第八章 暗紅老仙 (3)
太鼓の響きが『都』の曇り空を渡っていく。
残響の消え際にかぶせるように繰り返し打ち鳴らされる音は重苦しく、それでいてどこかのんびりと、夕べの到来を都の住民に知らせている。
よくよく見れば、ぶ厚い雲はほんのりとしたオレンジに色づいており、確かに夕刻どきであるのが分かる。一日中、太陽が雲間に隠れていたせいで、誰もかも時間の感覚があやふやになっているようだ。
太鼓の音の源である鼓楼は、都の中心部から見て日の沈む位置に建てられている。
対となる東の鐘楼で朝に鳴らされる鋭い鐘の音とは対照的に、この太鼓の響きはやたら間延びした調子である。だが、一日の締めくくりを告げるにはある意味で似つかわしいと言えるだろう。
太鼓の音を合図にしたかのように、道を行く人々の足取りがわずかに変わる。ある者は仕事の残りを片付けるための早足へ。ある者は早々に店じまいを決め込んでその場で立ち止まり、仕事仲間と談笑を始めている。
驢馬に牽かれた荷車が、思いのほかの早足でかたわらを通り過ぎる。
茶色まじりの黒い長髪と、小柄な体にまとわれた白い外套の裾が軽くはためく。
小さく欠伸をしたサザレの眼尻に粒のような涙が浮かぶ。
いま彼女がいるのは、都から徒歩で一日ほどかかる大河の本流と繋がった運河の終着点、『内港』に隣接する広場の片隅である。
都の東端にあるこの大規模な船着場の周辺には、荷役の用を果たすためにこのような広場がいくつも自然発生的に成立していた。
人や物の出入りが密な場所は、もちろん商売にもうってつけである。
大小様々な筵を敷いた露天商たちが、荷車や人の行き来を妨げない場所で即席の店々を雑然と広げている。彼らが扱っている品のほとんどは、都の周辺で採れる野菜や魚の干物、ちょっとした日用品などだ。
夜も間近に迫ったこの時間、帰宅途中の買い物に賑わう人混みの間を、サザレはまるで舞うような軽やかさで歩き進んでいた。
少女の大きな青い瞳や白い肌は、リャオの住民の中にあっては少々目立つ容姿である。だが、近年のリャオにおいては、周辺各国から様々な理由で都を訪れる人間が増えていた。
商売、学問、政治など、目的は人それぞれである。時代とともに陸路や海路でのリャオ訪問も比較的容易になってきており、もはや異国の人間はリャオの人々にとってそれほど奇異な存在ではなくなりつつあるのだ。
広場から都の内側へと続く通りの間には、これといって境界を定める目印もない。徐々に増え始める商売人の建屋や土塀、毎日の荷車や牛馬の行き来によって踏み固められた天然の舗装道などがかろうじてそれを感じさせる程度である。
いくつかの通りを進むに連れて広場の喧騒も少しずつ遠ざかる。
やがてサザレは、とあるこぢんまりした店の壁に立てかけられた、木の看板に目を止めた。赤みがかった木目が年季を感じさせる。墨で書かれた光沢ある文字は個性的な筆使いで、読み取るのに少々まごつくほどだ。
看板のすぐ横の引き戸は開け放たれており、中はずいぶんと薄暗い。
二度三度、目をぱちぱちさせたサザレが静かな足運びで店の中へと入る。
入り口をはいってすぐ横に、腕組みをしたたくましい大男が壁にもたれかかって立っていた。大男はサザレをちらりと見下ろしてから、ぷいと視線を正面の何もない空間へと戻した。きっと用心棒の類なのだろうが、サザレの外見に警戒心を抱くほどの眼力は無いらしい。
サザレはちらりと外套の裾をまくり、腰に差した二刀を見せ、相手の反応をうかがうように首をかしげた。
だが大男はそれを一瞥しただけで、ふん、と鼻息を一つつき、アゴで店の奥を指す。
それにつられたサザレの視線の先には、腰の高さほどに底上げされた座敷があった。
ほぼ真四角の座敷は壁を背にして、三方の辺を仕切り代わりの長机が囲っている。机の天板から座敷の床まで縦に嵌めこまれた板が小さな壁代わりとなって、まるで升か箱庭のような風情だ。
