番外編 エメリヒの恋《前編》
エメリヒのお話です
目が覚めると、半身を起こしてから大きく伸びをする。寝室は窓から入る光で明るい。ということは天気はいい。朝食まで外で剣の鍛錬ができる。魔法も得意だけれど、俺は体を動かす剣術のほうが性に合う。今日は軽くジョギングもしよう。
そう決めてベッドから降りようとしたとき、視界の隅で赤いものが揺れた。
こんな色のものは、俺の部屋にはなかったはずだ。
なんだろう、と首を巡らせて見つけたのは、ベッドの上でくねくねとしている赤い糸だった。それが扉まで伸びている。ではもう一端はと見れば、俺の左手の小指に結わわれていた。
「……は?」
右手でつまんでみる。やはり糸だ。引っ張ってみると、小指にその感触が伝わった。
「なんだよこれ」
いや、赤い糸の伝説は知っている。運命の伴侶と繋がっているやつだ。
でもそんな相手が俺にいるとは思えない。公爵家の男子として相応の教育は受けた。だが俺は父親に嫌われている。
成人すれば、追い出される。財産分与もない。祖母や母が私財から分けると言ってくれてはいるが、そんなことをすれば父は母たちを責めるだろう。
だから。俺は成人したら、『実家の身分だけは高い文無し男』になる。
守り人である名誉や、騎士の仕事があったとしても、扱いづらい人間であることは間違いない。貴族にしろ、平民にしろ、こんな俺と縁を結びたいと望む女性はいないだろう。
ずっと、そう考えてきた。
その俺に、運命の伴侶がいる?
そんなバカな。これはきっとなにかの間違いか、兄の質の悪いいたずらだろう。
◇
様子をうかがってみたが、赤い糸は兄のいたずらではないようだった。俺以外、糸は誰にも見えていない。俺は触ることができるのに。
時間が経つにつれ、糸の繋がる先が気になってきた。運命だとか伝説だとかを信じるような年齢ではない。だけどもし本当にそんな相手がいるのなら、どんな人物なのかを知りたい。
でも、俺には糸を辿る時間はない。常にスケジュールはいっぱいだ。学校が終われば王宮へ行き、見習いとして近衛騎士団に勤務する。屋敷に帰るのは夜になる。相手探しは休日まで待つしかない。それまでこの糸が存在すればの話だが……。
中庭のランチ時間。精霊姫と守り人で、丸テーブルテーブルを囲っている。
本来なら食堂に行かなければならないが、あそこでは余計なことに煩わされる。それを避けるために、コンラッドが学校にかけあい、許可がおりた。
王太子の地位があってこそのことだろう。彼が守り人の一員であることは心強い。
目の前で楽しそうに会話に興じるコンラッドとアドリアーナを見る。このふたりも赤い糸で繋がっているのだろうか。
アドリアーナを好きな守り人はコンラッドの他にもいる。だが、彼女のとなりにいるのが一番似合いなのは、彼だ。
コンラッドには婚約者がいる。でも絶対に、アドリアーナと結婚したほうが幸せになれるはずだ。
そんなことを考えていると、赤い糸が結ばれている左手の小指が引っ張られた。見てみたが、特に変化はない。気のせいだったのだろうか。
なんとなく気になって、目だけで辺りを見回す。すると面倒なものを見つけてしまった。
植木の陰にひとりの女子生徒が立っている。ラウラ・ロンベル。コンラッドの婚約者。公爵令嬢のくせに、性格が悪く卑怯な女だ。アドリアーナを嫌い、彼女やコンラッド、俺たち守り人に暴言ばかりを吐く。
今もまた、言いがかりをつけに来たのだろう。彼女を避けるために、わざわざ中庭で昼食をとっているのに。
コンラッドたちに注意喚起しようとして、気がついた。赤い糸が彼女のほうから伸びている。
まさかと思いラウラ・ロンベルの左手を見ると、赤い糸が結わわれていた。
心臓がバクバクと大きく動き出す。
横目で自分の左手を見る。小指の赤い糸がはっきりと確認できた。
だが、彼女の赤い糸と俺の赤い糸が同じものだとは限らない。そう、別の人間に繋がっている可能性だって――
わずかな希望を抱いて、自分から伸びる赤い糸を目で辿る。
そうして俺は、赤い糸が間違いなく彼女と繋がっていると、確認してしまったのだった。
◇
「待てよ!」
ラウラ・ロンベルは逃げるように早足で進む。俺がいくら声をかけても止まらない。
赤い糸が彼女と繋がっているのが事実なら、これはきっと運命の糸ではなくて、彼女のなにかしらの陰謀に違いない。何度も呼んでいるのに止まらないのが、その証拠じゃないか。
くそっ。
悪女なんだし、紳士的に接する必要はないな。
止まろうとしない彼女の右腕を、掴む。
「待てと言っているだろう!」
ようやくラウラ・ロンベルは足を止めた。そして振り返る。
文句を言ってやろうとしていた俺は、口を開いたまま動けなくなってしまった。自分の目で見たものが、なにか理解できない。
あの(・・)ラウラ・ロンベルが、目にいっぱいの涙を溜めて絶望の表情を浮かべている。
「失礼ね。手を離して」
震える声で告げられて、ようやく彼女の腕を掴んだままだと気づく。
手を離すとラウラ・ロンベルは俺に背を向けた。たぶん、涙を拭っている。
再びこちらを向いたときは、いつもの表情にだいぶ近いものになっていた。涙もない。
見慣れた顔にほっとする。
驚いたせいで鼓動が早いがなんとかそれを抑えて、俺はどうしてこんなことをしたのかを問いただすことにした。
◇
赤い糸は彼女の仕組んだものではなかったし、魔法で切ることもできなかった。これは一体なんなんだ。それに――
俺から遠去って行くラウラ・ロンベルの背を見る。
彼女は権力志向が強く、王太子妃の位への執着し、そのためにはコンラッドを貶めることすら厭わない悪辣な女のはずだ。
ずっとそう思ってきた。コンラッドもそう言っている。
だけど今の様子だと、彼女はコンラッドを好きなようだった。
あいつと運命の赤い糸で繋がっていると信じ、そうでなかったことに絶望して泣いていたと思われる。
でも、まさか。
ラウラ・ロンベルは意地が悪く苛烈な性格のろくでもない令嬢だ。
そうだ、彼女は『コンラッドが好き』だなんて、一言も言っていない。俺が勝手に想像しただけだ。
ショックを受けたのは、自分が王太子の妃になれないと悟ったからかもしれない。きっとそうだ。
あのコンラッドが、自分の婚約者のことを見誤っているはずがないからな。
でも、それなら――
俺は左手の小指を見つめる。
「なんで俺が、彼女とこんなもので繋がっているんだ……?」




