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辺境の瞳~カレンとジェラルド~  作者: 鵜居川みさこ
第三章
73/75

73.【番外編】偽名と淑女

※第一章の「レディ・パメラ」から「手紙」の間のお話です。かなり遡ります。

まだ、カレンとジェラルドの思いは通じあっていない頃です。

「アルバート、私が自由に使えるお金はいかほどかしら?」


「…は?」


 ダヴィネス城の家令のアルバートは、カレンの問いの意図が一度に掴めなかった。


「つまり…私がストラトフォードから持ってきた、私個人の資産のことです」

 暗に“持参金とは別に”ということを意味している。


 アルバートはふむ…と考えた。

「…およそ△△ほどかと」


 カレンは「そう」とだけ答え、なにやら思案する。


「…レディ、もしお差し支えなければ、ご用途をお伺いしても?」

 ダヴィネス城の運営を任された優秀な家令の質問は的確だ。


 カレンはハッとした。

「あの…」


「はい」

 アルバートは柔和な笑顔だ。


「ダヴィネスの直轄孤児院すべてに図書室を寄贈したくて…できれば匿名で」


「…なるほど」


 カレンは、ダヴィネスへ来てから王都やストラトフォードの領地にいた時と同じように孤児院を慰問していた。

 ベアトリスやパメラと同行する時もあれば、一人で訪れることもある。直轄である城塞街の孤児院を訪れた際に、蔵書が少ないなと感じたのだ。シスターに聞いてみても、やはり本はあったらありがたいとおっしゃっていた。ただ、他のことにおいては十分にしてもらっているので、言い出しにくいであろうことも推し量れた。

 あまり大げさなことはしたくないが、せめてカレンのできる範囲で何かしたいと思った。


 ジェラルドに相談した方がいいのかも知れないが、カレン個人からの寄贈であれば構わないとも考えた。


「大変素晴らしいお心掛けかと存じますが…」

 アルバートは少しいい淀む。

「一度ジェラルド様にご相談なさっては?」


 やっぱり…


「…お金は…足りますか?」


「はっきりしたことは試算してみないとわかりませんが、十分かと存じます」


 ストラトフォード侯爵家は、持参金とは別にカレンの個人資産をかなりの額で持たせている。カレンがどこへ行こうと金銭面では決して困らないための配慮と、過保護な兄の思いからだ。


 ジェラルドへ相談…


 つい先日も収穫祭のことでジェラルドへは迷惑を掛けたばかりだ。しかも気を遣わせてしまった。


 お仕事もお忙しいだろうし、もしかすると婚約者の身で差出がましいことかも知れないし。


 丘の上でのキスから、カレンはそれまで以上にジェラルドを意識していた。一方ジェラルドはスキンシップこそ多めだが至って普段通りだ。

 カレンはふいに落とされる額へのキスひとつにも緊張する毎日だ。


 あの瞳に見つめられると…胸がザワザワして…


「レディ?」

 神妙な顔をしているカレンへ、アルバートが話し掛ける。


「…わかりました。考えます」


 アルバートは「畏まりました」と静かに言うと部屋を後にした。



「うーん」

 カレンは頭を抱えた。


 どうしたものだろう。

 いくらカレン個人の資産とはいえ、勝手に動かすことはできない。しかも図書室となると人の手配を伴う。


「お嬢様、ジェラルド様にご相談されないのですか?」

 控えていたニコルが不思議そうに尋ねる。


「うん…そうね…」


 カレンには、孤児院に絡むことでもうひとつ気になることがあった。


 ・


「図書室…?」


「はい」


 主に忠実な家令は、カレンから話があったその日の夜に、早速ジェラルドへ報告した。


「個人の資産でと言ったのか」


「…はい。寄贈とのことで…匿名をご希望でございました」


「ふむ」

 ジェラルドは顎に手をやり考える。


 カレンが孤児院へ慰問をしているのは聞いている。王都やストラトフォードの領地でも慰問は欠かさなかったというから、ここダヴィネスにおいてもそれは不思議ではない。


 そうした中で、図書室を寄贈したいと思った動機も察しはつく。個人の資産でとか匿名というのは、恐らく私への遠慮だ。

 カレンは本当に私を頼らない。

 ただ…今回は何か違う思惑も感じる。


「しばらく様子を見よう」


 アルバートは主の返事を聞くと執務室を後にした。


「…鳩は飛ばしてないか?」

 フリードに確認する。


「はい、報告は受けていません」


 カレンは言わずもがな“思い立ったら”という行動力の持ち主だ。

 まだ動いていないならば、ジェラルドに相談するかも知れない。


「フリード…私はそんなに頼りないか」

 ジェラルドは執務椅子の背もたれに体を預けるとフリードに聞く。


 フリードは一瞬は?という顔をした。

「はは、まさか、ジェラルドがどうこうと言うより…やはりカレン様のご気性でしょう。あとは今までの環境かと。それに、まだ婚約者のご身分だからということもあるかと思いますが…」


 