机の向こうで、でっぷりと太った四十代ほどの男が、肘掛けのある小さな座椅子に無理やり体を埋めこんで座っている。背後の壁にはいくつもの真四角の引き出しが、天井から床近くまで規則正しく据え付けられ、各々に墨で色々な数字や文字が目印として書きつけられている。
『店主』は机の上に広げられた帳面に顔を覆いかぶせて、その内容に読みふけっていた。あごから細長く伸びた髭は頭髪と同じ灰色で、先の方は洒落っ気のある三つ編みにされている。髭の先を指でちょいとすくって肩に乗せる仕草を見るに、書き物作業の邪魔にならないようにという実用性も兼ねているようだ。
脂肪でふくれた体が、模様の無い生成りの着物で机の前で丸まっているさまは、都のあちこちで売られている饅頭を思い出させる。
無意識に口の中にわいてきた唾を飲み込み、サザレが話しかけた。
「『両替』をお願いできますか」
声から察するに真面目に対応する必要もない小娘と思ったのだろうか、店主は帳面に目を落としたまま、無言で人差し指をくいくいと動かして机の上をぞんざいに指した。
小さく肩をすくめたサザレがふところから『それ』を取り出して、店主が夢中になっている帳面の前に置く。
ごとり、と意外なほど重々しい音。
店主と壁際の用心棒、二人の視線がぴくりと反応する。
机の上には、少女の拳と大差無い大きさの『銀』の塊が置かれていた。
むっつりとした表情で固まった店主の目に警戒心の光が浮かぶ。
彼はむくりと顔を上げ、まじまじとサザレの面立ちや服装を観察してから言う。
「あんた、異国の人か」
「はい。西から来ました」
西、という言葉に、店主が分厚いまぶたの片方を大きく開けてサザレの体を上から下までじろじろと眺め回す。
「うん? あれかね。ひら……とか、ふろ、なんとかいう国の」
「フィロマ、ですね」
「ああ、それそれ」
うなるような息継ぎで座椅子の上で姿勢を変えた店主が、机の隅に置かれていた卓上用の竿秤に銀の塊を載せる。
慣れた手つきで錘を滑らせて目盛りをじっと見てから、店主はおもむろに背後の壁の引き出しの一つを開け、中からじゃらじゃらと音のする棒状のものを机の上に数本どさりと置いた。
数十枚の『銅銭』が中央の穴に焦げ茶色の紐を通してひとくくりにされたものが、机の上でごろごろと芋虫の群れのようになっている。
帳面に筆ですらすらと数字を書き加えながら、店主が着物の襟のすきまから背中をぼりぼりと掻いた。
「最近は異国の連中もちらほら見かけるねえ。あんた、親御さんの仕事にでも付いてきたのかい?」
腰帯に下げた道具袋に銅銭の束をしまってサザレがうなずく。
「まあ、そんなところです」
「どんな商いだね?」
「皇帝陛下への献上品を運ぶ仕事です。商い……と言っていいんでしょうか? 直接何かの儲けになるわけではなさそうですが」
皇帝、と聞いて店主が目を見開く。
「ほう、そりゃすごい。と、言うことは、えーと、ふぃ……ろま、の国とリャオで本格的に交易が始まるのかねえ」
「どうでしょう。今回の献上は個人的なものと聞いていますが」
だるまのような腹をなでながら、店主が「ううむ」とつぶやき斜めを見上げて考えこむ。頭の中の算盤が儲け話の匂いを探り当てようとぱちぱち弾かれているのだろう。
サザレが頭を指でぽりぽりとかく。
店主の雑談に付き合う義理も特段無い。用事も済んだことだし、キュウタとの合流時間もそろそろだ。さっさと立ち去る頃合いだと見計らったサザレが、ちらりと視線を横に向ける。
右の壁にずらりと並べ掛けられた木の標札には、各種貨幣や貴金属間の交換比率を示す数字が墨書きされていた。
それら標札の脇に付記された『手数料』を見て、サザレが数枚の銅銭を机の上に置こうとする。
