第八章 暗紅老仙 (12)
都の静かな空、うっすらとかかった雲の陰で、午後の太陽が控えめにその輪郭を見せている。
わずかに冷たさを増したそよ風に、大槻キュウタは白い外套の襟元を軽く合わせた。
季節は秋の半ばをすぎ、そろそろ冬の声が聞こえてくるころだ。
もっとも、いまのキュウタの耳に届いているのは、人々の活気に満ちた喧騒や、荷車やら牛馬の進みが地面を蹴る響きである。
まっすぐ歩くのも難しいほどの混雑が、秋の終わりかけという季節を忘れさせる熱気を生み出していた。
皇城と、都でもっとも賑わう市場の間を貫く広々とした石畳の道。そこは今日も変わらず多くの人々が、それぞれの日常を進み生きる場所だ。
やがて小さな脇道に辿り着いたキュウタが、一息ついて片手に下げた布袋を持ち直した。中には野菜や干し魚が詰められている。
都に滞在しているあいだは例の司祭の家に居候させてもらっている立場上、日用品の調達やらはキュウタが請け負うことになっていた。
しばらくは大した予定もない。ちょうどいい気晴らしと暇潰しでもある。
キュウタが都に戻ってから一ヶ月ほどが経っていた。
ツィウ・ハー丞相から命じられた仙人探索は失敗に終わった形であるが、キュウタに対して処分や何やらがなされる様子はない。当たり前といえば当たり前だ。もともと裏のある命令とも言えたし、そもそもキュウタはリャオの臣下ではない。むしろこちらが迷惑料をもらってもいいくらいだ。
そして何より、ツィウ丞相がそういう意趣返しめいた行動に出る人物だとは、どうしてもキュウタには思えなかった。
たとえば、司祭がリャオで個人的に続けているイリユヌス教義の伝道活動。それが相変わらず黙認されていること自体、ツィウ丞相からの意思表示にも感じられるのだ。
結局、なにも変わらなかった。
数ヶ月のリャオ国内の調査で多少見聞が広がったのが収穫といえなくもないが、気休めと大差ないだろう。
もっとも、こんなことはキュウタにとって珍しい話でもない。
歴史改変に繋がるイベントや人物へのアプローチ。それが空振りに終わることなど、山ほど経験してきた。キュウタとサザレは、その繰り返しのなかで二十万年近い年月をどうにかこうにか綱渡りしてきたようなものだ。
常に最善の道を選ぶことなどできない。
そもそも何をもって最善とみなすか、絶対の指標があるわけでもない。
たしかにサザレの未来視は心強い道しるべだ。
だが、歴史の道すじは無数に分岐していく。そしてどの分岐がやがて襲い来るであろう魔族との戦いの勝利に繋がるのか。それは誰も断言できない。キュウタは疑念と祈りが入り混じる感情と共に進んできたのだ。
いずれにせよ、この時代でキュウタがリャオの地でするべきことはもう見当たらない。これからこの国がどんな歴史を辿るのかは、この地に暮らす人々の意志に委ねるのが筋だ。
気持ちを切り替えたキュウタは、頭のなかでこれからの行動計画の骨組みを整えていく。
とりあえずは帝国に戻る算段だ。
フィロマからリャオに向かう途上に立ち寄った港のいくつかを、頭の中の地図に重ねる。往路に使った交易船での長距離航海とは打って変わって、帰路は各地の小型船を乗り継いでいく形になりそうだ。
考えごとをしながら歩いていると、いつの間にか司祭の居宅の前に到着していた。
キュウタが引き戸に手をかけようとした時、屋内からくぐもった声が漏れ聞こえた。
気のせいではない。押し殺した呻きのようなものと、複数の何者かの気配が感じられる。
キュウタの眼差しに鋭い警戒の光が灯る。
手荷物を素早く足元に下ろした。引き戸の横にぴたりと背中をつけて屋内の様子を探る。同時に、右手の人差し指にはめた銀の指輪に意識を向け、『力の矢』の発動に備えた。
扉を静かに細く引き開けて、中をうかがう。
「お、おぉ……あぁ……そこ、そこだ」
