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第八章 暗紅老仙 (5)

 すみ渡る青空、夏の陽光が深い森を天から強烈に照らしつけていた。


 い茂る木々の枝先についた緑の葉は、陽射しをさえぎる天然のカーテンとしての効果を持っている。


 だが風のない今日に限っては、木々や雑草群の狭間の土壌からむらむらと立ち昇る湿った空気のせいで、むしろ薄暗い蒸し暑さを強調する助けにすらなっていた。


 せみや鳥のさえずりがあちらこちらでこだまし、この世界が生命いのちに満ち溢れていることを教えてくれる。

 

 ろくに道もない森の中、二つの白い人影がのんびりとした調子で歩を進めている。


 人の手が入っていない森に平坦な場所は皆無である。

 縦横に走り伸びる太々とした根や、長年の風雨の浸食が生んだ地面の窪みなどが、無数の障害物となり立ちはだかっているのだ。それらをまたぎ乗り越え、勾配を上り下りする道行きは、ややもすればちょっとした山岳の登頂と大差ない労力だろう。


 だが彼らに疲労の色は見えない。

 文字通り長年に渡り旅生活を続けてきた二人にとって、この程度の不整地を進むことは大して珍しい出来事ではないのだ。


 大槻キュウタとサザレがリャオの都を出立してから、二月ふたつきほどが過ぎた。

 季節はすっかり真夏へと変わっている。

 

 差し当たっての行動指針ははっきりしていた。率直に言うなら、迷う必要が無いほど限られた情報しか持ち合わせていない、というべきだが。

 

 仙人と思われる男の『名前』と、その立ち回り先らしいいくつかの村や町の場所。


 キュウタが仙人探索の依頼をけてから、ツィウ・ハー丞相より与えられた手がかりはそれだけである。とはいえ、困惑や落胆といった感情がキュウタのなかに呼び起こされることは無い。言葉は悪いが、仙人を真剣に探すつもりなど初めから無いのだから。

 

 この二ヶ月ほど、キュウタとサザレは形式上は仙人の居場所と目される土地へと進路をとりながら、途上の村や町でリャオの土地の空気や文化を感じ取ることに注意を払ってきた。

 彼らにとっての最優先目的である『魔法の発展』が、なぜリャオの地では進んでいないのか、そのいきさつに何かしらの理由を求めるためである。


 樹上の死角から口を開けて飛びかかってきたヘビを、サザレが素手で無造作に掴みとった。指のあいだでうねうねと悶えるヘビに顔を寄せた彼女は、これが果たして食用に適するかどうか吟味しながら背後のキュウタに言う。


「で、どうします? 仙人がいるらしい例の町に、あと数日で着きますが」


 キュウタが「やめておけ」というジェスチャーでヘビを指しながら答える。


「そうだなあ。一応、人の集まる場所で聞きこむくらいはしておこうか。ま、『このへんに仙人はいませんか?』って質問をどこまで真面目に受け取ってもらえるかは疑問だけど」


 どこまでも続くかと思われた森の薄暗さ。その視界の端で、木々がまばらな一角から差し込む明るさに二人は気付く。

 キュウタとサザレ、どちらからともなくそちらへと足が向いた。道なき道を行くのも大した労ではないが、気楽に歩ける場所があるならそれに越したことは無い。


 キュウタは木の幹に手をついて体を支え、視線の先の光景をぐるりと眺めまわした。


 森が途切れた理由は、そこを流れる『川』の存在だった。

 

 せせらぎというほどのささやかさではない。

 ゆったりとした流れをもつ、平均七、八メートルほどの川幅だ。ここから透かし見たかぎり、水深は腰までも無いだろう。


 自然が気まぐれに造り出した水の流れには、特に河原と呼べるようなものもない。ごろごろとした大小の岩が表面に緑のこけし、森と川の境界で無造作に転がり並んでいるだけだ。

 

 水辺からもたらされる清浄な空気が嗅覚を休ませてくれる。

 ふむ、とキュウタがサザレを見た。

 

