小さな姫君の反乱
クロディーヌはパルディアン王国の第二王女であり、四人兄妹の末っ子であった。王太子である一番上の兄レオンハルト、帝国に嫁いだ姉アマンディーヌ、大公家を継ぐ予定の下の兄ジークハルト、そしてクロディーヌの順だ。
パルディアン国王である父は、側妃を持たない王だった。王妃である母を愛し、四人の子、特に末っ子であるクロディーヌを溺愛する父は、父親としては素晴らしい人である。
ただ、国王としてはいささか頼りなく、情に流されるところがあった。たまたま王妃オンディーヌの実家が公爵家であったから後ろ盾は十分だったのと、順調に男女に恵まれたから、情の篤さは美点として見られていただけだ。
国王の美点が欠点にもなりえることがわかったのは、第一王女であるアマンディーヌが帝国の皇太子妃として嫁いだ後のこと。縁戚だからと、隣国ドゥルダンを攻める助力を頼まれたのがきっかけだった。
パルディアンと隣国ドゥルダンは同盟国であったのにも関わらず、パルディアン王ケストリーは帝国の圧に屈して同盟国へ兵を向けたのだ。嫁ぎ先での第一王女の身は守られたが、圧に屈して同盟国へ攻め入ったことで、パルディアンは「裏切者」「帝国の狗」とひそかに言われるようになったのである。
ただ、その判断によって戦勝国となったのは間違いなく、パルディアンは帝国によって分断されたドゥルダンの一部を新たに領地として得た。豊かな土地ではないが、広さはそこそこあるそこは、今回の出兵で一番戦果を挙げていたチェスター・トーラス将軍に与えられた。
伯爵家の五男であったチェスターは、自身が持つ騎士爵に加えて、新しく辺境伯の地位と、戦火で荒れた領地と──末の王女を授けられた。
辺境伯チェスター・トーラスがクロディーヌの降嫁先となったのは、社交界にちょっとした驚きをもたらした。末娘を溺愛していた国王は彼女は嫁には出さないと思われていたのだ。だが、末娘の幸せを願った王妃や兄たちの希望で、クロディーヌ王女はチェスターの下に嫁いだ。
物語は、このクロディーヌの結婚から始まる。
◇
クロディーヌは、家族に溺愛されて育ったものの、王妃によってきっちり教育がなされたのもあり、しっかりとした一人前の淑女だった。齢十五にして王女としての義務を理解し、倍の年齢であるチェスター・トーラス将軍の下に嫁ぐ際も笑みを絶やさなかった。輝くばかりのその笑顔は、誰がどう見ても作り物ではなく、心からの笑みだった。
──なぜなら、彼女はかの将軍のひそかなファンだったのである。
(あの! 憧れの将軍の奥様に! わたくしが!)
黒髪に冷たい灰青色の双眸。自らの力で将軍まで上り詰めただけあり上背もあって筋骨たくましい彼は、刻まれた眉間の皺や太い眉、かつ目立つ傷のあるその強面もあって、「パルディアンの狼将軍」とも呼ばれてきた。
彼は騎士たちからは慕われていたが、威圧感のある雰囲気もあってか、令嬢たちからは遠巻きにされていた。ドゥルダンとの戦がなければ彼が結婚することもなかったとは、彼をよく知る部下たちの談だ。
だが、クロディーヌにとってはそこがよかった。兄たちの剣の手ほどきをしていたヒューバート・リモーネ将軍の手伝いで、幼い頃から王家の兄弟と親しかったのもあるかもしれない。姉アマンディーヌは寄り付かなかったが、クロディーヌはよく兄と若き日のチェスター・トーラスの稽古を眺めに行っていた。その場で、幼いクロディーヌの心は決まってしまったのだ。たくましくて、頼りがいがあって、親切で、優しくて、かっこよくて、笑顔がちょっと可愛い、憧れの人。