上着を脱いで木の長椅子にうつ伏せになった司祭がだらしなく手足を投げ出している。
そして一人の女性が司祭の背中に両手を当ててゆったりとしたリズムで刺激を与えていた。長い黒髪を後ろでまとめた彼女は手を止めることなく、ちらりとキュウタのほうを見る。
イェンルゥは、にこりともしない顔で少年と視線を交わしてから、また司祭の背中を揉みほぐす作業に心を戻した。
戸が開いたことに気付いた司祭がキュウタを見て、うつ伏せのままで口を開く。
「おお、キュウタ。こちらのお姉さんはすごいなぁ……体の芯から疲れが取れていくぞ……」
そう言いながらまぶたが重くなっていくのが傍目にも見て取れる。
キュウタがため息まじりに体の緊張を解く。足元に置いた荷物を再び手に取って家の中に入った。
壁際にはイェンルゥの大きな道具箱と編み笠が置かれている。とりあえず道中は何事もなく都へとたどり着けたようだ。
キュウタは丸机の横に置かれた椅子に座ると、だらけきった司祭の体ごしにイェンルゥを見た。
「来ないと思っていました」
「そうかい」
少年と目を合わせること無くぶっきらぼうに返すイェンルゥ。その手の動きは乱れることなく、司祭の背中を柔らかに押し揉んでいた。仙術などを行使している様子はない。純粋に熟練した按摩の手技なのだろう。
そこにキュウタは、イェンルゥが今までの年月で重ねてきた人々との絆を連想してしまう。もし彼女がリャオを出て帝国に移り住むならば、それらの絆をすべて投げ捨てることをも意味しているのだ。
「本当にいいんですか?」
キュウタの釘を刺すような口調が気に障ったらしく、イェンルゥが手をやや深く司祭の背中に押し込む。夢見心地だった司祭が突然の刺激に「ぐぇっ」とカエルのような悶え声を上げる。
指をわななかせてピクピクと震える司祭に目もくれず、按摩を中断したイェンルゥが腕組みをしてキュウタをまっすぐに見る。
憤りというよりは、物堅さを強く感じさせる表情だった。
無言の視線がキュウタを捉える。
これは自分が下した決断であり、誰かの言葉によってもたらされたのではない。訳知り顔で心配される筋合いなど欠片もないのだ。
そう宣言する瞳だった。
続く沈黙のなか、気まずい表情になったキュウタが根負けしたようにうなずいた。
「出発は春先になります。都にいる間の住まいは、近所の宿を押さえてありますので、そこを使って下さい」
イェンルゥが、してやったりと言わんばかりの笑みでキュウタの肩を抱き寄せる。触れた体の柔らかい感覚とともに、大人びた女性の匂いがキュウタの鼻をふわりとくすぐった。
「頼りにしてるよ、坊や」
耳元でそっと囁かれた声の甘さにキュウタが思わず体をビクつかせる。
少年の反応にけらけらと笑うイェンルゥの横顔。キュウタはどこか新鮮な気持ちでそれに見とれていた。
そして不意に、キュウタとイェンルゥの間に割り込んでくる人物。
「イェンルゥ……あなた、ちょっ、と……離れ、な、さ、いっ!」
頬を赤く膨らませたサザレが、キュウタとイェンルゥの肩を掴んでぐいぐいと引き離そうとしている。
そんなサザレの手をあっさりと逃れて、くるりと身を翻したイェンルゥがキュウタの背後に回る。流れるような動きのままキュウタを後ろから両手で抱きしめ、彼の肩にあごを乗せた。
キュウタと頬をぺたりと合わせたイェンルゥが挑発するような笑顔でサザレを見る。
「ちょっと戯れてるだけさ。別に取りゃしないから安心しな、サザレ」
うぐぐ、と唸りながら詰め寄るサザレと、余裕たっぷりのイェンルゥに挟まれたキュウタ。
少年は仏頂面と苦笑のあいだの面持ちで、自分から色々と決定権が失われていくのを感じていた。
そして、サザレが誰かと屈託なく打ち解けているというのも、滅多に見かけない珍しい光景だとキュウタはふと気付くのだった。
◇
真夜中の空に月は無く、無数の星々が散りばめられている。