「川沿いに進もうか。その内どこかで小休止できる場所もあるだろうし」

「そうですね。ついでに腹ごしらえの準備もしておきます」


 サザレが刀のつかに指を沿わせて川面かわもに視線を向ける。今日の昼食はきっと焼き魚になるのだろう。


 キュウタが比較的進みやすそうな岩場を見繕いながら一歩を踏み出す。

 その時、二人の足がぴたりと止まった。


 ほぼ同時に彼らは振り向き、川の上流へと警戒心を集中させる。

 蛇行する川の両岸からは木々の枝がせりだし、あまり遠くまで見通すことは出来ない。


 だが、二人はその向こうに存在するものを確かに感じていた。


『魔力』の気配によく似ているが、何か異質な、未経験の感覚。


 キュウタの眼差しがわずかに険しくなる。無意識に右の人差し指にはめた指環の手触りを確かめた。


「僕が先行する」


 無言でうなずいたサザレは川から離れて森の奥へ消える。

 そして一瞬の思案の後にキュウタは歩きはじめた。

 

 



 キュウタが川沿いを十五分ほど進んだ頃、風景に変化が現れた。


 川の流れが鋭角に近いカーブで折れた先で、片岸が開けた河原になっている。地面には小さめの丸みを帯びた石ころが多く、ちょっとした広場のようでもあった。


 ここに至るしばらく前から派手な水音が聞こえていたが、その理由は『滝』であった。

 十メートルほどの落差から叩きつける水流は、ぎこちない半円形の滝壺を形成し、そこからあふれる水がいまキュウタがたどってきた川へと流れ込んでいたのだ。


 河原のほぼ中央で立ち止まったキュウタは、その『人物』の後ろ姿を油断のない表情で見つめた。


『女』は川岸と滝のほぼ中間、ゆったりと淀む水に、膝あたりまでをからせていた。

 すらりとした体格は成人とみて間違いない。背中を覆い隠している黒い長髪が印象的だ。


 着衣のままで水浴びでもしていたのだろうか、くだんの黒髪や白い布地の着物の七分袖から見える腕の素肌、ふとももの大部分を露わにするたけの短い半ズボン状の下衣、どれもがまんべんなく濡れそぼり、水面で照り返す陽光を受けてきらめいている。

 

 女はじっとたたずんだまま、キュウタに背を向ける位置で滝を見上げていた。

 

 一瞬、キュウタの肌がざわつく。この感じは以前どこかで、と彼が記憶をたどるよりも先に、女がゆらりと振り向いた。


 水気を含んだ黒い長髪が、ひとすじふたすじほつれて頬に張り付いている。


 切れ長で黒目がちな眼差しと、まっすぐ通った鼻筋は奇妙な気高さをはなっていた。


 血色のよい唇から発せられるややかすれ気味の声はむしろ女性らしさを強く感じさせる。


「旅の人かい? だったら町は逆だ、川をくだりな。もしぎなら残念だったね、金目のものは何もないよ。それとも『こっち』が目当てかい?」


 にやりと言葉を切って、女は何も持っていない両手を広げ、肩をすくめてみせた。

 白い着物の生地は薄くはなさそうだが、水に濡れているせいか彼女の胸や腰まわりのなまめかしい曲線が妙に強調されている。


 キュウタは答えず、意識を周囲の気配にじっと向けた。

 水面に叩きつけられる滝の音が絶え間なくこだましている。滝の左右に切り立った岩壁は緑のつたや草葉で覆われていた。


 少し前に感じた『魔力』に似た『何か』の感覚はどこにも見当たらない。


 河原のキュウタと水の中に立つ女、互いの距離は五メートルほど。

 森の奥からはサザレがこちらや周辺の様子をうかがっているだろう。このような状況で彼女が第三者の存在に気づいたなら、一定のリズムで発現させた魔力でキュウタに合図する手はずになっている。つまり、ここにはこの女の他に誰もいない、ということだ。


 キュウタは相手の全身を注意深く観察しながら、静かに答えた。


「人を探しているんです。『ガン・ワン』という人物をご存知ありませんか?」

「いいや。知らないね」


 半眼になった女がうっすらと微笑む。

 わずかな不審感を心によぎらせたキュウタはさらに問いかけた。


「では『仙人』については? このあたりで見かけた人がいるらしいんですが」

「ああ、見た見た」

「……本当ですか?」


 天から差し込む光のなかで、女は水面みなもに指先を当てながらくるりと回ってみせた。濡れた長髪の先や七分袖から飛んだ水滴がひらひらと宙を舞う。

 女は茶目っ気のある顔でキュウタに小首をかしげてみせた。


「ほらほら、今のあたし、仙女さまみたいじゃない? キミもこんな色っぽいお姉さんにグッと来るだろ?」


 一瞬の沈黙。

 小さくため息をついたキュウタが頭をかく。どうも当ては外れたようだ。さっきの『魔力』によく似た感覚は気になるが、さっさと目的地へ向かったほうがいいかもしれない。


 へらへらと笑いながら女は岸へと上がり、キュウタのすぐそばで自分の着物の裾をぎゅっと絞った。すらりとした白いふとももからキュウタが反射的に視線をそらす。布地から追い出された水滴が河原の石に灰色の染みをぽたぽたと作っていく。