実は末の妹のかわいらしい初恋に気づいていた兄たちは、いつか彼女の結婚問題が浮上した時にはその相手に兄弟子たるチェスターを推そうと決めていた。当のチェスターが嫌がっているようならばまた話は違ったが、彼は幼い姫君の相手を嫌がらずにしていたし、またクロディーヌが来ない日は少し寂しそうにしていたから、王子たちは将来彼らの気持ちが変わらないようであれば、女っ気のない武骨な兄弟子と、かわいい妹姫の縁談をまとめようと話していた。
この時点では単なる騎士でしかなかったチェスターは、王女を娶るには地位が足りなさすぎたが、王子たちの教育に携わった時点で次期将軍まで上り詰めるだろうことは予想されていたため、兄たちはそのままこっそり様子を窺っていたのだ。
だが、兄弟子の昇進を願っていた彼らにとっても、姉妹であるアマンディーヌの嫁ぎ先から始まった戦は、予想だにしなかった事柄であったし、また喜ばしいものでもなかった。彼らの師ヒューバートはドゥルダンとの戦で二度と剣を握れない身体になったし、見知った騎士たちや子息たちの何人かはその命を落としたからだ。王太子であるレオンハルト王子も戦線に出たが、彼が生きて帰ってこれたのは、ひとえに師の後を継いで将軍となった兄弟子の奮闘があったからにすぎない。
次期国王の命を救い、戦勝国へ押し上げた若き将軍は、そんな事情でパルディアンの宝石ともいわれる末の姫君と結婚したのだった。
◇
(おかしいわ)
クロディーヌは寝台の上でその愛らしい顔をしかめていた。
戦禍の重苦しい空気を吹き飛ばすように、豪華とはいえなかったが、第二王女と将軍の結婚は国を挙げて行われた。王都で行われた結婚式の後、クロディーヌは夫となったチェスターと共に領地である辺境伯領へ向かうつもりだったのだが、いまだ落ち着かない土地に王女を連れて行ってなにかあっては危ないとの判断により、彼女はまだ王城に残されていた。結婚して、正式に辺境伯夫人となったのに、だ。しかも夫であるチェスターは、辺境伯家に異動した部下たちと共に、式が終わるやいなや、国境である彼の領地へ向かってしまったのに。
理屈はわかる。パルディアン領となったものの、その領民は元ドゥルダン国民。同盟国の裏切りの上に奪われた土地が荒れないわけがない。しかもドゥルダン王国はその戦で滅亡したのだ。辺境伯領が危ないのはクロディーヌでもわかる。
だが、初夜も済ませず、式の直後から領地へ向かう必要はないのではないかと思うのだ。しかも、その後は手紙や贈り物だけが寄せられるだけで、本人との対面は皆無。クロディーヌは王城でこれまでと変わらぬ生活を送っている。これではチェスターを辺境伯に据えるためだけの白い結婚だ。理屈や目論見はわかるのだが、クロディーヌの感情は現状を受け入れられなかった。
(わたくし、チェスター様に嫌われているのかしら。十五も年下で、デビュタントを終えたばかりの小娘は、将軍閣下の奥様にはふさわしくない?)
ちょっと泣きそうだ。年齢差もあるし、円熟した大人であるチェスターにとって、十五のクロディーヌは子どもにしか見えないのかもしれない。実際、結婚式の誓いのキスも、唇ではなく額だったし。
(でも──でもよ? わたくしは、正式な妻だもの。身分だってもう王女ではなく、辺境伯夫人。そんなわたくしが王城にいるままだなんて、領民や部下の方たちに失礼ではないかしら。チェスター様もお父様も危ないから王城にいるようにと言っていたけれど、それは本当に正しいことかしら?)
