【第21話】忌まわしき追憶
絶望に心が折れた俺は、彼女の肩越しに空を見ていた。
黒い太陽……いや、アレは違う。
遠目に見ても、十メートルはあるだろうか……。
巨大な黒い塊が、雲の下を浮遊している。
国や人種に関係なく集まった俺達を、最期の連合抵抗軍だと喜んで仲間になってくれた元帝国軍人達は、どうなったんだろうか?
恐怖を思い出したように、それを見上げて泣き叫び、屈強な男達が指差した先に――。
我が物顔で空を支配する、巨大な黒い影があった。
この戦場から逃げ出した元帝国軍人達が、石喰の捕食者と恐れた、悪夢を体現したような大悪魔。
高所を浮遊する――混沌の魔女が召喚した――巨大魔獣からは、無数の黒い触手が生えており、獲物を探すように絶えず蠢いていた。
聖女様が召喚した者達を食い散らかし、鳥のような白い翼を生やした天使達が、次々と地上に堕ちてくる。
全身が石となり、四肢が貪り欠けた天使が、地面に触れた瞬間。
――粉々に砕け散った。
灰塵の一部を浴びた俺は、ビクリと恐怖で身体が震える。
「ごめんね。重いでしょ?」
俺の身体に覆いかぶさった人物が、申し訳なさそうな声を漏らす。
「動きたいんだけど。さっき口蛇に噛まれた腕が、石になっちゃったみたいでさ……」
彼女が目線を横に動かした先に、俺も視線を移す。
石喰の口蛇に噛まれ、切り裂かれた衣服の隙間から見えたのは肌色では無く、温もりを感じさせない灰色の石。
腕だけでなく、噛まれてないはずの首元まで、石化による灰色の浸食が進んでいた。
「ごめんね、トウマ君……。僕が弱くて……」
なぜ聖女様が、俺に謝っているのだろうか?
彼女に感謝するべきことはあっても、聖女様が俺に謝ることは何一つない。
戦士として役立たずの俺が、英雄達と共に今日まで生き残れたのは、聖女様が従者として俺を拾ってくれたからだ……。
「君があの時、僕を拾ってくれたから。僕は君の憧れる英雄になろうと思ったけど……。やっぱり半端者の僕じゃ。英雄になる資格は無かったみたいだね……」
なぜ拾われたはずの俺が、聖女様に拾われたことになってるのかは、よく分からなかった。
聖教会と呼ばれた巨大組織が崩壊した際に、彼女がどのような経緯で、聖教会の使徒を辞めたのか。
その過去を、聖女様の口から語られることは無く、詳細を知る機会は無かったが……。
聖教会が無くなった後も、誰もが聖女様と呼ぶくらいに。
生き残った皆を今日まで率いた彼女には、英雄としての資格は十分にあったと思う。
それなのに、どうして……。
ポタリポタリと胸当ての隙間から、赤い液体が落ちる。
「ごめんね、君の服を汚しちゃって。天使を召喚する魔力も、絞り出せなくてさ……。僕の身体で、君を守るしかなかったんだ……」
俺を、守る……。
聖女様の言葉を聞いて、俺は視線を周りに移した。
俺と聖女様の周囲には、千を超える氷の矢が地面に刺さっている。
混沌の魔女が、雨を降らすように落とした氷の矢から、逃げ切れなかった仲間達の亡骸が横たわり、ハリネズミを連想させる悲惨な姿になり果てていた。
「痛ッ……」
聖女様が、苦悶の表情で歯を食いしばる。
彼女の手の甲を貫いて、地面に突き刺さった氷矢を、強引に引き剥がした。
見えない彼女の背中が、どうなってるのかは想像したくなかった。
「悔しいよ……。どうして、こんな理不尽なことが許されるんだ……。この世界には。僕が信じた正義は、どこにもなかった……。英雄は、どこにもいなかった……」
悲しげな顔で、独白を漏らした聖女様の頬から、涙が流れ落ちた。
ギチギチと蟲を想像させる死を運ぶ音が、数えきれない音の波となって、遠くから聞こえてくる。
きっと、この戦場から先に逃げ出した者達は、あの忌まわしき蟲達の餌食になったのだろう……。
この世界のどこにも、ニンゲンが逃げる場所は存在しない。
聖女様の言うように、この世界には誰もが待ち望んだ、英雄は現れなかった。
あるのは、どこまでも続く絶望だけ……。
再び空を見上げた時、大悪魔を付き従わせながら浮遊していた混沌の魔女が、消えてることに気づいた。
不意に、俺の唇に柔らかいモノが触れる。
視界が覆われるほどに、気づいた時には間近にあった聖女様の顔が、優し気な笑みを浮かべた。
内臓も深く傷ついたのか、聖女様の口元からは、赤い液体が零れ落ちている。
「情けないよ……。最期まで、男らしく生きようと決めたのに。やっぱり死ぬことが怖くて……。誰かに、傍にいて欲しいって思うのは……。僕もやっぱり、弱い女の子だったのかな……」