都と大河をつなぐ運河、そのほとりにキュウタは腰を下ろしていた。
何もかもが寝静まる時分だ。周囲には船の一隻どころか、人の行き来の気配さえない。
冷えた風がそよぎ、キュウタの肌をきゅっと締め付けた。
『久しぶりに都に来たが、夜が静かなのは相変わらずだな』
キュウタの傍らに置かれた丸壺がつぶやく。星明かりだけでは、赤い液体が壺の中で象る顔がどんな表情をしているか判別することはできない。
「盛り場のあたりなら、この時間でも賑わっていますよ」
『酒の味などとうに忘れたな。恋しいとも思わんが』
キュウタはちらりと背後に目をやる。暗がりではあるが、左右に伸びる土手は整地が行き届き、見通しの良い場所だ。誰かに聞き耳を立てられる心配は無いだろう。
丸壺がキュウタと外で話をしたいというので、それに見合った場所を選んだつもりだった。
何についての話、とは伝えられていなかったが、話題の見当くらいはキュウタにもさすがに察しが付く。
「よくイェンルゥを説得できましたね」
『うむ。もっとゴネるかと思っていたが、いささか拍子抜けだ』
そこはキュウタも似たような感想を持っていた。
イェンルゥが、リャオの地で関わってきた人々との交流をあっさりと捨てる決断をするようには思えなかったのだ。
「でも、これはあなたが希望した通りの結果でしょう」
『それはそうなんだがな。なんと言うか、こう、あいつらしくない、というか……』
「僕はイェンルゥの意志を尊重します。あなたとの約束通り、できる限りの手を尽くして彼女を帝国に連れて行く」
キュウタの言葉の裏に込められたものを感じ取ったのか、丸壺が声のトーンを低める。
『何か懸念でもあるような口ぶりだが』
「少し前に、皇城でツィウ丞相に会いました」
『……そうか』
「彼が探しているのは、ガン・ワンではなかった。ツィウ丞相は仙人の里の『生き残り』を探しています。仙人を根絶やしにするために」
丸壺の声がわずかに強張りを帯びる。
『お前、奴にイェンルゥのことを教えたのか?』
「ある程度のことは」
黙り込んだ丸壺。まあ気持ちは分からなくもない、とキュウタは思う。
ツィウ・ハーに向かってイェンルゥの存在を認めてしまうなど、控えめに言っても軽率だ。ツィウ・ハーの仙人に対する感情を思えば、イェンルゥの命をむざむざ危険に晒したと非難されても仕方がないだろう。
それでもあえて、キュウタは尋ねた。
「何か不満でも?」
一呼吸の間を置いてから丸壺が嘆息まじりに答える。
『いいや。ワシはお前の行動にあれこれ指図する立場ではない』
「何を心配しているかは分かりますけどね。ツィウ丞相の動向を気にしても仕方がありません。彼が本気になれば、僕らに逃げ場などないでしょうから」
『奴はイェンルゥを見逃してくれると思うか?』
「さあ。ただ、僕は事を荒立てるつもりはありません。ツィウ丞相もそれは分かっているはずです」
本来、キュウタは都へ舞い戻る必要すらなかった。
なんなら仙人探索の命など放棄し、イェンルゥを連れてまっすぐ帝国へ向かうなりすれば何の面倒もなかっただろう。
にも関わらず、キュウタはツィウ・ハーのもとへとわざわざ赴き、仙人の引き渡しを面と向かって拒否してみせた。その行為の意味を汲み取れないツィウ丞相でもないだろう。
キュウタはツィウ・ハーを挑発しているわけでも侮っているわけでもない。
そもそもこれは戦いなどではないのだ。
「敵だの味方だのまったく下らない。あなたがそう言ったはずですよ」
『……そうだったな』
「僕はツィウ・ハーという人物に対して、否定的な感情をどうしても抱けません。むしろ共感できる部分のほうが多いかもしれない」
『ワシもだよ。奴には何の非も無い。すべてワシら仙人の不始末が原因だ』
静かな口調で認める丸壺。後悔に疲れ切ったようなその言葉に、キュウタは少し後ろめたい感情をおぼえつつ返した。
