世界を破壊する者【part山】
「……どこに隠れたのだわ?」
ノルデンショルド地下大迷宮第十三階層最奥部、魔王城玉座。
そこで緋色の卵を抱えたまま迷宮全体の動向を探っていたティアマトは首を傾げた。
貴文の足止めとして迷宮第五階層に残したムシュフシュとギルタブリルが、貴文ごと行方が分からなくなっていた。
元々魔王の迷宮という赤の他人の領域を自身の固有結界て上書きして力ずくで制御を奪っている。そのため本来迷宮が持つ権能の半分も効果を発揮されておらず、探知などの基本的機能も中途半端にしか使いこなせていない。とは言え母子の繋がりともいうべきある種のリンク状況は健在であり、最初に未知の存在により討たれてしまったウシュムガルのような喪失感はない。迷宮のどこかで生存してはいるのだろう。
「タカフミの動向も気になるし、もう少し迷宮を深く掌握するのだわ」
瞳を伏せ、精神を研ぎ澄ます。
迷宮の各階層に張り巡らせた〝塩〟の領域をより深く、根深く浸透させる。
その時。
カリカリカリカリ
「ん?」
音が聞こえた。
硬い焼き菓子を齧るような音だった。
直接耳に届いたものではない。どこかの階層で鳴っている音を結界が拾ったようだ。
「何の音……え!?」
発信源を辿ろうとして、ティアマトは思わず天井を――上の階層を見上げた。
カリカリカリカリ カリ カリカリカリ
カリカリ カリカリ カリカリ カリカリ
カリ カリカリカリ カリカリ カリカリ
カリカリカリカリカリ カリカリカリ
カリカリカリ カリ カリカリ カリカリ
カリカリ カリカリ カリカリ カリカリ
「じゅ、第十二までのほぼ全階層から聞こえてくるのだわ!? 一体何事なのだわ!?」
現在、迷宮には貴文と二頭の神竜しかいないはずだ。この異様な音を発する存在の侵入は関知していない。
「い、一体何が……!?」
再度集中させ、奪った迷宮の権能から手探りで機能を築き上げ、迷宮内の様子を確認する。
「明度上昇、彩度微上昇、陰影控えめ、ミニマップ表示――ぴえっ!?!?!?」
喉の奥から甲高い悲鳴がこぼれる。
玉座に腰かけながら思わず腰を抜かすところだった。大切な卵を放り投げなかった自分の精神力を自分で褒め称えたい。
「な、なんなのだわー!?!?!?」
迷宮内に響く音の発生源は――十桁に届こうかという異常な数の鼠の群れだった。
* * *
「壊セ壊セ壊セ壊セ壊セ!! ギャハハハハハッ!!」
ノルデンショルド地下大迷宮第十階層。
変態羊こと誑惑の魔王エティスが〈残虐なる螺旋〉と名乗り階層支配者として居座っていた区画である。
甘ったるい香が焚かれ、紫色の天蓋付き寝所が置かれた石造りの部屋に巨大な穴が穿たれていた。
「嗚呼、嗚呼、なんと耳障りな。我が主君の為とは言え、やはりあの者と行動を共にするのは反吐が出るでありんす」
シュルリと鈍色の鱗の隙間から血のように赤く先が分かれた舌を出し入れし、血よりも紅い瞳の巨蛇が溜息をついた。
視線の先には、階層を所狭しと劈くような哄笑を響かせながら飛び回る白い鴉がいた。
ノルデンショルド地下大迷宮第十二階層支配者〈不死の白鴉〉
迷宮の魔王グリメルが引きこもっていた第十三階層を除く最深部を守護していた、ノルデンショルド地下大迷宮の切り札である。
グリメルにより与えられた能力は〝狂気〟――その下卑た笑い声を聞いた者の奥底に狂気の種を植え付け、発狂させて自我を奪う。心の弱い者は魔王に準じる存在にまで堕とされ、迷宮に取り込まれてしまう。タチの悪いことに、白鴉自身は魔王による攻撃以外で死滅することなく、何度も復活することが可能である。