幼いながらも、クロディーヌは王女としての義務について理解していた。豪華な生活を送る代わりに、国のために生きる。それが王族というものだし、土地持ちの貴族は領地と領民を守るのが義務だ。今の彼女はそのどちらもできていない。
(そんな恥ずかしいことできないし、そんなダメな妻ではチェスター様に顔向けできないわ)
そう思った彼女は、サイドテーブルのベルを鳴らして侍女を呼んだ。
「お兄様へお目通りできるかしら?」
辺境伯夫人として領地に行き、夫を支える。彼女はそう決意して動き始めた。
◇
クロディーヌの兄たちは、母親である王妃オンディーヌによって、国のために生きる覚悟を植え付けられていた。流されやすい父親と違って国のために決断できる胆力はあるが、けれどもまた、彼らも家族に弱いという父親の特性を持っていた。
妹から辺境伯領へ行きたいから力を貸してほしいと願われた際、やはりかわいい妹が危険な目に遭うのは耐えられなかった兄王子たちは、それを一度却下した。だが、クロディーヌは彼らの理性に訴えた。国のためにならない。亡国の民の心を慰めるには、王女である自分が領地で苦労することが必要だという訴えは、最終的に受け入れられた。歴戦の勇士であるチェスターが側にいるということも大きかったが、父王のようになりたくなかった王太子レオンハルトが腹を決めたのだ。信頼を裏切った国という誹りをぬぐうためにも、尊き身である王女が亡国の地で民のために労力するというアピールは必要だった。
母である王妃と、兄たちの力を借りて、クロディーヌは幾人かの侍女や護衛を連れて、辺境伯領となったライオスの地に足を踏み入れた。
その報告を受けたチェスターは驚いた。開戦の報を聞いた時より驚いたかもしれない。見た目には表れないが──チェスターはあまり表情が動く性質ではない──、ものすごく驚いたのだ。
なぜならば、彼とクロディーヌ王女の結婚は、白い結婚であることが決められていたからだ。
新領地であるライオスが不穏なため王女は王城で預かっているという建前で、チェスターだけがライオスの地でドゥルダンの残党の殲滅と慰撫に励むというのが王との約定束だった。溺愛する王女を手放したくない王と、ずっとその成長を見てきた王女が安寧であることを望んだチェスターが決めたものだ。
そう、チェスターにとっても、それは願ってもないことだった。愛らしいかの王女が、平穏無事で幸せに暮らすことが、彼の願いだった。令嬢に嫌われがちな自分の妻になるものの、実際に妻になることはないと聞いて、落胆と共に安心したことを覚えている。あの愛らしい笑顔が曇ることがないことは、彼にとっての救いだった。彼女や、自分を慕ってくれている兄王子たちのために、彼は剣を握ったのだ。
ざわざわと荒れる胸の内を表すことなく、チェスターはクロディーヌの元へと急いだ。チェスターに王女来訪を告げた彼の腹心の部下であるカミルがその後を追う。
「チェスター様!」
気が急きすぎて埃まみれの服装のまま応接間に駆け込んだチェスターを迎えたのは、彼が守りたかったその笑顔だった。幼い頃から変わらない、こちらを信頼しきったような笑顔は、疲れたチェスターの胸に刺さった。
「王女殿下、なぜここに……」
「旦那様のいらっしゃるところが、わたくしの居場所だわ。違って?」
彼や国王の思惑も知らず、王女はにっこりと笑った。陽光を紡いだような金の髪が、本当に光っているように見えたチェスターは、少し疲れていたのかもしれない。
にこにこと笑みを浮かべる天使を納得させるため、チェスターは軽くこぶしを握った。
「ライオスはまだ危ないのです」
「もう三ヶ月待ったわ? 辺境伯夫人であるわたくしがこの地に向かわない理由がないもの」
「国王陛下は王女殿下がライオスにいらっしゃることをご存じで?」
チェスターの質問に、クロディーヌは無言でほほ笑んだ。確実に無断で来ているのがわかったチェスターは、背後に控えるカミルに手を振る。
「王城へお送りするように」