だが店主は片手でそれを遮って、にっと歯をむいて笑った。
「いや、うん。今日はオマケにしとくよ」
「いいんですか?」
「商売ってのは、人を見て、話を聞くとこから始まるんだな。なにげない話のなかに金が埋まってんのよ。こいつはそのお礼だ」
サザレが首をかしげる。
「……今の話のどこに儲けの要素が?」
机の上で頬杖をついた店主が相手をからかうような笑顔になる。
「大したことなさそうな物に値段を付けるのが俺らの仕事なのよ」
店主の謎かけじみた言葉に、もはや理解するのを諦めて軽く頭を下げたサザレ。そして彼女はそのまま店を出る戸口へと振りむこうとした。
すると、店主が机の上にがばっと乗り出して、サザレの顔立ちをじろじろと無遠慮に見あげた。
唐突な行動にサザレが面食らってその場で立ち止まる。
店主が感心するような声で言った。
「ところで……よく見りゃ、なかなかの佳人さんじゃないか。なあ、ウチの息子が年頃なんだが、あんた嫁に行くあてあるのかい? もし良かったら……」
そこまで言ったところで、店主は思わず口をつぐんだ。
たった今まで丁寧な物腰だった少女の周囲の空気が、一瞬で氷のように冷え冷えとしたものに一変していたのだ。店主は自分のこめかみを一すじの生ぬるい汗が伝うのを感じた。
これ以上ないほどの冷め切った眼差しと声音で、サザレがきっぱりと言う。
「売約済みです」
用心棒がくすくすと笑う声と、店主のぶつぶつ言う声を放ったらかして、サザレは両替商を出た。
すっかり薄暗くなった路地を、待ち合わせの場所を目指して戻っていく。
少女のむすっと閉じた唇の隙間から、ふてくされるようなため息が出る。
どの時代や文化圏においても、自分のような十三、四くらいの年頃の娘は伴侶を得るにはそれなりの『適齢期』とみなされていた。
特にサザレのように人の目を引く容姿だと、先ほどの店主のように色々と『ちょっかい』をかけてくる者もそれほど珍しく無い。
そのたびに、いつもキュウタは笑いながら「みんなが君を欲しがる気持ちは分からなくもない」と言う。彼にそう言われれば、彼女も正直いって悪い気はしない。だが、鬱陶しく思う時が多いのも事実だ。いっそのこと『人妻』と書いた札を首にかけておくべきだろうかと、以前キュウタに真剣に提案したこともあったが、即座に棄却されたのは未だに納得いかないサザレだ。
出会ってから二十万年近く。キュウタには力ずくも色仕掛けもあまり通用しないと、サザレは身にしみている。
自惚れるわけではないが、キュウタが自分を大事に思ってくれていることはさすがに分かる。
そして、目指す未来を求めてひたむきに進む少年の背中は、彼女の胸を強く揺さぶってきた。そこに惹かれて、サザレはこうしてキュウタと共に生きることを選んだようなものでもあるのだ。
だがたまにはその修行僧じみた生き方を脇において、ちょっとくらいこちらを見てくれてもいいのにとも思う。
先ほどよりも少しだけやわらかいため息がこぼれる。
なんで自分はキュウタのことを考えると、こうにも思考がとっちらかるのだろう。
普通の女子ならばこんな時、年上の女性に助言を求めるのかもしれない。だが、あいにくそんな人物の心当たりはない。
ふと気付けば、いつの間にかキュウタとの合流場所に辿りついていた。
雲におおわれた空はいよいよ暗さを増している。
さまざまな店が並ぶ地域を外れると、都の中では比較的低い身分の庶民の住まいがごちゃごちゃと現れ始めた。小さな堀ぞいにぽっかりと空いたちょっとした広場は人影もまばらになりつつある。
建材か何かの使い残りなのか、片隅に置かれた野ざらしの石積み。そこに『司祭』が腰をかけているのをサザレは見つけた。
司祭はサザレの姿に気づくと、やれやれといった様子で立ち上がる。
リャオの伝統を意識した造りの着物の裾から土埃を払いのけながら司祭が言う。