その狂気の哄笑が、壁に空いた穴を通して第三階層から直接送り込まれた大量の溝鼠――〈侵略する群衆〉に降り注がれている。さらにこの階層にはエティスの〝冒涜〟の残り香が染みついている。如何に全ての竜の母たるティアマトの浄化を司る〝塩〟の結界だろうが、この階層で爆発的に数を増やした〝汚濁〟と〝汚染〟の物量は対処しきれない。〝塩〟を齧って消し飛ぶ鼠も馬鹿馬鹿しいほど多いが、それを上回る速度で殖え続け、今や第十三階層を除く全ての階層に侵略していた。
「ここまで殖えたらもういいでありんしょう。あちきはあちきの使命に従うでありんす」
巨蛇――〈大地削ぐ蛇腹〉はずるりと壁の大穴にその巨体を押し込む。ついでに殖えた〈侵略する群衆〉を数百匹ばかり石床ごと呑み込み腹の足しにする。〈不死の白鴉〉により狂化されてはいたが、風味に変わりがないのは助かった。
「さて、どこにいるでありんしょう?」
穴の向こう側――迷宮の外の虚無空間をずるずると這い回る。
しゅるると舌を出し入れし周囲の臭いを辿ると、そう時間がかからずに目標の存在を確認できた。
「見つけたでありんす」
何もない空間の先で、炎と毒のブレスを躱しながら二頭の神竜と交戦する異世界邸管理人の姿があった。物理的距離の存在しない迷宮の範囲外の空間だが、随分と遠くまで吹き飛ばされてしまったようだ。
「少しばかり失礼するでありんすよ」
「な――ッ!?」
ごくり
音もなく背後から近付いてきた巨蛇に抵抗もできず呑み込まれる貴文。
それにあっけにとられた二頭の神竜は一瞬動きを止めたが、即座に攻撃の対象を巨蛇へと移す。ムシュフシュは燃え盛る体で強烈なタックルをかまし、ギルタブリルは大樹の幹の如き太さの巨蛇の体を引き千切ろうと蠍の鋏を振り降ろす。
「嗚呼、嗚呼、痛い、痛いでありんす」
鈍色の鱗が攻撃を受けるたびに焦がされ、切り裂かれる。しかし巨蛇は痛いと口にしながらも神竜を小馬鹿にするように体をくねらせ、速度を上げる。そしてべろんと口元から皮が捲れ、その下から傷一つついていない新たな鱗が姿を現した。
さらに脱ぎ捨てた皮がうぞうぞと動き、ムシュフシュの炎を発する体に巻き付いた。
「クフフ、しばらくあちきの皮で遊んでありゃんせ」
喉の奥から笑みを浮かべ、ずるりと巨蛇は空間に穴を穿ち迷宮内部へと戻っていった。
* * *
「はい、到着でありんす」
「ぶべっ!?」
巨蛇の生臭い口から放り出された貴文はざぶんと頭からお湯の中に放り込まれた。慌てて顔を上げると、どうやら地下の温泉――かつてジョンが守護していた第一階層のようだった。
「い、いきなり何しやがる!? てかなんでテメー!? ティアマトの竜か!?」
「それが命の恩人に対する言葉でありんすか? あちきはノルデンショルド地下大迷宮第八階層支配者〈大地削ぐ蛇腹〉でありんす。我が主君の命でなければあのまま迷宮の穴を閉じてやってもよかったでありんすよ」
しゅるると舌を出し入れし威圧する巨蛇。
黒兎が迷宮の管理者ならば、巨蛇は迷宮の境目と外側の監視者である。迷宮の外側からこじ開けて侵入したり迷宮に穴をあけてショートカットしようと企む愚か者に対し、ペナルティとして第一階層まで強制送還するのが彼女に与えられた役割であった。
かつて彼女の監視が打ち破られたのは二度のみ。一度目はエティスの侵入を許した時、もう一つは巫祝世界バッカニアにてノルデンショルド地下大迷宮が丸ごと封殺された時だけだ。
「だ、第八階層支配者!? なんでジョンとラピだけじゃなくお前らまで自我が!?」
「……そこからでありんすか。はあ、仮にも我が主君の上位存在ともあろう者がこうも鈍いと眩暈がするでありんす」
厭味ったらしく溜息をついて見せる巨蛇。その言動にイラっと竹串を投げつけようとした直前――
ちゅどおおおおおおおおおおん!!
