【第23話】終焉の魔女
ニンゲンは、百年にも満たぬ短い人生の中で、愛を知ることができる。
限られた時間の中で、愛を育むことができ、子を産むことができる。
精霊族ですら、愛を育むことができ。
ニンゲンよりも長い時間を掛けて、子を産むこともできる。
でも、呪われた種族として産まれ墜ちた闇精霊族だけは……。
永久にも近い人生の中で、愛を知ることすら許されない。
この大陸に百いる闇精霊族の中には、愛を知れぬ人生を嘆き、悲しみ。
苦しみ悶えた果てに狂い、壊れてしまった者もいたと聞いたけど……。
精霊族よりも、魔術に長けた知識を有しながらも。
恵まれた才能と、千年の時を生きる不死に近い生命力をもってしも。
自分に触れる者を殺す、忌まわしき呪いからは、決して逃れることはできない。
それが、私の運命だと思っていた。
同族に見捨てられた私を、育ててくれた彼女の言葉が、私の全てだった。
私を拒絶した世界を壊すことが、私の人生だと本気で思っていた。
トウマと契約を交わした、あの日までは……。
「もう少し、静かにしてくれないかしら? 鼻息がうるさくて、気が散ってしょうがないのよ……。もしかしたら今日で、私はいなくなってしまうかもしれないのに。思い出くらい、静かに浸らしてくれないのかしら?」
犬と呼ぶには大き過ぎる、黒い巨体から生えた犬頭の一つが、不機嫌そうな顔でこちらを睨みつけた。
第一紋の魔獣である双頭火犬の三倍は、あるだろうか?
唸り声を漏らした犬頭に釣られて、他の犬頭が二つ、奥から顔を覗かせた。
鼻先に深い皺を寄せた犬頭に、――強い怒りの感情を示す――真っ赤な魔紋を刻み、獰猛な三つの顔が私を威嚇してくる。
赤い火の粉が混じった、火傷する熱さの息吹を、牙の隙間から吐き出して……。
「なによ、その顔は……。頭が多いくらいで、空も飛べないくせに。地を這う犬が、私に勝てるとでも思ってるの?」
「落ち着きなさい、エリス」
殺気立った私達の間に割り込むように、女性の声が聞こえる。
――近くの森に住む精霊族の影響だろうか――この辺りで最も魔力が高い精霊泉の前で、静かに瞑想をしていた女性が口を開いた。
魔術を展開するための作業を中断し、こちらに背を向けていた魔女が、顔を覆うフードに手を伸ばした。
剥がれたフードの中から、切れ長で目つきの悪い、褐色肌の女性が顔を出す。
終焉の魔女とも呼ばれる、長い銀髪を伸ばしたエキドナが、私の方へ銀色の瞳を向けた。
「どうしたの、エリス? うちの子と、急に喧嘩して……。未知の魔法に触れる機会に、気が昂るのも分かるけど」
普段から寝る間も惜しんで、魔術の研究に勤しんでいるためか。
彼女の目の周りを濃厚な黒いクマが、アイシャドウのように囲んでいる。
呪印を刻んだ精霊石の先端を地面に挿しこむと、靴底で踏みつけて深く沈めた。
「もう少し、時間が掛かりそうね……。一息、つこうかしら?」
集中する為に、気を張っていた肩を落としたエキドナが、私の前まで歩み寄って来る。
第三紋の魔獣である三頭獄炎犬の犬頭に手を伸ばし、彼らを宥めるようにエキドナが撫でる仕草をした。
「エリスって、ウチの子達と仲良くはなかったけど……。悪くもなかったはずよね?」
「……そうだったかしら? 覚えてないわね」
問い掛けるような視線から目を逸らし、改めて精霊泉を観察した。
複雑な術式が込められた精霊石が、一部の空白地帯を残して精霊泉を囲うように、地面へ無数に埋め込まれている。
あの残り少ない空白部分を埋めたら、完成なのよね……。
夜通し掛けて準備するような、これほど大掛かりな魔術を、エキドナがするのは初めてだ。
それほどまでに、これからやろうとする魔術は、難易度の高いモノなのだろうか?