「待って!」
実際はクロディーヌを心配しているだけなのだが、はた目には冷酷に聞こえるチェスターの指示に、クロディーヌは思わず立ち上がった。
「危ないのはわかっています。わたくしがいることで、護衛の手間が増えることも。でも、もうわたくしは王女ではなく辺境伯夫人なの。夫を支え、領民を支えることがわたくしのつとめです。守られるだけの立場ではなく、わたくしは今、守る側の人間なのよ。こう見えて魔法は得意なほうです。チェスター様やお兄様たちのように剣は持てないけれど、防御魔法も攻撃魔法もきちんと人並み以上に修めてきました。チェスター様のご負担にはならないようにいたします。どうか、わたくしも力にならせてください!」
「ですが、それでは国王陛下へ顔向けできません」
我ながらずるい言い訳だと、チェスターは内心思った。クロディーヌの言い分はもっともだったし、本来ならば国を挙げて嫁いだクロディーヌがライオスの地に来ないことは領民や他国への心象としては致命的だったからだ。「帝国に加担して一度信頼は損なったけれど、分かたれたその地は必ず守る」という姿を国が見せるだけで、ドゥルダンの民の心情は違うのだ。
「お父様はお母様とお兄様が抑えてくれています」
「は?」
しかし、若き王女は彼の想像のはるか上を飛び越えてきた。
「お姉様を守ってくださったのは嬉しいけれど、お父様は判断を誤ったと思うの。チェスター様たちが頑張ってくださったから我が国は勝利国となれたけれど、だいぶ危なかったと聞いたわ。お姉様のように守られるまま他者に苦労を強いるのは嫌です。そもそも、お姉様だって自分を人質に使われたのは嫌だったそうよ。お姉様も怒ってらっしゃるの。お手紙には、もうこんなことは起こさせないと記されていたわ」
クロディーヌたちと同じように育てられてきただけあって、帝国妃となったアマンディーヌも、おっとりとした見かけによらず、一度覚悟を決めるととことんまでやる性格だった。彼女は最後まで戦に反対していたが、それが叶えられず開戦してしまったことで、義家族を調教することに決めたらしい。戦時中に根回しを行い、戦が終わった今、裏からも表からも義父である皇帝を篭絡して自らに従わせている最中だと、暗号化された手紙にはあった。なお、夫である皇太子はすでに陥落し、彼女のために率先して動くようになったという。
「王女殿下……」
「それ! わたくし、もう王籍離脱していますわ。敬称はやめてくださる? わたくしは、あなたに守られたいのではなくて、肩を並べて戦いたいの。肩を、背中を貸して守りあいたいの。まだ頼りないけれど、わたくしそのための力を研鑽してきました。子どもすぎて妻と見れないのは仕方ないけれど、せめて同志として受け入れてほしいの」
泣きそうな顔で訴えるクロディーヌに、チェスターは言葉を失った。幼いとばかり思っていた小さな王女は、いつのまにか彼の知らないところで大人になっていたようだ。凛としたその可憐な容貌は、幼い頃の面影を残しながら、どこか見知らぬ令嬢のようだった。
「元王女が割譲された新しい領地のために尽力するのはおかしいことですか? わたくしはそうは思いませんし、お兄様たちも同じ気持ちです。お父様には何も言わせないように手は打ってきました。お願いです、城へ戻れとはおっしゃらないで」
強い言葉を発したが、クロディーヌは怖かった。大好きな憧れの人に拒絶されるのは、とても怖い。自分の肩書のみが必要だったと言われたらどうしよう。握りしめた手も、ドレスの下の膝も、みっともなく震えている。五つの頃に出会ってから十年間、ずっと彼に恋してきたのだ。政略でいいから受け入れてほしい。ばくばくとうるさい心臓をなだめつつ、クロディーヌはただただチェスターを見つめ続けた。
王女としての矜持とか、義務とか、いろんな言葉で飾ったけれど、その根のところにあるのは、ただ好きな人の側で一緒の方向を見ていたいという恋心だった。チェスターが好きだからこそ、側にいたいし手伝いたい。