「な、なんだ!?」
邸全体が大きく揺れた。
「まさか、先にあふれ出た竜どもが暴れて……!?」
「それだけならまだ可愛いものでありんす」
ふしゅると巨蛇は鼻で嗤う。
「空からは機械の神軍が、地上からは呪詛をまき散らす何者かがこの邸目掛けて侵攻中でありんすよ」
「はあ!? 一体何がどうなってんだ!?」
「そんなこと、あちきよりもぬし様の方が心当たりがありんしょう? 魔力を介さず異界渡りを成功させた『炉』に希少な無属性の『石』……あとついでに神竜の守護する『卵』もそうでありんすか。狙われない要素の方が少ないでありんしょう」
「……ッ」
「それで。それで、どうするでありんす?」
しゅるると鈍色の巨蛇は舌を出す。
「邸と竜、神と呪詛の渦巻く混沌の地上を平らかにするか。若しくは竜の溢れ出づる迷宮最奥の慈母竜を平定し禍根を断つか。まあどちらでも好きな方を選ぶと良いでありんす。どちらも必要で、欠けられぬ役割でありんす」
「…………」
さあ、さあ、さあ、と巨蛇が迫る。
一対の巨大な毒牙を見せつけるように嗤う。
「…………」
貴文は竹串を握り直し、全身に魔力をまとってまとわりつく温泉の湯を弾き飛ばして歩みを進めた。
* * *
「迷宮の奪取進捗率は?」
「おおよそ六割強といったところですな、我が主君」
ボロボロになった異世界邸の屋根の上で結界を維持しながらラピが答える。
「蘇った〈大地削ぐ蛇腹〉が第三と第十階層をつなげたようです。それにより〈侵略する群衆〉が爆発的に繁殖し、物量によりティアマトの結界を塗り替えているようです。……鴉も珍しく、意に沿った行動をとっているようですな」
「そうか。流石に魔王城までの到達は厳しいだろうが、道中の結界の無力化は大きいのだ」
「それと――」
こつん、とラピが玩具の杖を振るう。
その瞬間、邸全体を覆うように巨大な影が出現した。
ちゅどおおおおおおおおおおん!!
大気を揺らす爆音。
鼓膜を突き破らんばかりの衝撃だったが、その一撃――破損したアンドロイドや機械兵がより固まって生まれた巨兵の振り下ろした拳による被害はゼロ。
「いったああああああああああああああい!?」
幼い少女のような声音の悲鳴が周囲に響く。
声の発生源は、頭上の影。
異世界邸を跨ぐように出現し、巨兵の拳を脳天で受け止めた牝牛の石像から発せられた。
「……たった今、〈不動の巨角〉の制御奪取に成功しました」
「うぅ……最悪な目覚めだよぉ……」
「すまぬな、〈不動の巨角〉よ。しかし助かった。危うく邸が潰されるのを防ぐことができた」
「別にいいけどぉ……黒兎さん、相変わらず人使いが荒いよぉ……」
星をも砕こうという一撃を頭に食らってもなお「痛い」で済む牝牛の石像は涙声で不満を訴える。それに僅かばかりの謝意の言葉を口にすると、ラピはさらなる報告を主君に伝えた。
「もう一つ、ご報告が」
「なんなのだ?」
「迷宮外に弾かれた管理人殿が、再び深層を目指して進み始めたようです」
「…………。ククク」
思わず笑みがこぼれる。
地上の様子は彼を回収した〈大地削ぐ蛇腹〉から伝え聞いているだろう。短絡的な者であればより戦力を必要としている地上へと泡を食って戻っていたかもしれない。
しかし彼はあえて迷宮の底へと向かった。
邸に混沌をもたらす第一勢力であるティアマトを説得し、彼女の生み出す竜軍を味方につけることができれば、戦力は大きく塗り替わる。
「ククク……クハハハハ!!」
再度笑みがこぼれる。
思ったよりも管理人が冷静で助かったという安堵と、地上は自分たちに任せたという信頼感を得た高揚感。孤独と拒絶により生まれた魔王である自分が、眷属以外の誰かに背を任せているという状況に、思わず破顔した。
「それなら、その期待に応えてやらないといけないのだ!」
魔力を練り上げ、右手に集中させる。
迷宮の権能の半分以上は取り戻した。肉体も多少強引ではあるが、創り変えたことによりある程度の負荷にも耐えられる。今ならば限定的ではあるが、あの力を呼び戻せる。
「さあ、世界を破壊ろう――〈蹂塔鋸〉」
迷宮の魔王グリメル・D・トランキュリティの右手に、鋸状に逆立ち断頭台の刃のように反った大剣が顕現した。




