、無角童子は静かに踵を返した。
「え? 帰るの? あっちに加勢しなくていいの、無角様?」
「……那亜を狙う者は消した。あとは、邸の連中でどうにかするだろう」
あの魔法士を塵芥に変えたことで燻っていた悪い予感も消えた。これ以上、無角童子がこの件で関わる必要はないだろう。なにより、那亜はともかく『迷宮の魔王』と顔を合わせるつもりはない。
「……神の砲撃、ちょっと受けてみたかったんだけどなぁ」
「ならば貴様だけで行ってこい」
「無角様が行かないならボクも行かないよー!」
耳元でやかましく騒ぐ烏天狗をスルーしつつ、無角童子は獣道の奥へと消えていった。