千年の時を生き、この世に知らない魔法は無いと言い切る魔女が……。
闇に属する召喚魔法で、わざわざ第三紋の大型魔獣を呼び出し、誰かに邪魔をされないよう周囲を見張らせるほどに。
「ねえ、エリス。さっきから、気になってたのだけど……。その手に持ってるボロ布は、ナニかしら?」
背筋がゾクリとするような、冷たい視線が私の手元に突き刺さる。
やっぱり聞かれるわよね……。
その時が、ついにきてしまったと、諦め混じりの溜め息を吐いた。
「私の記憶違いじゃなければ。それはニンゲンの男から、渡されたモノよね? どうしてそんなに、大切そうに握り締めてるの?」
トウマ達とのやり取りを、上空からしっかり見ていた魔女から、再び問われる。
ボロ布で隠していた震える手で、トウマの名が刺繍された布を、強く握り締めた。
お願い、トウマ……。
非力な私に……。
――伝説の魔女と戦う、勇気をちょうだい。
「エキドナ……。あなたに大切なことを一つ。伝えるのを忘れてたわ」
「大切なこと? ……なんの話かしら?」
深呼吸を繰り返すと、彼の名が刺繍された布を、両手で挟むように上下で重ねる。
マナを流し込みながら、私を静かに見つめるエキドナに、視線を合わせた。
「私はあなたと、一つになれないわ……。ごめんなさい、エキドナ」
王都で会う約束を、今日まで延ばし続けた理由を、私は終焉の魔女へ告げる。
眠たげに半目を閉じていた、エキドナの瞼が――。
「……はぁあ?」
怒気を含んだ高い声色と同時に、眼球が飛び出るほどに見開いた。
「徹夜の作業で、疲れてるのかしらね……。ちょっと、耳が遠くなったみたい」
エキドナの足下まで覆い隠していたローブの布が捲れ、太く長いソレが顔を出した。
気味の悪い黒光りをした、漆黒の鱗に覆われたソレが、地面を這いずりながら私の足元を横切る。
「もう一度、聞くわよ。エリス……。その子に噛み千切られたくなければ、よく考えて答えなさい……」
私の背後に回ったソレが、「シュー、シュー」と蛇のような威嚇音を漏らしながら、私の耳元に息を吐く。
語り口調は、冷静を装うエキドナだが……。
ローブに覆われた下半身が、膨らんだり縮んだりを繰り返し、無数のナニかが興奮を抑えきれないように、絶えず蠢いていた。
「ここに私が来た目的を忘れたの、エリス? あなたは、私との約束を」
「破るわね。でも、それは口約束でしょ? 私はね、エキドナ。トウマと血の契約を交わしたの……。だから、あなたと一つになることは、できな――」
私の言葉を遮るように、捲れ上がったローブの中から、無数の黒い触手が飛び出す。
近くにあった一本の樹木に、黒い触手が巻きつき、根を張った地面を盛り上がらせた。
ニンゲンが絶対に不可能な膂力で、樹木を力任せに引き抜く。
数メートルはある樹木が横に傾き、蛇のように絡みついた黒い触手が、亀裂が入るほどに締め付け――。
私の目の前で、樹が雑巾のように絞られ、大木をねじ切ろうとする異音と共に。
紙を引き裂くような感覚で、真っ二つに大木を引きちぎった……。
「口の聞き方には、気を付けなさいと教えたはずよね、エリス。あなたは、私に生かされてるだけなのよ?」
パラパラと木片が地面に落ち、ねじ切られた樹木の下を通りながら、エキドナが私の前まで歩み寄って来た。
肩に触れた細かい木くずを、魔女が手で払いのける。
「あなたの器が、私の目的に必要じゃなければ、すでにあなたは死んでるのよ? ……ねえ、エリス。ニンゲンと血の契約を交わしたって、本当なの?」
「本当よ……。この手に浮かんでる魔紋は、私のじゃないわよ」
私が不得意な内血系魔法の発動を示す、青白い魔紋が右手の甲に浮かんでるのを、エキドナに見せつける。