 

 耳にかかった黒髪をかきあげて、女がくすりとキュウタをのぞきこむ。背丈はほぼキュウタと同じかやや高いくらいだろう。着物の合わせ目から胸の谷間がちらりとのぞいている。

 相手の明確な作為を感じながら、キュウタは少し体を回して女に対して半身はんみになった。


 さらにニンマリとした女がキュウタに顔を寄せてくる。


「おやおやー? 意識しちゃってるのかなあ? キミくらいの歳の子にしちゃ、ちょいと初心うぶだねえ」


 子供扱いされることに文句は無いのだが、この手の女性はキュウタにとってどうも苦手意識があって仕方がない。


「あ、ええと……その、お邪魔しました。じゃあ、僕はもう行きますので」


 白い外套マントの襟を整えて、キュウタは苦笑いで会釈した。

 女が口元に手を当てておおげさに目を丸くした。


「あれ、怒った? ごめんね」

「い、いえ。お構い無く」


 気まずそうに耳の後ろをかきながらキュウタは女に背を向けて歩き出した。

 ふっと、それを追いかけるような言葉がかけられる。


「キミさ、なんで仙人なんか探してるの?」


 微妙に低められた声のトーンにキュウタの足が止まる。

 振り返ったキュウタ。女が伏し目がちのニヤけ顔で着物を縛る黒い腰帯を締め直している。今まで気付かなかったが、その腰帯には丸くふくらんだ小さな革袋がくくりつけられていた。

 二、三度まばたいたキュウタがそれなりに用心しつつ答える。

 