「おう、待ってたぞ。用足しは済んだか」
サザレがひょこっと頷きながら周囲に視線を巡らせる。
「先生、キュウタは一緒じゃないんですか?」
「ん? ああ。その、私にもよく分からんのだが……あいつ、皇城でちょっと『お呼ばれ』してな。少し遅くなるかもしれん」
どう説明したものかと考えあぐねているらしき司祭が、困った様子で耳の後ろをかりかりとかく。
眉をひそめたサザレがちらりと彼方へ目を向けた。
こぢんまりとした民家や商店の屋根がひしめく景色。
その向こうで高々とそびえる石組みの城壁、さらに奥からのぞく『皇城』本殿の巨大な屋根をびっしりとおおう朱い瓦の輝きが、夕闇迫る空の下で不気味な稜線を描きだしていた。
◇
大槻キュウタは静かな池のほとりに立ち、手持ちぶさたに水面を眺めていた。
風は無く、さざなみ一つたっていない水面は鏡のごとく滑らかだ。無数の蓮の葉がきれいな円形にまとまり浮いている。
周囲に茂る樹木や生け垣の隙間から、白く塗られた土塀や朱塗りの柱が顔をのぞかせ、ここが人の手により作られた場所であることを思い出させる。
草木の間を縫うような路はゆるやかに蛇行し、大きめの砂利が敷かれた上に規則的な間隔で平らな踏み石が置かれていた。
この『庭園』は皇城の本殿に隣接する、皇帝やその身内の憩いの場所として設けられた区域の一角にある。
四方は比較的高い土塀で囲まれ、庭園の他には宴を催す広間や、様々な神や祖先が祀られた廟、リャオ国内外の書物を収めた書庫などが立ち並んでいた。
キュウタが白い外套の下で腕組みをする。頭の上の曇天はもう夜に近い。
すでに一時間ほどもこうしているだろうか。当然ながら茶の一杯も出てくる気配すらない。
リャオ王朝から見れば『外』の国から来た庶民である自分が、リャオの役人から客扱いされるなどは夢にも思っていない。
だが、何かが心に引っかかっている。昼間、自分の肌をざわつかせた奇妙な『感覚』といい、容易ならざるものが忍び寄っている予感がしてならないのだ。
池の表面をゆったりと漂っていた数匹のミズスマシが、ぱっと弾かれたように岸から素早く離れていく。
静かな足音がひとつ、キュウタの背後に現れた。
キュウタが振り向いた先に、一人の男性が立っている。
着物の紺が、庭園の緑の中に際立っていた。
キュウタより頭一つほど高い体格は、目の当たりにしてもやはり肉厚で威圧感にあふれている。
男は両手を後ろ手に組んだまま、ゆったりと踏み石の上を歩いてくる。さらりと長く伸びた黒いあご髭が胸元で左右に揺れた。注意深い眼差しはキュウタをまっすぐに捉えている。
淡々とした調子であるが、抗いがたい力を感じさせる声がキュウタに向けられた。
「私の名は『ツィウ・ハー』。丞相である」
この地の習慣に倣い、膝をつこうとしたキュウタをツィウ丞相が右手で制した。
「そのままでよい。相手の顔を見ずに話は出来ぬ」
キュウタは言われるがままその場で立ったまま、両手を相手に見えるように体の前で組んだ。
ツィウ丞相はキュウタがじっと口を閉ざしている様子を見て微笑んだ。おそらく五十をすぎたあたりを思わせる皺に挟まれた唇が開く。
「確かにこの国では、目下の者が許しを得ずに言葉を発するのは無礼であるが。リャオの民でも臣下でもない君が気にする理由はない」
キュウタは視線を伏せて答えた。
「恐れいります」
ツィウ丞相の尋ねるような視線に、キュウタが軽く頭を下げて言葉を続ける。
「キュウタと申します。西のフィロマの地にて、イリユヌス教会の雑事に携わっております」
「『司祭』殿が手配した献上品の監督の任を務めていたとか?」
「はい」
ツィウ丞相の青白い肌の顔に思案の色が浮かぶ。紺色の冠が載った頭がしみじみとかしげられた。
「西方諸国の人間は何度も見ているが、君は彼らとは少し顔つきが違うな。この土地の人間に近いように思える」