ニンゲンのマナが、私の体内に流れてる証拠が、よっぽど憎いみたいね。
――皮膚に爪先が食い込む程に――顔を手で押さえ、指先の間から覗く銀色の眼が、トウマと同じ形の魔紋を睨みつけた。
「本当に……馬鹿な子ね」
顔を覆っていた手が離れると、爪先が抜かれた皮膚から血を流す、激怒に染まったエキドナの顔が現れる。
怒りの感情を抑えきれないのか、黒いクマだったはずの目元には、黒光りする蛇の鱗が浮き上がっていた。
「地を這う虫なんかと、交わるなんて……。汚らわしいどころか、吐き気がするわね」
その言葉が本心だと分かるくらいに、汚物を見下したエキドナの目を、私はじっと見つめ返す。
……不思議ね。
死が近づいてるのは分かってるのに、気持ちはすごく落ち着いている。
手の中にある温もりを感じながら、そんなことを暢気に考えてしまう。
「でも、残念だったわね、エリス……。血の契約ごときで、私は止められない。その程度の絆は、私でも呑み込めるわよ」
異種族と交わす血の契約は、エキドナから教わったものだ。
だから、トウマと私の間にできた絆は、これからエキドナがしようする魔術で、簡単に引き裂ける。
そう言いたいのかしら?
「でも……。私の大切な器を、虫如きに汚された怒りは。一飲みじゃあ、気が済まないわね……。そのニンゲンは後で捕まえて、齧り殺してあげましょう。そうよ、それが良いわね」
楽し気に語り始めたエキドナの言葉が耳に入り、胸に針が刺さったような、チクチクとした痛みが走り続ける。
私の心が、怒りで冷えていくのが分かる……。
「まずは柔らかいニンゲンの手足に、口蛇達の牙を突き挿し、ジワジワと石にしてあげたらどうかしら? 虫の足を千切り取るみたいに、生きたまま手足を喰い千切り。なるべく時間を掛けて、少しずつ貪ってあげたら、面白そうよね? 息絶える最後の瞬間は、あなたの顔で覗き込んでやりましょう。信じていた者に食い殺されながら、絶望に染まる顔を眺めるのは、きっと楽しいでしょうね……。アヒャヒャヒャ!」
エキドナの肩口から、盲目の口蛇達が顔を覗かせ、嘲笑う彼女に合わせるように、黒い触手を小刻みに揺らす。
白目だった部分は黒く染まり、終焉の魔女が狂気に満ちた笑みを浮かべた。
それは千年もの長い間、彼女が望む愛を手に入れることができず、狂ってしまった魔女の末路。
美しい闇精霊族の姿すらも捨て、身も心もバケモノになった、終焉の魔女の正体。
トウマと契約を交わすまで、私がなるはずだった未来の姿だけど……。
「地を這うニンゲン以上に、醜いわね」
「……は?」
ボソリと呟いた私の言葉に反応して、歪んだ笑みを浮かべたエキドナが、私の方へ顔を向ける。
「エキドナ……。あなたにもう一つ。伝え忘れていた、大事なことを思い出したわ……」
ここから、逃げることはしない。
逃げたところで魔女として非力な私では、すぐさまエキドナに捕まるだろう。
だからといって、ここでただ食われるつもりもない。
「エキドナが教えてくれた、血の契約ね……。アレ、まだ未完成みたいよ? 実は、その先があるって……知ってた?」
「延命するための戯言かしら? いまさら、命乞いをしても……」
私の視界に、見覚えのある銀色の線が入る。
目に映る世界が二つに割れ、私にとっては見流れた景色が映った。
「エリス……。あなた、その黒い右目はどうしたの? あの可愛らしい、銀色の瞳は……」
エキドナの身体が、銀色の線を境目にして縦に割れる。
正確には私の左目だけに、エキドナの姿が映ってるだけなのだが……。
「ああ、良かったわ……。トウマと同じ、黒色にちゃんとなってるのね? 他の人にコレを見せたのは、初めてだから。安心したわ」
先ほどまでの笑みは完全に崩れ、エキドナが驚きに顔を歪ませる。