「一応、仕事……ですよ」


 女が両手を後頭部に回し、長髪を紐で束ねながらキュウタを見つめる。


「へえ。変わった仕事だね。そんなんで食っていけるの?」


 先ほどまでの、からかうような態度は若干薄らいでいた。第一印象で感じたよりは生真面目な人なのかもしれない、と思い直したキュウタが女に向き直って答える。


「本業は別にあるんです。仙人探しは、ついでというか」

「ふーん。ついで、ね」

「ま、都の偉い人に命じられた話なので、少しは本腰を入れないとマズいんですけど」


 自嘲ぎみに肩をすくめたキュウタに、女が共感するような苦笑いで応じる。


「偉い人、かあ。偉い人にもそんな酔狂な奴がいるんだね。顔が見てみたいもんだ」


 キュウタは空を見上げ太陽の傾きを確かめる。少しばかり長居してしまったようだ。


「ははは。『ツィウ・ハー丞相閣下』ですよ。じゃ、先を急ぐので、失礼します」


 愛想笑いでそう言って、キュウタは女に片手を上げてから背を向けて歩き出した。


 そして彼が数メートル進んだその瞬間、周囲の森から一斉に鳥のむれがけたたましく飛び立った。まるで何かを察して怯え逃げ出すかのように。


 同時に『それ』を感じとったキュウタの全神経が一瞬で警戒態勢へと切り替わる。


 ぱっと振り向いたキュウタの先で、女は両手をだらりと下げた自然体で立っている。

 彼女の瞳に燃え上がる光は明確な『敵意』だ。


 キュウタは女の身内みのうちから放たれる気配を無意識に分析した。

 これは『魔力』に似ている。だが違う。これは確かに何かが違う。


 女が、すうっと息を吸い込んだ刹那、そのきめ細やかな白い『肌』のあちこちに『異常』が生じた。


 七分袖からのぞく腕、短めの下衣から伸びる足、そして気品さえ漂う顔つき。それらを満遍なく覆うものが出現しはじめたのだ。


 黒い『まだら』。


 一つ一つは小さめの木の葉ほどの大きさと形だろうか。それら無数の黒い斑が、女の肌にじわじわと浮き上がり、体全体を不気味に装飾していく。

 斑の輪郭はまるで生き物のようにゆっくりと脈動し、それが肌に描かれた化粧や刺青いれずみたぐいではないことを明示していた。


 女の声音こわねは冷たかったが、その内にたぎる激情はキュウタにも容易たやすく感じ取れた。


「……『ツィウ・ハー』か。その名をあたしの前で口にしたのは失敗だったね」


 キュウタは自分の中で何かがかちりと切り替わるのを感じた。

 女の肌に浮き上がった黒いまだらがキュウタの『記憶』を強烈に蘇らせたのだ。


 キュウタが二十万年前に転移する以前、兵士として戦場で幾度となく遭遇した『敵』の象徴である『黒い肌』。

 一度でもたりにすれば決して忘れるはずのない、生物が獲得するには不自然なまでに完全な『黒』。


『魔族』。


 いま、眼前の女の肌に浮かび上がっている『黒いまだら』。それは、魔族の体をいろどっていた『黒』と寸分たがわぬものだったのだ。


 キュウタは女に対して一切の人道的な感情を廃しつつある自分を自覚した。


 本能が、この女を殺すべき『敵』だと認識している。

 だが、理性は彼を躊躇ちゅうちょさせた。


 キュウタはたかぶりをどうにか押し込めた震え声で告げる。


「少し、お話を聞かせていただきましょうか」


 まずは相手の身動きを封じ、それからじっくりと詳細を問いただせばいい。

 言うと同時にキュウタは女の前後左右に、原初魔法『硬化』で『空気の盾』をおりのように構築した。鋼鉄をも遥かに上回る強度は、彼の無意識の表れかもしれない。


 ぴくりと唇をひきつらせた女が、一歩前に進み出る。

 二人の間は三メートルほど。女のつま先は『空気の盾』ぎりぎりの位置だ。もはや一歩たりとも進むことはできない。

 女は酷薄な微笑を口元に浮かべ、キュウタをめつける。


「奇遇だね。あたしもキミに聞きたいことがあるよ」


 女が、なぎ払うように右手を軽く振り回すと、さらに一歩、『前に進んだ』。

 キュウタの眼差しが険しくなる。


 女は煙を払うかのように易易やすやすと『空気の盾』を『かき分け』たのだ。


 鋼鉄以上の強度を持つ『空気の盾』の存在すら感じさせない足取り。女はゆっくりと一歩ずつキュウタの側へと距離を詰めていく。


 キュウタが無言のまま、右手を前に伸ばし人差し指を女に向ける。められた銀色の指環がきらりと光った。


ようよりしょうじ、いんへとかえれ。えにしむすびし道をて』


 膨大な魔力の発現と同時に、キュウタの正面の空間が、一枚の膜が張られたように透明度が落ちる。

 指環の内部に書き込まれた魔法術式である『対魔法障壁』が発動したのだ。


 これは『魔法』によって生み出された現象への対抗手段の一つである。原初魔法『硬化』による『空気の盾』と同時に展開することで、キュウタは物理的、魔法的な攻撃への高い防御能力を手にしている。


 もっとも、魔法を使った攻防など片手で数えるほどしかキュウタの経験にはない。そして、そのいずれの場合においても、用心深いキュウタの性格から来る保険以上の役割を果たすことはなかった。


 だが、キュウタの心に油断するほどの余裕は無かった。

 安易な先入観は『死』に直結する。幼少から兵士として訓練を続けてきたキュウタの直観がそう告げていた。『空気の盾』を苦もなく無効化したこの女に対して、『対魔法障壁』がどの程度の効果を発揮できるのか、判断することはできない。


 そもそもこの女は魔法陣を記した術式を所持している様子もなければ、呪文の詠唱をしてもいない。

 体から発せられる『魔力』に似た気配も、原初魔法の発動からもたらされるものとはどこか違うような気がした。この女の能力は『魔法』ではないように思えるのだ。


 対魔法障壁を展開した位置を女が踏み越えた。


 彼女の肌を覆う黒い斑に変化は見られない。

 つまり、今のキュウタは彼女に対する有効な防御手段を持っていない可能性が、さらに高まったといえる。


 そして女の攻撃手段は不明。キュウタの行動の選択肢が絞られていく。いよいよ相手の身の安全を配慮することができなくなる、ということだ。


 指環をはめたキュウタの人差し指がぴくりとする。

 全力で放つ『力の矢』はこの女に通用するのだろうか。試してみなければ分からない。可能ならば殺さずに相手から情報を取りたいところではある。だが、うかつに手加減して自分が殺される羽目になっては本末転倒だ。