「生まれはミズホの方です。色々ありまして、今はフィロマで暮らしております」
嘘ではない。
リャオと海を挟んだ島国である『ミズホの方』で、キュウタが生まれたのは事実なのだ。『いつ』の、と尋ねられれば少々言葉を濁さざるを得ないだろうが、嘘だけはついていない。
ツィウ丞相がなるほど、と膝を叩く。
「ミズホ、か。道理でな。ときに、かの国は近年すこぶる荒れていると聞くが」
キュウタは慎重に言葉を選びつつうなずいた。
「噂ですが、相当多くの勢力が割拠している、と。まだまだ不安定な情勢が続くようですね」
自らの髭をなでながら、ふむ、とツィウ丞相がキュウタをじっとりとした眼差しで見下ろす。
「だからイリユヌス教は、国として安定しているリャオで布教をする方針に切り替えたのかね?」
さてどう答えたものかと、キュウタが頬を指でかく。
現在、イリユヌス教のいくつかの教派はあちこちの国に宣教団を派遣し、教義の普及に努めている。乱世が続くミズホでの布教が振るわなかったという事実も、ツィウ丞相は立場上すでに掴んでいるのだろう。
ツィウ丞相のがっしりした輪郭の顔が、ともすれば無言の威嚇にも取れる表情になった。キュウタは特に気圧されることもなく、わずかに唇をほころばせる。ほんの少しのやり取りではあるが、ここまでの会話でツィウ丞相の人物がおぼろげながら見えてきたように感じていた。
キュウタが相手の視線をしっかりと受け止めて言う。
「今回の皇帝陛下への献上は、帝国や教会が直接関わっているわけではありません。丞相閣下もご理解いただけているはずかと」
ふっと目を細めたツィウ丞相の物腰がかすかに和らぐ。
「もちろん知っている。ならば、君自身はどう考えている? リャオの地にイリユヌス教を広めることの是非を」
キュウタは相手との会話を楽しみはじめている自分にブレーキをかけながら、考えをまとめつつ言葉にしていく。
「信じる神を選ぶ自由は誰にでもあるはずです。何を信じ、選ぶのかは各人の心が決めるべき問題に思えます。とは言え、『選ばせる』と『強いる』の線引きも難しくはありますが」
ツィウ丞相の声に白々しい調子が混じる。
「ほうほう。なかなか耳に心地よい言葉だな。だが、誰もが正しい選択をできるわけではないぞ。やはり、より良い『道』を知っている者が、知らぬ者を導いてやる。それが理にかなっているというものではないかね?」
キュウタが返す言葉にためらいはない。それこそいくども自問自答してきた命題に他ならないものだったのだ。
「誰にも正しい選択などできません。いつでも、何度も、迷って、悔やんで。それでもどうにか自分をなだめて、折り合いをつけて生きていくしかない。僕はそう思っています」
二人のあいだに沈黙が流れた。
すでに陽は落ち、互いの表情を読むことすら難しくなっていた。
庭園の四方を囲む通廊の端からぽつぽつと等間隔に灯りがぼんやりとともりはじめる。
遠くからの光にほんのりと照らされたツィウ丞相の青白い顔には、諦観に似た何かが浮かんでいた。
ツィウ丞相がぽつりとこぼす。
「君は、『神』を本当の意味では信じていないのだな」
苦笑いと詫び顔が入り混じった表情でキュウタが肩をすくめる。
「蔑ろにしているつもりはありません……が、『あて』にしていないのも確かですね」
真一文字に結ばれていたツィウ丞相の唇の端にわずかに満足気な笑みが生まれた。
そして彼はくるりと背を向けると、付いてくるようにキュウタを片手でうながした。
何も言わずに歩き出したツィウ丞相に怪訝そうな顔でついていくキュウタ。薄暗い庭園から、大きなロウソクが煌々と照らす通廊へと入り、ずんずんと自信あふれる足取りでツィウ丞相は進んでいく。
ところどころで遭遇する役人たちは通廊の脇に寄り、ツィウ丞相に深々と頭を下げる。彼らは当然ながら、丞相の後をついていくキュウタに不審そうな視線を向けていた。
