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おかゆ

 仕事ってなんだっけ?

 正二の心はそれ一色だった。

 もう何か月もその日のうちに家に帰れたことがない。それどころか、会社に1週間泊まり込みなどザラだった。

 前にいつ休暇を取ったのかすら覚えていない。少なくとも1か月以上前なはずだ。いや、2か月だったか・・・?

 あかん、もう日付の感覚すらない。正直、今日が何曜日で何月何日なのかすらおぼつかない。


「あれ・・・?」


 なぜか、悲しくもないのに涙が溢れてきた。

ふき取ってもふき取っても流れてくるそれは、まるで正二の心そのものが目を通して体外へ流れ出しているようだった。

 冷たいアスファルトに落ちては乾いてく涙。それは蒸発してゆく自分の心…。


 そんな意味不明な事を考えながら帰路を急ぐ。

 早く帰って休まなくてはならないのになぜか足が一向に前に進まない。いや、急いでいるつもりなのに足が上手く動かない。

 頼む、明日も早いんだ。久しぶりに机に突っ伏してではなくベッドで寝られるのだから、少しでも多く眠りたい・・・。目が霞む。ああ、駄目だ。もう意識が・・・・・・。


 その時、目の前が急に回転した。

 何だと思い、瞬きを3,4回繰り返す。すると、


「なんだ? 小料理屋??」


 木造の平屋建てが、進路を塞ぐように目の前に立っていた。


「こんなところに、こんなお店あったかな?」


 周りを見渡すといつもの通勤路だ。しかし、この道沿いの家々は空き家が多かったはず。こんなところに、いつの間にお店が出来ていたのだろう?


「やっているのか?」


 腕時計を見ると夜中の2時。だが、提灯には明かりが灯っている。

 暖簾には「志乃ちゃん料理店」と書かれている。


 入口の引き戸から零れる光が、何だかとても暖かい感じがして自然と手が伸びる。

 ガラガラガラと音を立てて開かれた中を覗くと、そこには4人掛けのテーブルが2つとカウンター席が5つ。客は…いない。


「いらっしゃいませー。」


 唐突に元気な声が店内に響く。声の聞こえたほうに向くと、どうみても小学校低学年にしか見えない黒髪おかっぱ三つ編みおさげの少女が割烹着を着て立っていた。


「志乃ちゃん料理店へようこそ。料理長兼店長の志乃です。どこでも好きなところに座ってくださいねー。」


 店長!? この少女が??

 唖然とする自分を尻目に、ニコニコ顔で会釈する志乃と名乗る少女。料理長と名乗ったからには、恐らく彼女が作るのだろう。

 正常な状態であったならば、こんな児童を働かせるのは労働基準法違反だと直ぐに気が付いただろう。しかし、極度の疲労で頭が回っていないこの時は、驚きつつも促されるままカウンター席に座っていた。


「今からお作りしますね。出来上がるまで、お冷を飲んでお待ち下さいませ。」


 そう言いながらお冷を注ぐと、彼女はスリッパのパタパタ音と共に厨房に入った。その様子をボーと眺めるしかない。

 料理が始まった。

 

 コトコトコト、クツクツクツ。

 トントントントン。

 カチャカチャカチャカチャ。


 お米が鍋の中で踊っている音。

 まな板の上で包丁に切られるネギ。

 ボウルの中で箸によってかき混ぜられる卵。


 それらの音が何故だか無性に心地よかった。考えてみれば何も考えずにボーッと出来る時間などここ数年なかった。

 目の前に広がる、年端もいかない少女が店主兼板前で実際に料理を作っているという本来なら異様な光景を何の疑いもなく受け入れている自分がいた。

 やがて漂ってくるお米のいい香り。お米のにおいがこんなに心落ち着くものだとは知らなかった。目一杯、肺に入れると肺の細胞が喜ぶのがわかった。その空気は一瞬で体全体に回り、全身の細胞にもうすぐまともな栄養が来ることを知らせた。