 

 この板挟みの状況をどうするべきか。

 

 女の足がぴたりと止まった。

 ふっ、と唇から笑いを漏らす女。その背後に白い人影が立っていた。

 

 キュウタですらまったく気づかぬ内に、サザレが女の背後を取っていた。状況の不透明さを危惧して森の中から出てきたらしい。

 サザレは女から十メートルほどの位置だ。だがサザレにとっては一瞬で間合いを詰められる距離とも言えた。


 キュウタとサザレ、人類史を見渡しても比類なき能力を持つ魔術士であり戦士でもある。その二人に前後を挟まれてなお、一片の動揺もない女が、キュウタを見つめたまま楽しげに言う。


「そっち『も』化物ばけものみたいな『気』をしてるねえ」


 サザレは、女の一挙手一投足を鋭い視線で観察しつつ、白い外套マントの下で腰の二刀にゆっくりと指をかける。

 周囲の温度が一気に下がるような『殺気』がサザレから湧き上がった。


 おそらく二人がかりならば問題なく勝てるだろう、とキュウタは読んだ。キュウタの魔法を歯牙にもかけない女の異常性に、サザレも気づいているはずだった。だからこそあえてこの場に姿をさらし、何の小細工もなしに、ただただ本気で相手を殺すつもりなのだろう。


 だがキュウタは、サザレの周囲に『空気の盾』と『対魔法障壁』を展開させた。それは彼から彼女への、「出るな」という無言の意思表示であった。


 きゅっと唇を結んだサザレの問いただすような視線に、小さく首を横に振るキュウタ。


 始まろうとしているのは、これまで自分たちが約二十万年のなかで経験してきた戦いとは完全に異質な未知の領域だという確信があった。

 二人で危ない橋を渡る必要は無い。

 

 キュウタは腹をくくった。

 強さが未知数の相手に対する最善手が『逃げ』の一手なのは分かっている。だが、きっとここは背を向ける場面ではない。あえて火中に手を差し入れ、その先にある何かを力ずくで掴み取るべき場面に思えたのだ。

 

 女がわずかに前傾し、ゆらりと両手を胸の高さに上げて構えらしきものを取る。だが、そのたたずまいに、武術やその類を修めている者の気配は特段見受けられない。


 キュウタは右手をゆっくりと差し上げ、女へと向ける。とにかく相手の初撃をしのぎさえすれば『力の矢』を詠唱し発動する暇はどうにか捻出できるだろうか。なかなかにの悪い賭けに思える。

 まともにやり合えば、どちらか、あるいは双方ただでは済まないという予感がふくらんでいく。おそらく無駄だろうと思いつつ、キュウタが言う。


「できれば穏やかに話をしたい、と思うんですが。本気でこの力を使いたくはないので」


 女が、にっと唇の端を上げた。


 来る、とキュウタが感じたその瞬間。

 

 目の錯覚とも思えるような動きだった。


 女が予備動作無しに踏み込んだ無造作な一歩。

 わずかな上下動すらない、不自然になめらかな水平軌道で、二メートルほどの距離が一瞬で詰まる。


 虚をつかれて硬直するキュウタの眼前で、女が体を沈めた。

 地面すれすれでくるりと前転した女の長髪がキュウタの視覚を一瞬混乱させる。


 水車のような回転の勢いそのままに、女の裸足はだしのかかとが風切り音とともにキュウタの脳天めがけて振り下ろされた。


 キュウタは反射的に『硬化』させた右手首で、かかと蹴りを受け止める。そして間髪入れずに女のもう片方のかかとがキュウタの左鎖骨に叩き込まれた。


 鈍い音とともに、キュウタは自分の体が『きしむ』感覚を味わう。

 自分はどうやら女を過小評価していたらしい、とキュウタは軽い後悔を覚える。

 

 原初魔法で『硬化』させたはずの肉体が感じるはずのない、浸透するような『痛み』。


 だが謎を解くのは後回しだ。

 かかとを叩きつけて逆立ちの状態のままの女。その無防備な後頭部めがけてキュウタは手加減無しの蹴りを放つ。


 女は死角からの攻撃を見えているかのような反応で体をねじり、キュウタのつま先を紙一重でかわす。その慣性を利用し地上で独楽こまのように全身を回しながら、女は素早くキュウタと距離を取った。


