第三七話「これなら、死にスキルとなっている呼吸法とか肺活量とかも生かすことができるかもしれない……東方医学との結びつきもあるから、錬金術の学習もうまく絡めることもできそうだし……」
二三六日目。
改めて言おう。
短期間のうちに魂を吸いすぎたせいで、クロエは太ってしまった。
よく、ふくよかな女性のほうが可愛いとか、ちょっとぽっちゃりしてる方が抱きついたとき安心するとか、そんな優しい言い回しがこの世に存在する。それは事実だ。俺だってガリガリの女性よりもちょっと肉付きがいい女の子のほうがいいなあと思ってしまう。
だが、今のクロエは若干厳しい。ちょっと肉感的な女性を想像して、それをもう少しぷよぷよにしたのがクロエの今である。お腹を叩くと軽く波立つ、というとわかりやすいだろう。
「……痩せますわ、絶対に痩せますわ……っ」
瞳に炎を灯して決心するクロエ。
目標を持つことはいいことだと俺は思う。痩せたいというのなら止める道理はない。
だがしかし、痩せたいという願望は、人類が長年直面しながらも明確な答えを出せていないものである。実現する道は努力しかない。
果たしてあんなに丸くなったクロエが、そうすんなりと痩せられるだろうか。
(そういえば、アグラアト先生はどうやってあの美しいスタイルを維持してたんだろうか。まさか錬金術じゃあるまいし)
ふと、この間死闘を繰り広げた相手――アグラアト先生のことを思い出す。美の女神イシュタルの魔術的文脈を身にまとうには、その美しさを維持するために並々ならぬ努力が必要なはずである。
もしかしたら彼女なら、痩せる秘訣を知っているのではないか。
そう思った俺は、早速彼女のもとに足を運ぶのだった。
「……怪我人にお見舞いに来て、第一声がそれかしら? なんてひどいのかしらね」
「そうはいっても、先生は大罪の悪魔だぜ? あの場面は戦いを避けられなかったでしょうに。それに俺は、本来は戦いたくなかったんだ」
アグラアト先生の居室に入る。奥のベッドの上に寝転がっている先生は、心なしか疲れているように見えた。痛みで夜もあまり眠れないのだろう。
だが、済んだことは済んだこと。
俺もこれ以上はわざわざ蒸し返さない。たとえ彼女が討伐されるべき【虚ろなる魔王】であり、迷宮の生み出した人類を滅ぼす悪魔だとしても、それを無力化した今となっては、そんなのどうでもいい話なのだ。
「いいかしら? 痩せる方法なら、二つほどあるわ。まずは健康的な食事を与えること。東洋医学によれば医食同源とも言うし、幸いあなたはどこかしらから薬草をたくさん用意できるみたいだし、薬草を使った料理に挑戦してみるといいわ」
「……もう一つは?」
追求されたくなかったことを掘り下げられそうな予感がしたので、俺はあえて続きを促した。
どこかしらから。そう、俺は隠し迷宮【喜捨する廉施者】へと入れる鍵を持っている。この隠し迷宮は、薬草や海産品がたくさん手に入ることもあり、あまり存在を公表したくないダンジョンである。
何よりも、ほとんど外れスキルばかり手に入るが簡単にスキルが手に入る【喜捨の祭壇】という存在があるため、できれば最後の最後まで隠しておきたい。
「もう一つは……その前に何か隠してないかしら?」
「勿体ぶるじゃないか。一応隠してるよ? 世間には先生が魔王だってことを公表してないし、大罪の魔王は先生が退けたことになってる。そして俺とクロエの存在は最初からなかったことになってる」
「そういうことじゃないのだけれど……まあいいわ」
中々はぐらかされてくれない。
こういう敏いところもますます好みなのだが、まあそれは置いておこう。
「もう一つは、適切な運動かしら。身体の代謝能力を高めることで、不要な脂肪を燃焼させるの。運動習慣は健康的な生活を維持する上でも極めて重要なのよ」
「運動……まあ、やってないわけではないんだが」
「あら、そうなの?」
「先生のおすすめの運動はあるかい?」
余計なことをまた口にしそうになったので話題を変える。運動はやってないわけではない。先程の隠し迷宮に潜っては魔物と戦い、走り回ったり、石を投げたり、肉を解体したりとそれなりに身体を使っているはずである。
だが、それは別に全身の筋肉を有効活用しているかと言われるとそうではない。走り回って敵を引き付けるのは主に俺の仕事であるので、裏方で主に投擲役に回っているクロエの運動量はさほどかもしれない。
何かおすすめの運動があるなら、それを聞いておきたいところだった。
「そうね……おすすめはヨガかしら。意外と全身運動になるのよ、あれ」
「……なるほど、ヨガか」
ヨガ。先生の回答は、自分のアイデアの中にない視点だった。
そもそも、ヨガの歴史はかなり古い。
最も古い起源をたどるならば、遡ること紀元前2500年頃、ヨガの歴史はインダス文明にあると考えられてきた。インダス文明の遺跡、モヘンジョ・ダロからは座法や瞑想する人が記された出土品が発見されており、当時の修行法としてヨガの原型があったと推測されている。
そこからやがて1000年が経つと、バラモン教を信仰するアーリア人が南下し、ヨガを更に発展させたといわれる。紀元前1000年頃に編纂されたヴェーダ聖典の中には、ヨガに通じる哲学や考え方の記載がある。
ヨガという言葉が明確に確認され始めたのが、数多に存在する奥義書の文献である。これらの奥義書は紀元前800年からユグドラシル暦200年に渡って数百冊も作られた。
そして数多く散らばったヨガの知識を編纂したのが、哲学者パタンジャリである。彼がまとめたヨーガ・スートラは、ヨガを体系的にまとめたもので、ヨガの根本経典として最も古い古典文献となっている。
(とはいえ、瞑想や修行を基礎とする宗教的な行為としてのヨーガの思想実践が紀元前2500年前からあったかといわれると定かではない。一般的には、ヨーガが初めて内面的修養法をはっきりと指すようになった紀元前300年ごろの中期ウパニシャッド時代にヨーガの起源を求める向きが多い)
鍛錬によって心身と感覚器官を制御し、精神を統一して不動心の境地に辿り着き、輪廻からの「解脱」に至ること――それが中期ウパニシャッドにおいて生まれた、ヨーガにおける内面的修養である。単なる座禅ではなく、悟りに至るための精神集中や心の統一を伴う行法としてのヨーガは、すでに一つの魔術体系となっている。
「これなら、死にスキルとなっている呼吸法とか肺活量とかも活かすことができるかもしれない……東方医学との結びつきもあるから、錬金術の学習もうまく絡めることもできそうだし……」
考える。
魔術学院にいる今ならば、たくさんの蔵書をあさって文献調査をすることも、ヴェーダ経典を専門に研究をしている人に話を聞くことも可能である。成り行き上のこととはいえ、新たに魔術を学ぶ上ではこの上ない環境であった。
「ヨーガだ! ヨーガをやるぞ! 呼吸を整え、魂を整え、体の中を循環する気力を整えるヨーガなら、ダイエットに役立つことはもちろん、クロエの抱えている呼吸の苦しさを和らげることもできるだろうし、もっと言えば魂の器が急激に肥大化してしまったクロエにとっても学ぶことが多いはずだ!」
「……ミロクは、いつも、急、ですわね……?」
いつもの俺たちの家、迷宮の小屋の中に飛び込むと、クロエが腹筋を頑張ろうとしてうんうん唸っていた。ちょっとかわいい。