 それに反応したのか腹の虫が盛大に鳴る。どうやらこちらも準備を整えたようだ。


「お待たせいたしましたー。熱いうちに召し上がれ。」


 やがて運ばれてくる料理。それは卵粥だった。

 トロトロのお米に満遍なく絡む卵。その上には細かく刻まれたネギ。本来なら何の変哲もないはずの卵粥がキラキラ輝いている。

 器に触れると、手から届くその温もりに脳が覚醒した。


「い、いただきます。」


 手を合わせ、匙で掬って口に運ぶ。瞬間、お米とそれに絡む卵が舌の上で溶け合い絶妙な調和を醸し出す。香りは一層強くなり、口内から喉越しに鼻に抜けて脳に到達する。優しい香りに脳全体が包まれて、重い何かが押し出されていった。

 十分に煮込まれ、嚙まなくても呑み込めるそれは、弱っていた正二の胃でも一瞬で溶かせる代物だった。即座に腸に運ばれると、腸は栄養を瞬時に吸収して全身へと運ぶ。一口食べただけで体が熱を帯びるのがわかった。


「…うまい。」


 その一言しか出なかった。後は夢中だった。食事で味を感じる事すら久しぶりだった。

 食べ進むうちに涙が溢れてきた。ボロボロ溢れるそれを流れるに任せて拭う事なく流し続ける。その涙は明らかに、先ほど流した涙とは異なっていた。


「ご馳走様でした。」




 気が付いたら家のベッドにいた。どれくらい寝ていたのかわからない。慌ててスマホを見ると、着信が数十件。LINEには怒りのメッセージが無数に並んでいた。どうやら丸一日以上経っているようだった。

 だが、不思議と落ち着いていた。それよりも、昨日のあの不思議な料理店の事が気になった。あれは一体何だったのだろう?

 器が空になった後、匙をおいて手を合わせたことまでは覚えている。けれどもその後の事が思い出せない。そもそもいつの間に家に着いたのだろう?

 考えても仕方がないので皺くちゃになっているスーツから私服に着替えて外に出る。例の通りまで行くと、そこはいつもの空き家だらけの道だった。


 それを不思議には思わなかった。あの料理店はそういうものなのだと心が納得している。

思い返してみると、あのお店に入った時に自分は注文行為をしていない。メニュー表すら見ていなかった。にもかかわらず、今の自分に必要な最適な料理が出てきた。

 きっと、あの料理店は自分のように追い詰められている人の前にだけ現れる、実体を持った幻のようなものなのかもしれない。


 実際、ここにきて思い出したことがあった。

 会計を済ませようと財布を出した自分に、志乃と名乗る彼女はこう告げたのだ。


「お代は既に頂きました。どうかご自身の体を大切にしてください。労わってあげてください。健康はお金よりも代えがたい財産なのです。幾らお金を積んでも、それは返ってこない事もあるのですから。」


 こちらが支払ったお代が何なのかは分からなかったが、少なくとも財布の中身は減っていないようだ。もしかしたら満ち足りた心そのものがお代なのかもしれない。

 分からない事だらけだが、一つ確かなことはこの料理店と志乃と名乗る少女に救われたということだ。

 今の会社を辞めて、給料が下がろうと余裕のある生活に立ち返ろう。そうと決めたら善は急げだ。今の会社には辞めるメールを入れて、その足でハローワークに向かおう。正式な退職手続きはおいおいやればいい。


 その前に、「志乃ちゃん料理店」があったであろう場所に向かって一礼する。

恐らく、二度とこの料理店は自分の前には現れないだろう。なぜかそう確信した。それでいいとも思った。

 ここではないどこかで、自分のように追い詰められた誰かを救っている。そんな気がするし、自分もそんな存在になりたいと思う。決意を胸に、正二は歩き出した。




 志乃ちゃん料理店。それはその人に今必要なご飯を提供する不思議な料理店。もしかしたら、次はあなたの前に現れるかもしれません。


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