仲間達が下世話な会話をしてた時に、キスの味は甘い果実みたいだと言ってたが……。
今の俺には味も、喜びすら感じることができなかった。
「ごめんね、トウマ君……。また、どこかで……」
弱々しく目を瞑り、聖女様が俺の胸元へ、力無く覆いかぶさった。
でも、俺は――。
目の前にいる恐怖から、目を離すことができなかった……。
上空を浮遊してる間は、顔を覆っていたフードを、ソレは自らの手で掴んだ。
褐色肌の細指で、目深にかぶったフードを捲り上げる。
――やっと、ミツケタ。
その時になって初めて、名前だけしか知らぬ恐怖の存在を。
遠目にしか見たことの無かった、混沌の魔女の正体を、俺は知ってしまった。
幼き頃の面影を残したダークエルフが、聖女様の肩口から顔半部だけを覗かせ――。
大きく両目を見開き、俺の顔を穴が開くほどに覗き込んだ。
感情の色を失った、ガラス細工のような銀色で、俺をじっと見ていた眼が――。
不意にギョロリと、横へ向く。
――コノ女、だれ?
* * *
「今のは警告よ、トウマ……。次は、外さないわ」
忌まわしき記憶の海に沈んでいた意識が、肌を撫でる冷気によって現実に戻される。
失ったものを取り返せない、現実に……。
気づけば周囲の地面が、師匠を抱いて地に座る俺を避けて、白い霜で覆われていた。
背後へ振り返れば、俺の肩口を横切ったのがすぐ分かるように。
二本の氷で作られた剣が地面に突き刺さり、刃から白い冷気の霧を吐き続けている。
「そこをどきなさい……。トウマ」
優しい声色だが、俺に拒否することを許さない、強い意思を感じる声だった。
鋼剣鬼のヴォルグと戦ってる最中にも関わらず、そちらへの興味は無くしてしまったのだろうか?
それとも、魔獣ハンターなど片手間に倒せると、暗に示してるのか……。
ついさっきまで、エリスと剣を交えていたヴォルグもまた、遠くから様子を見守るように、静観を決め込んでいた。
「どうしてだ、エリス……。どうして、師匠を殺そうとするんだ?」
過去の恐怖を思い出す魔女に対して、俺は絞り出すような声で尋ねた。
「……どうして?」
エリスの姿をした魔女が、小首を傾げた。
「でかいのは口だけで、トウマを守れなかったからよ……。わたし一人がいれば、トウマは守れる。そうでしょ?」
「守れなかったからって……。それだけで、殺さなくても……」
「駄目よ、トウマ。その忌々しい虫は、いま潰すの」
俺の言葉にかぶせるように、エリスが強い口調で宣言する。
なぜそこまで、執拗に師匠のことを……。
「ヘヘッ。チャンスは、今しかねぇからな……。私が魔力切れ起こして、ぶっ倒れてる今しか……。そうだろ、ダークエルフ?」
弱り切っても口はよく回る師匠に対して、エリスは無言で俺達を見下ろしたままだ。
沈黙を続けるエリスが、両腕を天に向けて伸ばした。
「弱いトウマに、師匠なんていらない……。私には、トウマを守れる力がある……。私以外の女は、トウマに必要ないのよ」
エリスが伸ばした両手の先に、今までとは比較にならない大きさの魔法陣が展開される。
「第三紋の魔法かよ……。本当にトウマごと、私達を殺す気か? あの馬鹿エルフは……」
百にもなる氷の刃が、俺と師匠を取り囲むように出現する。
氷で作られた長剣、マチェット、スピア、矢、ダガー、投げ斧、レイピア、サーベル、クレイモア、ハルバード、バトルアックス……。
彼女が創造することが可能な、あらゆる氷の武器が四方八方に顕現した。
「でっけぇ魔法は使えても。中身は小さい女だな……。そんなだから、トウマにも嫌われるんだぞ。ダークエルフ」
「し、師匠」
「黙りなさい、ニンゲン……。地を這う、蟲如きが……私のトウマを」
俺達を取り囲む氷の凶器が、螺旋状に並ぶ。
明確な殺意を宿した刃が、俺の腕の中で横たわる師匠を、狙うように傾いた。
「結局は、私に嫉妬してるだけだろうが、ダークエルフ……。できるものなら、やってみろよ。お前の好きな男ごと、私をな」
止まない師匠の挑発に、エリスの両目が大きく見開いた。
怒りの感情を銀色の瞳に宿し、エリスの両手を纏う三つの魔法円紋が、燃え盛るような青白い光を灯す。
俺は咄嗟に、師匠を守るように覆いかぶさる。
――俺の視界が真っ白に……白銀の世界へと変わった。
あの時の聖女様も、今の俺みたいな気持ちだったのかな?