やがて二人はとある背の高い扉を抜けてその部屋の中へと辿り着く。
黙って入り口を指差すツィウ丞相に従ってキュウタが扉を閉じる。
二人の他に誰もいない部屋は、三方を書棚が占める広々とした部屋だ。そして室内はおもちゃ箱をひっくり返したように、物であふれていた。
中央に据えられた大きな机の上には多くの書物や書簡が山と積まれ、床の上には素人目にも高価そうな工芸品や実用的な道具、果てはその用途すら定かでない小物が何の規則性もなく無造作に転がっている。
立ち尽くして戸惑うような視線をさまよわせるキュウタに、ツィウ丞相がふっと笑みをこぼす。
「元はリャオの国全体の知識を蓄える由緒正しい書庫であったのだが、今はただの物置代わりだな」
「はあ」
目をしばたかせたキュウタは、ふと部屋の片隅に昼間自分たちが持ち込んだ献上品のいくつかが並べられているのを見つけた。
ツィウ丞相がそこに歩み寄り、腕組みをして献上品の数々を眺め回した。
「しかし司祭殿の情熱には恐れ入るな。これだけの品を私財で調達するとは」
帝国貴族の男女が身につける衣装一式やら、西方諸国の美術様式を盛り込んだ木工家具、上流階級の娯楽として人気のある盤上遊戯の道具などなど。
司祭が献上品として選んだ物は必ずしも高価な品ばかりではなく、あくまでもフィロマという国の文化を象徴するものが多数を占めている。それは予算的な意味もあったのだが、何よりも司祭自身がフィロマとリャオの文化交流と相互理解を重視していることの証でもあった。
司祭がこの地でイリユヌスの教えを広めるべく続けてきた長年の努力を思うと、キュウタの口から自然と言葉が流れでた。
「信仰が人々に幸せを与える、という司祭の信念は、少なくとも善意と呼ぶべきものです。そしてその信念の強さと純粋さもまた本物でしょう」
小さくうなずき返すツィウ丞相。
「だろうな。邪な考えを持つ者が、異国で十八年もの労苦に耐えられるとも思わん」
ツィウ丞相がしげしげと机の上に広げられた数冊の本を見やる。
聖地フィロマ市を中心とした西方諸国周辺の詳細な地勢図や、各地の神話伝説の類をまとめた叙事詩集など硬軟様々な書籍が取り揃えられていた。
その内の一冊、フィロマ帝国軍が保有する『大砲』や『銃』の構造を図解した頁に目を落としたツィウ丞相が呆れ気味に首をひねる。
「それにしても。こんな知識を国の外に持ち出すことを帝国が黙認しているのが不思議でならんよ」
脇から書物をのぞき込んだキュウタが言う。
「帝国の少し栄えた都市なら、こういった書物は簡単に手に入ります。それに、武器に限った話ではありませんが、道具を実際に作り、取り扱うにはまた別の技術が要求されるものです」
「この程度の知識が他国に漏れたところで、フィロマ帝国の脅威にはなり得ない、という自信かな」
「どうでしょう。僕はただの一市民です。国の言葉を代弁する立場ではありません」
ツィウ丞相が、小賢しい奴め、というような微笑みでキュウタを見て続ける。
「ちらりと耳にしたのだが、君は『魔術士』だそうだな」
「はい」
「フィロマでは『魔法』を学問として扱っている、というのは事実かね?」
うなずくキュウタ。
「ええ。教会の主導のもとで、魔法の教育や研究が行なわれています」
「どういった魔法を創り出すか、その方針を教会が決めているという意味か?」
その時、ツィウ丞相の声の裏ににじんだものの正体。それを判断できぬままキュウタは頭を振る。
「いいえ。魔術士は誰に強いられることなく、それぞれの自由な意志と好奇心に従って魔法の真理を追究しています」
何かに感じ入ったのか、ツィウ丞相の唇がぎゅっと引き締められる。そして彼は、かたわらに置かれた木の椅子にゆっくりと腰を下ろし、長々と息をついた。まるで胸の内深くにたまった何かを押し出すような仕草だった。