私の右目には、教会のベッドに寝かされた大男と、あの憎たらしい女や他のニンゲン達が、難しい顔で会話する姿が映っていた。
肝心のトウマは映っていない。
トウマの目を通して見てる景色なのだから、当然のことだけど。
「その魔法は、どこで覚えたの? エリス……」
蛇のような威嚇音を漏らしながら、盲目の口蛇達が私の逃げ道を塞ぐように、無数の黒い触手で取り囲む。
「言え、エリス。その魔法を、どこで覚えたァアアア!?」
エキドナの美しい唇の両端が裂け、蛇のような大口を開けて、悪魔に魂を売った魔女が咆哮した。
――終焉の魔女が体内で飼っている第五紋の召喚魔獣――石喰の捕食者である、大悪魔から生えた無数の触手達も、石化の毒を含んだ牙を剥き出しにして、私を食い殺さんばかりに威嚇する。
盲目の口蛇が、勢いよく上下に口を開き、飛び散った体液が私の頬に当たった。
チリチリと火傷するような痛みと同時に、私の頬から黒紫色の煙が立ち昇る。
私の皮膚が石に変化していくのが、嫌でも分かる……。
ここからは、賭けだ。
このまま終焉の魔女に食われるか、それとも……。
「ニンゲンよ」
「……は?」
「聞こえなかったかしら? この魔法は。トウマと契約を交わした時に、彼から貰ったものよ……。だからニンゲンから教わった、魔法になるのかしらね?」
彼の名前を刻んだ布に触れていた右手を、エキドナへ見せつけるようにゆっくりと上げる。
銀色を含んだ糸で縫われた名前の端から、一本の銀糸が伸びていた。
糸のほつれにも見えたソレは、マナを強く流せば濃厚な銀色の輝きを増す。
右手の小指と繋がった銀糸が、ボロ布の中から飛び出すように、長く長く伸び続ける。
風になびくように銀糸が空中で揺れ動き、ユラユラとたゆたう。
それに触れることを恐れるように、口蛇達が後方へのけぞるようにして避けた。
彼女達の反応を見て、私は確信する。
「エキドナ。次にあなたと会った時に、どうしても聞きたいことがあったの……。この世に、知らない魔法は無いと言ってた、終焉の魔女様にね……」
どこまでも絶えず伸び続け、私を囲うように漂い続ける銀糸を……。
目玉が零れ落ちそうなくらいに、両目を見開いたエキドナが凝視する。
「まだエキドナに見せてもらったことがない、この魔法はなにかしら? ねえ、エキドナ……。ニンゲンと契約を交わした。無知で愚かな私に、教えてちょうだい」
一歩前へ、私は足を踏み出す。
私の動きに合わせて、エキドナが怯えるような表情で、一歩後退した。
まるで未知の恐怖から、逃げるように……。
「もしかして、知らないの? そんなはずは、ないわよね? 千年も生きた闇精霊族のあなたが……。まさか知らない魔法があるなんて、言わないわよね? だって、あなたが地を這う虫だって。下等生物だって馬鹿にしてた、ニンゲンが教えてくれたのよ? まだ十六歳になったばかりの、ニンゲンのトウマが、私にね……」
「うっ……うぅっ……」
先程まで、私を威圧していた魔女が、背中を丸めて……。
両手で顔を抑えながら、言葉にならない声を発する。
「それとね、エキドナ。彼と血の契約をした時に、不思議なことが起こったの……。契約の代価に、精霊族の知識を差し出したのだけど。足りなかったみたいでね……」
「足り、ない?」
「ええ、そうなの。優秀な精霊族の血だけじゃ、足らなかったわ。だから、私の魂もあげることにしたの。それを足した対価で、得た力がこの魔法よ」
「嘘よ……。嘘よね、エリス? ニンゲン如きに、魂まで……」
「嘘じゃないわよ」
私が突きつけた事実を認めたくないとばかりに、エキドナが首を左右に激しく振った。
すがりつくような顔で、私を見上げるエキドナの目から、涙が零れ落ちる。