「これ以上、お城で待つのは嫌です。わたくしはあなたの妻になりたいと望んで、嫁いだんです。どうか、お願いします……」
とうとう俯いてしまったクロディーヌの向こうで、彼女が連れてきた侍女や護衛たちが冷たい目をチェスターに向けているのが見えた。小さいと、守るべき人だと思っていた王女は、本当にいつの間にか色々な人を動かして辺境まで駆ける力を手に入れていたらしい。
(もう……いいかな)
チェスターは小さく息を吐いた。王女から心を寄せられていたことに気づかなかったわけではない。小さかった王女が懐いてくれたのが嬉しかったチェスターは、その心がゆるやかに変わっていく様をただ見ていたわけではない。最初は畏れ多くも妹ができたようで嬉しかった。真摯に慕われるのが心地よかった。人に避けられがちな怖い容貌の自分を見てくれるのが慕わしかった。クロディーヌの気持ちを知りながら、それでも黙って側に控え続けていたのは、チェスターの方にも理由があったからだ。
伯爵家の生まれと言えど、五男となると継ぐ爵位もなく、ただその持てる力全部で上を目指すしかなかった。そんな自分が輝かしい彼女の行く末を阻むわけはいかないし、なにより年齢も血筋もなにもかもが見合わない。わかってはいたのだ。嬉しいからと、その手を取る資格が、自分にはない。彼女にはもっとふさわしい道がある。
だけど。だけれど。
ここまで言わせて、拒絶するのは、男として受け入れられない。
建前がどうだというのだ。冷静な大人のチェスターは、年齢を考えろ、辺境伯夫人は安全な場所にいるだけでいいと言えばいいと訴えているが、芯の部分にいるチェスターが納得してくれない。こんなに、まっすぐな気持ちを向けてくれる女性に、嘘なんて言えないとチェスターの心が訴えている。
王には何も言わせないと王女は言う。王子や王妃が抑えてくれると。やっかいな帝国の手綱は姉が取ると。であれば、自分がそれに力添えしない理由などないではないか。
だって、彼女は、自分の妻だ。手を伸ばして何が悪いというのだ。大事にするならば、その心まで守らないでどうするというのだ。泣きそうな面持ちで、それでも自分に側にいるための理由をくれる妻を、建前を大事にして追い返すなんてことは、できるわけがない。
だって、チェスターだって、いつの間にか、こんなにも。
倍の年齢の自分に嫁すのが嫌ではないと言うのなら。
危険な地であるライオスで共に暮らすのが嫌ではないというのなら。
「──クロディーヌ様」
「様はいりません」
「では、私のこともチェスターと」
覚悟を決めて、チェスターはクロディーヌを見つめた。びっくりしたように見開いた空色の瞳に涙が浮かんでいるのを見て、たまらない気持ちになる。濡れたまつ毛の雫を払うのは、自分でありたいと願う。
「あなたに一歩を踏み出させてしまって申し訳ない。必ず私がお守りします。だから、隣にいてください。クロディーヌ、あなたに側にいてほしいのです」
そう言って手を差し伸べると、彼の妻は見たことがないほど真っ赤になって、胸の前で握り合わせていた両手で慌てて顔を隠した。髪の毛から覗く耳まで赤い。
長年見てきた相手だったが、クロディーヌのそんな反応は初めてで、チェスターは愉快な気持ちになった。
「クロディーヌ、返事をいただけますか?」
「そんなの……やだ、反則だわ。予測にないもの。え、やだ、夢かしら」
可愛らしく混乱を隠さない妻に、チェスターは一歩近寄るとその手に触れた。顔を覆う手をそっと下ろさせると、ちらりと上目遣いでクロディーヌがこちらを見てくる。
「えっと、ええと……本当にいいのかしら。ねぇチェスター様、本当によろしいの? チェスター様がよろしいなら、わたくし、帰りませんわよ? ええ、帰りませんとも。だって、わたくし、妻だもの」
真実妻になるために辺境までやってきたのだろうに、クロディーヌは戸惑っているようだった。しかし、戸惑いつつも、現実を噛み締めようにして飲み込んでゆく。