「それでも……もし、ツィウ丞相がイェンルゥを捕らえようとしたら、僕とサザレが全力で阻止します」
だが、きっとそんなことにはならない、とキュウタは感じていた。根拠など無いし、警戒を怠るつもりもない。ただ、キュウタの直感の天秤はツィウ・ハーという人物を信じる方へ確かに傾いている。
丸壺がためらいがちに口を開いた。
『なぜ……そこまでしてくれるのだ? ワシらを庇ったところで、お前には不利益しか無いだろうに』
疑問に思われるのも当然だ。キュウタがイェンルゥに肩入れする理由など何もないのだから。
キュウタの頭が頷きとも傾げともつかない中途半端な動きをする。
「ただの気まぐれですよ。イェンルゥがどんな人生を送ろうと、僕の仕事には何の影響も無い。たとえ彼女がどれだけ不幸になろうが、僕の知ったことじゃない」
あるいは、どれだけ満ち足りた人生を過ごそうとも。と、キュウタは心の中で付け加えた。
どこか遠くで夜鳥の声がする。
しばらく黙っていた丸壺が口を開いた。
『お前がどんな性格なのかは何となく分かっているつもりだ。そして、何か途方もなく遠大な場所を目指している、ということもな』
「身のほど知らずなのは自覚してます。でも、僕はそれをやり遂げなければならない」
『ワシではお前の助けになれんか?』
キュウタはぐっと唇を結んだ。他人からの思いやりには、いつも小さな罪悪感のようなものが胸に生まれる。
小さく息をついて首を横に振った。
「仙人や仙術に興味を惹かれる部分はあります。でも、その力を直接お借りする場面は無さそうです」
『そうか……済まなかったな。お前には、つまらん寄り道をさせたかもしれん』
寄り道、という表現はそれなりに的確だ。
キュウタは、サザレの未来視による分析に全幅の信頼を置いている。そこから得られた情報を見る限り、仙術は魔法学の進歩においてプラスにもマイナスにもならない。互いの技術領域はほぼ完全に隔絶している。
だが、この数ヶ月の道程でそれを確認できたのはむしろ幸運な収穫だと思うべきかもしれない。選択肢を一つ省けるというのは、歴史の無数の分岐に立ち向かう自分にとって実に歓迎すべき出来事なのだ。
夜闇の中では丸壺がどんな表情をしているかは分からなかった。きっと向こうからもキュウタの顔は見えないだろう。
それでもキュウタは相手に笑顔を向けた。
「あなた達に会えたことは無駄じゃなかった。これは正直な僕の気持ちです」
言葉ではすべてを伝えることはできない。
だからせめて嘘のない言葉を伝えよう、とキュウタは思った。
◇
都の冬は拍子抜けするほど穏やかに過ぎた。
イェンルゥは帝国への出発までの期間を、近所の町医者の手伝いに費やしていた。薬の材料の仕入れやら患者の話し相手やらの雑用で重宝されているらしい。
また、移住後に必要となる帝国の言葉や生活慣習。それらの習得に関しても、教師役の司祭によればなかなか飲み込みの早い生徒という評価だった。
やがて少しずつ日々の寒さが和らぎ、朗らかな春の気配が忍び寄ってくる。
ここ数日、暖かさを目に見えて取り戻してきた太陽。
青空を背に、白い布がバタバタと振られて水滴が飛び散る。
イェンルゥは汚れの落ちた生地を満足そうに眺めると、最後の一枚を庭の隅に立つ木と軒先の間に張られた紐に引っ掛けた。
大きめの手ぬぐい程度の白布が十数枚、柔らかい風にひらひらと揺れている。町医者で包帯や患部の固定などいろいろ便利に使われているものだ。
この陽気なら日没を待たずに乾ききるだろう。足元の桶には水が張られ、脇に洗濯板が立てかけられていた。
屋内から白いちょび髭を生やした初老の男が顔を出してイェンルゥに声をかける。
「今日は客もおらんから、そのへんで終わりにしていいぞ」