 幻か幽鬼を思わせる、物理法則を無視するような現実味のせた身のこなしだ。ゆらりと立ち上がり、先ほどの自然体の構えに戻った女が余裕の笑みをみせる。


「キミ、えらく頑丈だね」


 つぶやくと同時に、女はその場で身を素早くひるがえしキュウタに一瞬を背を向けた。旋風つむじかぜのような一回転が、サイドスロー気味に振り回される女の右手にさらなる遠心力を加える。

 

 女が何かをキュウタめがけて投擲とうてきした。


 考える前にキュウタは上体をそらす。

 矢のような速度で耳元をかすめる小さな影。黒く細い軌跡が見えたような気がした。

 キュウタの背後数メートルに立っていた木の太い枝に、何かが絡みつき、数瞬遅れて、かつんと乾いた音が鳴る。


 女が投げたのは、小石大の『金属分銅』だった。

 そして枝に絡みついたのは分銅と、その底部から伸びる黒い『糸』だ。糸は女の手元までまっすぐ続いている。女の右手には、いつの間にか布らしき素材の黒い手甲てっこうが装着され、中指根本の金具に糸の終端が固定されていた。


 分銅と糸は枝を数周するように絡まっており、簡単にはほどけそうにない。

 目眩めくらましのつもりだったのかもしれないが、逆に今は女の身動きを制限するだけだ。


 ここだ、と見たキュウタが一気に女へと突っ込む。全力で『硬化』させたこぶしなら体のどこに当たってもそれなりの効き目のはずだ。


 小さく舌打ちした女が手甲をした右手を引く。糸は枝にしっかりと絡んだまま外れる気配はない。


 キュウタが正拳を女の胸元へと叩きこむ寸前。

 耳障みみざわりな高周波音が『糸』から発せられ、何かをざくりと剪断せんだんする音がキュウタの後ろでした。

 

 自由に動きまわれぬはずの女が、キュウタの拳を後方倒立回転でかわす。

 空振りしたキュウタの体勢がふらりと崩れた。


 だがまだだ、と再度間合いを詰めようとしたキュウタの視界の端に黒い影が映る。


 しまった、とキュウタが左手を構えて頭部をかばう。同時にキュウタの左手首と喉をひとまとめにするように『分銅』とそれに繋がる『糸』が生き物のような動きで絡みついた。

 

 歯をむいて笑みを浮かべた女が右手をぐっと引き、絞まる力が更に増す。キュウタと女は綱引きのようにその場で立ち止まる。

 どうやって糸を枝から外したのかと、キュウタは全身に『硬化』をかけつつ視線を背後に向けた。

 糸が絡まっていた太い枝は鋭利な刃物でも使ったようにすっぱりと『切断』されている。

 

 ぞくりと背筋が冷える。

 女の視線に殺気が満ち、魔力に似た何かの気配が高まった。

 

 再び先ほどと同様の高周波音が『糸』から放たれる。

 焼けつくような感覚がキュウタの肌を襲った。鋼鉄以上に『硬化』させたはずの手首や喉の皮膚を、糸が絞めつけながらじわじわと『切り進んで』いく。生じた傷から染み出した血が足元に数滴ぽたりと落ちた。

 

「キュウタっ!」

 

 叫んだサザレから魔力が発現する気配。

 刀に刻まれた『対魔法障壁』で、自分を檻のように囲んでいるキュウタの『空気の盾』を無効化して加勢するつもりなのだろう。


 キュウタは糸に拘束された窮屈な体勢のまま、指環をはめた右手を女の足元に向ける。サザレの助力を待つつもりは無い。

 これは自分の見込み違いが招いた状況だ。油断はしていなかったが見通しが甘かった。そして、この女がまだ奥の手を隠しているという可能性も捨てきれない。下手をすればサザレにまで危険が及びかねないのだ。

 

 だからキュウタは決断した。

 この女を全力で殺す。

 

 やりかたは単純だ。

 まず渾身の力で放つ『力の矢』で女の足元を穿うがち、可能ならば彼女自身の足、あるいは下半身を破壊する。空でも飛ばない限り動きは止まるだろう。あとは女が挽肉ひきにくになるまで『力の矢』を叩き込み続けるだけだ。

 多少後味の悪い光景になるだろうが仕方ない。

 

 息を吸い込んだキュウタが魔力の発現に備える。

 

 キュウタが何かを仕掛けることを悟ったのか、女はさらに荒々しい表情になり、右手を強く引く。糸から発する高周波音が一気に甲高くなった。そして糸がキュウタの皮膚へぎりぎりと食い込む速度も上がり、傷から血のしずくが飛び散る。頸動脈に糸の一部が触れかけた。