死が間近に迫ってるというのに、俺の気持ちは穏やかだった……。
もしくは、数えきれない氷の刃に貫かれ、既に死んでしまったのかもしれない。
死後の世界に俺はいるのか、視界を覆う真っ白な世界を、ただ静かに見つめた。
運良く死に戻りをしても、憧れた英雄には成れなかった……。
混沌の魔女に、転生した魔王や凶悪な魔獣。
絶望的な数の巨悪に立ち向かう、聖女様や勇気ある彼らのように。
英雄達と肩を並べるほど、高望みはしていなかったけど……。
ただ手の届く場所にいる人達を、守れる力が欲しかった。
力を手に入れる幸運にも巡り遭えて、その願いが叶うかもと思った。
でも、淡い期待は裏切られた。
二度目の世界でも、俺はやっぱり弱くて、誰も守れずに終わる。
それだけが、心残りだった。
「すみません、師匠……。俺が、弱いせいで……」
俺を殺した後のエリスは、また世界を壊すのだろうか?
そう思うと……。
じゃあ俺は、どうすれば良かったんだと。
後悔ばかりが……。
「勝手に殺すな」
「……え?」
天の声かと思っていたら、地面に横たわる師匠が、白い霧の中から顔を出す。
「私は無事だぞ……。トウマが、守ってくれたからな」
俺の視界を覆っていた白い霧が晴れ、見覚えのある景色が現れた。
グシャリグシャリと、氷を靴底で踏み砕く音が聞こえ、こちらへ歩み寄るエリスの姿が……。
「トウマ、ちょっとコッチに来い。キスしてやるから」
「……え?」
師匠に胸倉を掴まれ、頬が触れそうな距離まで、師匠と俺の顔が近づく。
嫌な予感がして前を見れば、鬼の形相をしたエリスが、両手に第二紋の魔法陣を二つ、同時に展開した。
刃から白い霧を吐く、二本の氷槍が出現して――。
「おい、ダークエルフ。お前、トウマとキスしたことはあるか? 今からほっぺにするぞ」
大きくエリスの両目が見開くと同時に、氷槍が弾丸の如く射出された。
氷槍が地面すれすれに超低空飛行し、地に寝転がる師匠の頭を狙い――。
「よっと」
胸倉を掴まれた俺の顔が、師匠の前に。
あ……死んだ――。
エリスが放った二本の氷槍が、俺の頭を貫通するのを幻視したが……。
予想とは異なり、俺に触れようとした氷槍が、粉々に砕けていく。
まるで俺の周りに透明な膜があるように、刃の先端からお尻まで氷槍が砕け散り、氷の破片が宙に舞う。
ダイヤモンドダストのように、細氷が俺達の周囲に降り注ぎ、幻想的な光景に目が奪われる。
「ははーん……。私が無事だった理由が、分かったぞ……。お前の魔法は、トウマを傷つけられないんだな?」
顔を見なくても分かるくらい、ニヤニヤした悪い笑みが想像できる、楽しそうな師匠の声が下から聞こえた。
俺と師匠を避けるように、周囲を白く染めた氷を踏み砕いた人物が、俺の眼前で仁王立ちをする。
「そうだろ、ダークエルフ?」
「そうよ、ニンゲン。もう隠しようがないから、言うけど。トウマと交わした契約で、私の魔法はトウマを傷つけられないの」
「ヘヘッ。魔女の魔法を無効化するとか。どんだけ、すげぇ契約なんだよ……」
「それに値する対価を、トウマが払っただけよ……。呪われたこともないニンゲンには、理解できないでしょうけどね」
エリスが腕を組みながら、俺の下から顔を覗かせた師匠を睨みつける。
「そんな魔女様に、お願いがあるんだが。さすがに死にたくないからさ、見逃してくれないか?」
「それは無理ね」
「そんな、エリス……」
それは譲れないとばかりに、即答するエリス。
魔法陣を展開する仕草で、エリスが腕を伸ばして手を広げた。
「私はまだ、トウマとキスしたこと無いけど。見逃してくれたら、ほっぺにキスしてくれるらしいぞ?」
「……え?」
「殺さないまでも、私の前から消えてくれたら……。見逃しても、いいかもね?」
……ん?