患者を客呼ばわりする医者というのもどうなんだと思いつつ、イェンルゥは片手を上げて「あいよ」と返事をする。
ふと目の前にあった桶が消えていることに気づく。視線を上げれば庭の隅で桶の中の水を捨てている少女の背中。イェンルゥは腰に手をあてて、ため息をついた。
「あんたも暇だねえ」
サザレが空になった桶を指先だけでくるくると器用に回しながら振り向く。春の暖かさに合わせた袖の短い軽装で、帯刀もしていない。
「あまり一人で出歩かないでほしい、ってキュウタに言われてるでしょう。忘れたの?」
「あたしがどこで何をしようと、あたしの勝手だろ」
「勝手は認められない。あなたを無事に帝国へ届けるのが私たちの役目だから」
「役目、ね。まあいいけど」
面倒そうに会話を打ち切ったイェンルゥが町医者に一言挨拶してから、彼の居宅兼診療所の敷地を出た。
宿へと戻る道を進みながら、隣を歩くサザレの横顔を見下ろす。
整った相貌だが、歳相応の不安定さが見え隠れしているようにイェンルゥは思う。気づいたときにはイェンルゥの口から言葉がこぼれ出していた。
「サザレ。あんた時々、あたしを『観て』るよね」
ぴたり、とサザレの足が止まる。
警戒するような光が少女の青い瞳に灯った。
サザレが口を開く前に、イェンルゥが続ける。
「経絡の中の『気』を読まれてる感覚とも違う。何ていうか、あたしを通してずっと遠くの景色を眺めてるような……」
サザレの目が少しだけ見開かれる。予備知識なしにサザレの『未来視』をここまで知覚してみせた人物は初めてだった。
少女の表情の変化を見てイェンルゥも立ち止まり、手をひらひらさせつつ気まずそうに付け加える。
「あー。嫌だとか、止めろとか、説明しろとか、そういうんじゃないんだ。あたしを『観る』ときのあんたの顔が気になってさ」
目をぱちくりとさせたサザレが、両頬に手をぺたりと当てて眉根を寄せる。
「……そんな変な顔してた?」
少女のあどけない仕草に、イェンルゥの肩と口元から力が抜けた。
「あんたは、ほんと危なっかしいね」
サザレの頭にイェンルゥの手が、ぽんと載せられる。見え見えの子供扱いに頬をふくらませたサザレの不満顔に、イェンルゥは困惑混じりの微笑を返す。
「ちょいと心配になるよ。そのうち変な男に引っかかったりするんじゃないかって」
「キュウタはぜんぜん変じゃない」
むすっとした顔で即答し、イェンルゥの手を頭からどかすサザレ。ふふっ、と笑いを漏らしたイェンルゥが優しいまなざしで言う。
「一途なのもいいけどね、追っかけるばかりが能じゃないよ。たまには焼き餅でも焼かせてやんな」
そして再び歩き出したイェンルゥの背中を、サザレは不思議な感覚で見つめていた。
軽口の陰に見え隠れする、イェンルゥが人生の中で積み重ねてきたもの。それは自分が持っていない『何か』なのだとサザレは意識した。
イェンルゥの後を少し離れてついていく。自らの両手の指先をぎこちなく絡ませながら、サザレはおずおずと切り出した。
「あの、イェンルゥ」
「ん?」
「人を……好きになったこと、ある?」
イェンルゥは振り向きもせず、歩みを止めることも無く、視線を空のどこかあらぬほうへと向けた。
戯れも誤魔化しも無い声が答える。
「あるよ」
思いのほか真剣なトーン。
てっきり茶化されるかと思っていたところ、意表を突かれたサザレの胸の鼓動がほんの少し速まる。
「その人とは……どうなったの」
「どうにも。ちょっとばかし良い感じにはなったけど、しばらくしたら疎遠になったっけ。それだけだよ」
「そこまで好きじゃなかった、ってこと?」
イェンルゥの足取りが緩む。思い出を懐かしむような沈黙が、十歩かそこら進むあいだ続いたあと、ぽつりと言葉が返される。
「本人同士が思いあってようが、それですべて上手く行くわけじゃないのさ。親とか家とか仕事とか、大人には気配りしなきゃいけないものが沢山あんのよ」