 

 キュウタが『力の矢』を発動するのが先か、女がキュウタの首を切り落とすのが先か。この際どい競走の勝敗は数秒後に判明するだろう。

 

 そして二刀を抜き『対魔法障壁』を発動させたサザレが全身に殺気をみなぎらせて『空気の盾』を切り裂こうとした瞬間。

 

『待て、イェンルゥ』


『声』が響いた。

 奇妙にこもった、まるで壁越しに語りかけるような声。老いた男に思える。

 女のまぶたがぴくりと震えた。そしてキュウタの喉に食い込む糸の圧力がわずかにゆるんだ。


 再度、声が響く。


『そっちの少年も『気』を収めよ。ここでやり合う事に意味なんぞない。どちらにとってもな』


 一旦『力の矢』の発動を保留するキュウタ。

 攻撃を仕掛ける絶好の機会のはずなのだが、自分に向けられた老人の声は不思議な説得力があった。


 声の出処でどころつかめない。

 キュウタは警戒を解かずに周囲に視線を走らせるが人影は見当たらない。だが微弱な『魔力』が不規則に震動するような気配をかろうじて感じる。

 サザレも同様にあたりの気配に神経を集中しているようだが、声の主の正確な位置を捉え切るには至っていないらしい。


『イェンルゥ』と呼ばれた女は手甲を装着した右手と鋭い視線をキュウタに向けたまま言い返す。


「でも、老師」

『その少年の『経絡けいらく』をてみい。お前では絶対に勝てん』

「……やってみなけりゃ分からないさ」


 ため息のような唸りで、『声』が言う。


『お前なら分かるはずだ。そんなに死にたいならめはせんがな』


 女は納得いかないという思いをはっきりと声に乗せる。


「だけど、こいつはツィウ・ハーの……」

『イェンルゥ』


 たしなめる声に威圧感が混じる。


 女は憤懣ふんまんやるかたない表情で、ふうっと溜息を吐き出した。

 右手から力を抜いて軽く引く。キュウタの手と喉を締め上げていた糸がするりと外れる。

 くるりと手首を返すと、糸は吸い込まれるように女のてのひらへと巻き戻っていった。最後に分銅をぱしっと無造作に受け止めると同時に、彼女の肌を覆っていた黒いまだらも潮が引くように消えていく。


 女から放たれていた奇妙な力の気配は完全に消え去った。


『声』が満足そうな調子になる。


『それで良い。というわけで少年。お前さんも『気』を落ち着かせてもらえんかな』


 息を整えて手首と喉についた傷を指で確かめ、キュウタが左右に視線を振りながら答える。


「……どなたか存じませんが、まず姿を見せていただけますか?」


 女が不機嫌な顔で口をはさむ。


「悪いけど、そいつは聞けないね」


 れったい口調で『声』が言う。


『やめんか、イェンルゥ。とにかく、ワシを『ここ』から出せ。ワシの姿が見えんでは、そやつらも話を聞くどころではなかろう』


 がりがりと頭をかいた女がいよいよ諦めた顔をする。

 まったくもって気が進まないという色を露骨に出しつつ、女が腰帯にくくりつけた小さな道具袋から『それ』を取り出した。


 きらりと太陽の光が小さく反射した。


 それは彼女の手のひらに乗るほどの大きさで、球に近い形状の、透きとおった『丸壺』だった。


 表面の反射具合と透明度から見ると、材質はガラスなのだろう。全体に極めて微細な紋様が彫り込まれ、相当な熟練工の手によるものと推察できる。


 その見た目において何より印象的なのは、丸壺の内部に満たされた『赤い液体』だった。


 ガラス越しに見て取れる液体の不自然な濃度のかたより。それが煙のようにうごめきつつ陰影を造り出し、まるで簡略化された『顔』のようだとキュウタに思わせた。


 そしてその『顔』が、『まばたき』するような『仕草』を見せた。


 つられるように目をぱちくりさせたキュウタ。


 丸壺の中にうごめく赤い液体で構成された『顔』、その口元らしき部分がゆっくりと動いた。


『ワシの名は『ガン・ワン』。お前さんがお探しの『仙人』だよ』


 丸壺の中の『顔』が発した『声』に、キュウタの思考は停止し、口が半開きになった。




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