「エキドナが自慢していた精霊族の叡智は、ニンゲンの血に劣るみたいよ?」
「エル、フノ……チシ、キガ……」
呼吸の仕方を忘れたように、エキドナの口がパクパクと。
とても苦しそうな表情で、開いたり閉じたりを繰り返す。
「だから、私は彼を選んだのよ……エキドナ。私があなたと一つにならない意味を、分かってくれたかしら? あなたが魔術の知識を得る為に、魂を捧げた悪魔より、彼の方が優秀だったからよ」
「――ッ」
ついに発狂したのか、エキドナが自らの首を掴んで強く絞め始めた。
怨嗟の声が聞こえそうなくらいに、強い恨みの籠った眼が私を睨み上げる。
私は笑みを浮かべながら、上からエキドナの顔を覗き込む。
「ねえ、エキドナ……。まだ、あなたの知らない未知の魔法が、目の前にあるのに……。もしかして調べもせずに、それを壊すのかしら? 知識が習得できなくて、嫌がらせに壊すくらいの実力なら。あなたに魔術の才能は無いから、二度と魔女なんて名乗らないでね……」
「カハッ――」
自らの首を絞める手が止められず、ついには口から泡を吐いて、エキドナが白目を剥く。
意識を失った魔女が、地に腰を落として力無くうなだれ、ついに一言も喋らなくなった……。
私を威嚇していた盲目の口蛇達も、元気を失くしたように、細長に萎れていく。
ズルズルと弱々しく地を這いながら、沈黙した主のローブの中へ隠れてしまった。
賭けに勝ったのは、私の方かしら?
思い出しだように全身から大量の汗が流れ、疲労から足元がふらつく。
近くにあった樹に背中を預け、新鮮な空気を吸い込む。
今回は運良く、生き延びたみたいね……。
ありがとう、トウマ。
私を、また助けてくれて……。
ここにいない彼に礼を言いながら、彼から貰った大切な布を、優しく撫でる。
「……百年ぶりかしらね? 勝手に退場した先生の代わりに。先生の身体を、私が動かすのは……」
沈黙を続けていたエキドナが、何事も無かったかのように立ち上がる。
汚れた口元を懐から取り出した布切れで拭き、元に戻った白目の中にある銀色の瞳が、キョロキョロと忙しなく左右に動く。
「先生に何をしたの、エリス? 今日は、私達の大事な日だったはずでしょ? 先生も魔術をやりかけたままで、ほっぽり出して、すっかり奥に引きこもってるし……。怒らないから、ちゃんと一から私に説明してちょうだい」
先程までの彼女とは違い、垂れ目が特徴的な、優し気な目をしたエキドナが私に尋ねてくる。
すごく面倒ではあったが、さっきまでのやり取りを事細かに、彼女へ説明してあげた。
私の説明を聞き終えたエキドナが、放置されてしまった魔術用の精霊石を回収する。
「酷いことをするのね、エリス。そんな意地悪なことをして。先生をイジメちゃ、駄目じゃない」
「……酷いこと? もう少しで私は、口蛇にかみ殺されるところだったのよ。ホントに酷いのは、どっちかしらね……」
エキドナが懐から小瓶を取り出し、蓋を開けると指へ液体を落とした。
石になった私の肌に、エキドナが液体を塗りつける。
「しばらくすれば、もとの綺麗な肌に戻るわよ」
「ありがとう、エキドナ」
薬を塗ってくれたエキドナが、蓋を閉じた小瓶を懐にしまう。
「ねえ、エキドナ。この魔法って、あなたも見たことがないの?」
「先生の知らない魔法でしょ? 私も初めて見るし、まったく分からないわね。マナだけじゃなく、右手の感覚も痛みも共有することができるのよね? それもすごいけど、彼の右目から見える世界を、遠く離れた場所から視ることができるのが……うーん。不思議な魔法ね。魔術を探求する者として、興味が尽きないわ」
穏やかな口調で冷静を装っているが、彼女もまた未知の魔法を見て、興奮を抑えきれないようだ。