言葉からなんとなくの事情を察することはできたが、サザレは唇を尖らせて目を伏せる。
「そういうの、あんまり好きじゃない」
「西のほうじゃ違うのかもしれないけど、ここじゃそういうもんなの」
「でも、私だったら……」
サザレはそこで、はたと口ごもる。自分だったらどうするのだろうか。
自分の意思や力ではどうにもできない理由で、大切な人と永遠に引き裂かれるとしたら。
途方も無く長い年月を生きてきて、そんな実例は数え切れないほど見てきた。だが、それを自分の身に置き換えて考えてみたことは一度もなかった気がする。
先を進むイェンルゥの背中が小さくなっていく。
いつの間にかサザレの足は止まっていた。まるで、自分ひとりが世界に置き去りにされていくような気分だった。
力無く項垂れて、足元の地面に目を落とす。
何をやっているのだろう。自分はイェンルゥに恋の助言でも期待していたのだろうか。
この人にとってサザレとキュウタの関係性など、どうでもいいことなのだ。
サザレがあれこれ思い悩んでいる様子など、イェンルゥから見れば子供がやっている『ごっこ遊び』に毛が生えた程度の認識だろう。そしてそれはきっと事実なのだ。
やはり『不老』というのは心や体にとって、どうにも融通がきかない代物らしい。
「顔を上げな」
ぽかんとした顔で見上げたサザレのすぐ前、いつの間にか戻ってきていたイェンルゥの柔らかい微笑みがあった。
サザレの頬にイェンルゥの手がそっと添えられる。
「あんたは、あたしとは違う。あたしが諦めたことも、できなかったことも、あんたならきっとできる。そう思うと、あたしもちょっと嬉しくなるんだよ」
イェンルゥの親指がサザレの唇の端をくいっと持ち上げ、戸惑う少女に笑みを作ってやる。
大切なものを託すように、まっすぐ向けられた言葉。普段の豪放なイェンルゥとはどこか違う気がした。サザレは妙に気恥ずかしくなり、視線を居心地悪そうに逸らしてつぶやく。
「別に、私はそんな大げさな事を考えてるわけじゃ……」
口ごもる少女に、イェンルゥが小さくため息をついて苦笑いする。
「あんまりしょぼくれた顔してると、あの坊やも他の女に取られちまうよ」
思わず唇を開いたものの、結局は曇り顔のままで口答えできないサザレ。そんな様子にイェンルゥの眼差しにも憂いの影が浮かんでしまう。
やがて、よからぬ企みでもふとひらめいたか、イェンルゥの唇がにやりと持ち上がった。
「ま、気をつけることだね。ああいう男は意外と年上に弱かったりするからねえ」
言葉の真意を掴みかねるサザレが首を傾げた。
そして、イェンルゥがくるりと背を向け、思案げに一人つぶやく。
「……たまには年下の男も悪くないかな?」
思わせぶりな言葉の意味に気付いたサザレの顔色が変わる。
「だ、だめっ!」
思わず伸ばしたサザレの手をひょいとかわし、イェンルゥが笑いながら走りだす。
一瞬あっけに取られたサザレ。そして、いいようにからかわれたことに気づき、頬に朱がさす。声にならない唸りを上げて、サザレはイェンルゥを追って走りはじめた。
「そうそう、その調子だよ」
肩越しにサザレを振り返るイェンルゥが、無邪気に笑いながら軽やかに駆けていく。
サザレは唇を結んで呆れつつ、前を走るイェンルゥの背中を追う。少女が本気を出せば、あの程度の速度ならわけもなく捕まえられるはずだ。
でも、あの背中には、いつまでも追いつくことはできない。そんな気がした。
◇
数日後、キュウタはイェンルゥが滞在している宿を訪れた。
リャオを出て帝国へと向かうための段取りに目処がついたからだ。
まず海岸沿いの港町へ、運河から大河を経由して目指す。数日の内に天候を見計らって出発するので準備を整えておくようにと伝えた。
「そう」とだけ返したイェンルゥは、窓に寄りかかって外をぼんやりと眺めていた。