軽くうつむいて黙り込んだままのツィウ丞相を、キュウタは不審そうに見やった。リャオ王朝の実質的な舵取り役とも言える権力を有するであろう丞相職。それほどの地位にある人物が、キュウタの目には途端に等身大の身近な存在へと変化したように思えたのだ。
静かな部屋の中、大机の上で燃えるロウソクの、ちりちりと燻る音だけが二人の間に漂っていた。
ツィウ丞相がすっと顔を上げる。瞳には、やり場のない寂寥さのような色があった。
「帝国には、リャオよりも良い『自由』があるようだな」
何かがキュウタの胸をちくりと刺す。少年は一瞬迷ってから言った。
「丞相閣下。時代や場所が変われば、『自由』という言葉の意味も変わります。率直に申し上げますが、リャオとフィロマの土地柄を比べて優劣を論じることに、僕個人はあまり意味を感じません」
「君のいまの言葉、それこそが自由の証なのだよ」
すっくと立ち上がったツィウ丞相が、机の上に片手を乗せてキュウタをちらりと眇めた。その立ち姿はすでに先ほどの威厳を取り戻していた。
「君も知っているかもしれんが、リャオでは魔法に対する関心があまり盛んではない。だが、似た物は存在する」
キュウタのいぶかしげな反応を確かめるように一呼吸おいてから、ツィウ丞相が続けた。
「『仙人』という言葉を聞いたことは?」
戸惑うようにまばたきをしたキュウタがゆっくりとうなずく。
「あります。空を飛び、気象を操り、人智を超えた力を神のごとく自在に操る者、と。古来から言い伝えられる『空想』上の存在、とか」
「いや、『実在』するのだ」
ツィウ丞相は、さらりと言い切った。あまりにもあっさりとした言いように、キュウタも軽くまごついてしまう。
唇を小さく開けたまま何を言うべきか考えこむキュウタ。
ツィウ丞相はそんな少年の姿を冷たく見つめながら、部屋の中をゆっくりと歩きはじめる。獲物を品定めする獣のような隙の無さで、その歩みの軌跡はキュウタを中心にして大きな弧を描いている。
抑揚の欠けた、それでいて強固な意志を持つ声がキュウタに向けられる。
「皇帝陛下が『仙術』の『奥義』に興味を抱いておられる」
キュウタの表情が、ぴくりと変わる。顎を引くように小さくうなずいたツィウ丞相が言葉を続けた。
「以前から、少なくない人員を投入し、仙人の『探索』にあたらせている。が、なかなか芳しい成果が出ない。それで、だな。色々と考えたのだが、我々には『別の視点』が必要に思えるのだ。リャオの慣習や常識に縛られない、自由な視点の持ち主が、な」
ツィウ丞相の問いかけるような眼差しとともに向けられた片手が、キュウタの眉間にかすかなしわを寄せさせる。
自分でも間抜けに思えるほど呆けた声がキュウタの口からこぼれ出る。
「ぼ、僕ですか?」
目を細めたツィウ丞相はどこか楽しげな表情だ。
「興味は無いかね? 『魔法』を操る者として、リャオの地に伝わる『仙術』に?」
わずかに肩を落としたキュウタが居心地の悪そうな顔になる。
「先ほども申し上げましたが、丞相閣下。僕らの……『魔術士』の使う魔法は、おとぎ話の仙人のような荒唐無稽な力ではありません。もっと地に足の着いた、れっきとした『学問』なのですが」
ツィウ丞相がぴたりと足を止める。キュウタを捉える視線には、強い光が満ちていた。
「無論、無償とは言わん。協力してくれるなら、十分な見返りも考えよう。それにだ……もし、満足できる結果が得られたならば、リャオにおけるイリユヌス教の『正式な布教許可』について、皇帝陛下のお考えも多少は好転するやもしれんぞ」
そしてどこか茶目っ気を感じさせる笑みがツィウ丞相の口元に浮かぶ。
まるで、相手がどう答えるのかすでに確信しているような笑みだ、とキュウタは思った。