そんな条件で、許してくれるのか?
「冗談はさておき……。お前が、内血系魔法を教えれないから。トウマに頼まれて、私は師匠になったんだぞ。忘れたのか、ダークエルフ?」
「……覚えてるわよ。私が気に入らないのは、トウマに守られるくらい弱い女から。トウマが教わることは、なにも無いってことよ……。トウマは、弱いままで良いのよ。私が守るから……」
「それが、お前の彼氏は嫌だって言ってんだよ……。恋人を守れるくらい強くなりたいって思う、男心が分かってないんだよ、お前は。そんなだから、トウマに嫌われるんだぞ、ダークエルフ」
師匠と睨み合ってたエリスの視線が、初めて俺の方へ向く。
未来の君に比べれば、今の君はまだ幼いが……。
弱い俺からすれば、君はあまりにも強すぎて、とてもじゃないが超えれるような壁に見えないけど。
「エリス……。俺は、強くなりたいんだ」
話は聞くつもりはあるのか、魔法を展開しようと伸ばしていた腕を、エリスが再び胸元で組んだ。
俺も立ち上がり、エリスの顔をまっすぐ見つめる。
「べつに弱いままでも、良いでしょ? 私が守ってあげるから……」
「いや。それじゃ、駄目なんだ」
俺の言葉に、不満げな顔をしたエリスが眉根を寄せた。
君は知らないかもしれないが、未来の君は一度、世界を壊しかけたんだ。
あの悲劇を繰り返さないために、君を悪の道に進めた奴から、俺は君を守らなくちゃいけない。
「師匠は必要なんだ。彼女は、君の知らない知識を持っている。俺が早く強くなるための道を教えてくれる。だから頼む、エリス……」
「私の知らない。知識、ね……」
ここにきて、初めてエリスが少し悩むような仕草を見せた。
「ねえ、トウマ……。トウマにとって、一番は誰なの?」
「え? それは、エリスだけど……」
「そうね。トウマは私の味方だって、言ってくれたわよね……。んー」
口元に手を当てながら、エリスが難しい顔を作る。
「トウマ君。喧嘩した彼女のご機嫌を取る方法を、一つ教えてあげようか?」
「……師匠?」
俺の背後からひょっこりと顔を出した師匠が、ニンマリとした笑みを浮かべる。
「トウマは、彼女にプレゼントしたことはあるか?」
「それは……ありますけど」
エリスに服をプレゼントしたことを思い出し、今もそれを着てくれてるエリスの方を見る。
師匠が出てきたせいか、また不機嫌そうな顔になったエリスが、こちらを睨んでいるが……。
「でも、今は。プレゼントできるような、良い物は……」
「本当に、無いのか?」
師匠の視線が、下の方をじっと見てる。
具体的には、俺のポケットを……。
ポケットの中に手を突っ込み、古びた布切れを取り出し、手の上に広げた。
「今あるのは。こんな物しか、あ――」
俺が言い終わるよりも前に、エリスの手がそれを掠め取った。
銀糸で俺の名が刻まれた、古びた布切れをエリスが広げる。
「良いわよ、コレで。今回はコレで見逃してあげるわ」
えっと……。
君がそれで良いなら、俺はかまわんが……。
「それ。無くさないでくれよ……。大事なものだから」
「大丈夫よ。絶対に、無くさないから」
分かり易いぐらいに機嫌を良くしたエリスが、嬉しそうにボロい布切れを胸元に抱きしめる。
いろいろと、腑に落ちないが……。
これで、解決なのか?
「痴話喧嘩は、終わったのか?」
「……あ」
師匠の後ろに立つ、熊のように大きな男を、皆が思い出したような顔で見上げる。
そういえば、そっちはまだ解決してなかった……。