心臓がぎゅっとするような心地のまま、チェスターはそっとクロディーヌの手を離すと、その華奢な身体を包み込んだ。男としても上背のあるチェスターの腕の中にいると、クロディーヌの小ささが際立つ。簡単に包み込めてしまうほど小さいのに、その内側にある胆力は年齢や身分に囚われていたチェスターよりよっぽど大きかった。どんなに強くなろうとも、彼女には勝てそうもない。そう思うと笑いがこみあげてくる。彼女の強さは魔法の力や権力ではなく、その行動力や気持ちにあるのだろう。
「そうだ、あなたは私の妻だ。私は、あなたにこそここにいて欲しい」
クロディーヌに刻みつけるように、チェスターは告げる。自由に幸せに過ごせるように距離を置いていたのに、そんな思惑など軽々と飛び越えてやってきた姫君。
もう、手放してはあげられない。
「チェスター様がいらないとおっしゃっても、離れてあげませんからね?」
「そんな日は永遠に来ませんね。神の手にすら委ねる気はない」
チェスターの言葉に、腕の中でクロディーヌはとろけるような笑みを浮かべた。チェスターもまた、そんな彼女を見てさらに頬を緩める。
初々しい夫婦のやり取りに、クロディーヌの侍女や護衛たちはこっそり胸を撫で下ろし、チェスターの背後でこれまた無言を保ったまま成り行きを見守っていたカミルもこらえきれず笑みを湛えたのだが、彼らの様子はクロディーヌたちの目には入っていないようだった。
◇
そんなこんなで、当初白い結婚かと思われたクロディーヌの結婚だったが、母や兄たちのサポートと本人たちの歩み寄りによって、仲睦まじい夫婦となることができた。
王命として末娘を手元に置いておこうと画策した国王は、妻と息子たちから心底叱られ、ようやくその手を離したのだが、同時に心が折れたのか、自分は王に向いていないと早々に優秀な長男へ譲位することを決めたと言う。現在、王妃を旗頭に急いで即位式の準備が行われているそうだ。
戦好きな帝国の皇帝は、皇太子夫妻に王子が生まれたのをきっかけに、領地を広げるほうではなく、孫が健やかに過ごせる環境を整えることに執心していると、皇太子妃の手紙には記されていた。息子夫婦の提案を実現するために、日夜尽力しているらしい。
「おはようございます、チェスター様! 今日も良い朝ですね!」
「やあクロディーヌ、今日もあなたが健やかで嬉しい。あなたの笑顔が私の活力だ。さて、今日は予定通りクェド地区の祭事に行けそうか?」
パルディアンの狼と呼ばれた将軍は、幼な妻を溺愛しつつも領地を富ませるために奔走していたし、王女であった夫人もまた、自ら領地を回って困っている人たちに手を差し伸べた。
「もちろんです! といいたいところなんですけど。ちょっとお医者様を呼ぶ予定なのでお待ちくださいね」
「え」
「今は体調はいいんですけどね。うん……多分間違いないってお子さんがいる方たちは言うんですけど、わたくしも初めてのことですし、今後のことも含めてお医者様の意見を仰ごうかと思っています」
「待って、クロディーヌ……ちょっと待ってほしい」
「すでに手配済みなので、お医者様は昼までにはいらっしゃると思うんですけど……。お祭りは夕方からでしたよね? それまでにどうするかご相談させていただきますね!」
夫婦の関係性は変わったものの、クロディーヌの奇襲にチェスターが狼狽する構図は変わらないのだろうか。この調子では、さらに関係性が変わりそうだ。もちろん、またいい方向へ。
まだ平らな腹部に手を当てて微笑む妻に、チェスターは声を上げて笑った。
今日も辺境ライオスでは、辺境伯夫妻の甘やかなやりとりを、彼らの周りの人間はほほえましく見守っている。
皆様、よいクリスマスを!
リハビリとして毎週短編を投稿していましたが、ちょっとこれから忙しくなるため、年内の投稿はこちらで最後です。お付き合いくださりありがとうございました。
また来年にお会いしましょう!
ということで、皆様よいお年をお迎えくださいませ。