私の小指と布切れの間で繋がる不思議な銀糸を、前のめりでマジマジと眺める彼女の目元には、アイシャドウのように金色の鱗が浮き上がっていた。
「先生は狂ってるけど、悪魔に魂を売るくらいの知識欲の塊よ。ニンゲンの彼を殺して、あなたと一つになるのは、現時点では悪手と判断したようね。それが先生の答えなら、私達はそれに従いましょう」
私の手を掴み、風の精霊の力を借りたエキドナと一緒に、空へと舞い上がる。
「さあ、エリス。愛する彼の元へ向かいなさい。短い時間かもしれないけど、先生の狂気から逃れた奇跡を、有効に使うべきだと。私は思うわよ」
「……ありがとう、エキドナ」
私の手を離し、ニコニコと楽しそうに笑うエキドナを見つめ返す。
「でもね、エリス。千年も生きた私達にとって、このくらいの想定外は些細なことよ?」
金色の蛇鱗に、目の周りを覆われたエキドナの頬に、複数の横線が刻まれる。
エキドナの目の下に、見開かれた複数の目が、縦に並んだ。
アイシャドウのような色違いの鱗に囲われた彼女達の目が、私の顔をじっと見つめてくる。
どうやら眠っていた、他のエキドナ達にも興味を惹かれたらしい……。
「先生はどうか分からないけど。私達は諦めないわよ。むしろ私は、ニンゲンの彼にすごく興味が湧いたわね。ぜひとも、あなたと一緒に彼も、こちら側に来て欲しいところだけど」
「エキドナ。三頭獄炎犬が逃げてるわよ」
「あら?」
エキドナ達の目が、一斉に同じ方向へ動いた。
野生動物のように、森の中で散策を始めた巨獣を見下ろす。
「闇魔法が専門なのは、先生だけだから。こういう時に、困るのよね」
エキドナが右手を伸ばし、第三紋の魔法陣を展開する。
再び支配下に置いた三頭獄炎犬を、エキドナが呼び戻す。
専門外と言いながらも、不得意の第三紋を片腕で操れる時点で、十分にバケモノの領域にいると思うけどね……。
やっぱり今は、相手にしたくない魔女だわ。
「帝国あたりまで散歩して、適当に放置してこようかしらね。ここに置いといたら、エリスの彼氏を食べちゃいそうだし……。先生は、喜びそうだけど」
「それは困るわね。そうなる前に、ここで串刺しにしておこうかしら?」
「あらあら、怖いわね」
クスクスと楽しそうに笑いながら、空中を散歩するエキドナが、私から離れようとする。
でも、すぐに首を回して、こちらに笑顔を向けた。
「エリス。今日は、私達が書いたシナリオの一部が変わっただけ。これから世界が崩壊するシナリオは、この程度のトラブルでは変わらない。むしろ今日を生き残ってしまったあなたは、きっと後悔すると思う……。自分以外の弱者がいなくなって、一人孤独になった世界に……」
「いいえ。ならないわ、エキドナ」
私はエキドナの言葉を、はっきりと否定する。
「世界が崩壊しても、私とトウマだけは生き残る。それが、私達の運命なの……」
「そう……。そうなると良いわね。また会いましょう、エリス」
どこか憐れむような眼差しで、エキドナ達がこちらを見つめた後、三頭獄炎犬を操りながら森を去って行く。
その後ろ姿を見送り、私もトウマ達のいる村へと向かい、ご機嫌に空を飛ぶ。
ついでに役目を果たしてくれた、ボロ布と繋がる銀糸を消した瞬間――。
とある記憶が、閉じた右瞼の裏によぎった。
「大丈夫よ、トウマ……。次は、絶対に失敗しないわ」
氷漬けにされた身体で、悲哀に満ちた顔で私を見上げた、見覚えのある青年の顔が消え去り。
再び開いた瞼に、見ることが叶わないはずだった、未知の景色が映る。
「だからね、トウマ。あナタも……今度ハ、間違えナイでネ? ……フフフ」
運命の変わった世界で、私は愛する彼の元へ向かった。
ノーマルEND?『どこまでも、あなたと一緒』
ご愛読、ありがとうございました。