 カレンの今までの行動からそれは察することはできる。ストラトフォードの領地では、かなり自由に暮らしていたことも知っている。

 他の貴族令嬢とはかけ離れた独立心の高い女性ということも。さらには自分の考えを持ち、それに従い行動する決断力を持つことも…


 しかし、ダヴィネスにおいては…婚約者の身である以上、私へ相談し頼って欲しいところだ。


 ジェラルドはもどかしい気持ちでいた。


 ・


「カレン、今日は?」


 翌日の朝食時、ジェラルドがカレンに聞く。

 これは毎朝の習慣となっていた。


「午後から城塞街の孤児院へ行きます」

 普段と変わらぬ様子で答える。


「最近、頻繁に孤児院へ行っているようだな」


 アルバートから報告があったことは、敢えて伏せている。


「…はい。読み書きを教える方がご都合がつかないらしく、私がお役に立てればと…」


「そうか…」


 しかし図書室については一切触れてはこない。


「ジェラルド様、なにか?」

 ジェラルドの視線に、カレンは聞いた。


「いや、院長によろしく伝えてほしい。私も時間が作れたら行くと」


「わかりました」

 カレンは涼しい顔で答えた。


 ・


 ミス キンバリー・トラン。

 城塞街で広く商いを行うトラン商会のご令嬢。


 トラン…確か、要注意人物のリスト(下の方)にあった名前だわ。


 カレンが城塞街の孤児院へ行った何度目かの折に会った人物だ。


 その時はジェラルドの妹の妊娠中のベアトリスと一緒で、ミス トランを認めた際に、ベアトリスは「嫌な人と鉢合わせたわ…」と呟いた。


 ベアトリスはとっさにカレンへ「カレン様、申し訳ありませんが私に話を合わせていただけますか?」とヒソヒソと囁いた。


 カレンは訳がわからないまま、ベアトリスの言葉に頷いた。


「あら!モイエ伯爵夫人ではありませんか?ご無沙汰しております。ご体調はよろしくていらっしゃいますか?」


 ミス トランという女性は、大きな商家のご令嬢らしい隙のない整った…どちらかといえば華美な身なり(艶のある派手なドレス)に、巻いたブロンドで碧眼の、美しい外見をしていた。ただ、その美しい外見は少し冷たい印象だ。年の頃は、恐らくカレンと同じくらいだろう。


「ミス トラン、お久しぶりですね…お陰さまで順調です。あなたもお元気そうで何よりですわ。今日はあなたも慰問に?」

 ベアトリスは如才なく応える。


「ええ。淑女のたしなみですから…あら、そちらの方は?」

 と、カレンへ不躾な視線を投げる。


「…こちらは最近王都からいらした遠縁の…」


「初めまして。アラベラ・スタントと申します」

 とっさにセカンドネームと偽名の名字で答えた。ニッコリとした微笑みを添えて。


「あ…ら、王都から…」

 そう…と、頭から爪先までを容赦ない不躾な視線で観察される。


 カレンは控え目なデイドレスを着ていた。


「王都からいらしたにしては、ずいぶん地味な装いをなさってるのね、ミス スタント?」

 冷たい視線だ。しかも上から目線で聞いてくる。


 初対面なのにかなりの嫌味だが、カレンは痛くも痒くもない。


「はい。子ども達と思いきり遊びたいので」

 さも当たり前という風に、事も無げに答えた。


「遊ぶ…??それって…淑女にあるまじきことではなくて?」

 キンバリー・トランは鼻で笑いながらカレンへ無遠慮な言葉を浴びせた。


「そうかも知れませんわね。私は遠く淑女には及びませんので」

 さらに微笑んで答えると、キンバリーは鼻白んだらしく「あらそう」と冷たく言うと

「ではお先に院長にご挨拶してきます」

 と、さっさとその場を離れた。


「…ごめんなさい!カレン様」

 キンバリーが建物に入ったのを確認すると、ベアトリスが心から申し訳なさそうにカレンに謝った。


「いいえ、お気になさらないでください、ベアトリス様。私はまったく気にしません」

 カレンはベアトリスの腕を優しくさする。


「…とっさに偽名を名乗られて…さすがですわ」


 なんとなく、その方がいいと思ったが、正しかったようだ。


「実は彼女は…」と、二人はその場で立ったまま話を続けた。


「お兄様を狙っていた輩のひとりでして…」


 なるほど。ますます身元は明かせない。カレンは栗の一件を思い起こす。


「しかも、商売のことでモイエと少し…」

 ベアトリスは言いにくそうだ。


 妊婦を立たせたままは良くない。

 カレンは庭のすみにあるベンチへ腰掛けるようベアトリスを促し、話を聞くことにした。

 幸い、子ども達は室内なので落ち着けそうだ。


 ベアトリスに聞くところによれば…

「ご覧の通り、キンバリー・トランは自己顕示欲の塊です」

 から始まった。ベアトリスは硬い表情だ。


 当初は、ベアトリスの夫であるモイエ伯爵との婚姻を望んでいたがそうはならず、ならばより上を、といった風にわかりやすくジェラルドを狙いはじめた。

 城塞街での集まりの際に、父の商会会長と共に現れ、ジェラルドへ秋波を送るも相手にされず…。

 父は夫人を早くに亡くし、母とよく似たキンバリーを溺愛しており、キンバリーに強く出られると押さえが効かない。キンバリーの我儘振りはよく知られていた。

 これだけならまだしも、ダヴィネスの流通を担うモイエ伯爵にもちょくちょく横槍を入れるのも、どうやらベアトリスにモイエ伯爵を盗られた腹いせらしく、大きな被害は出てはいないがやりにくいことには間違いないとのことで、ベアトリスはモイエ伯爵を思って胸を痛めている。


 自己顕示欲…確かに。先程の言動からもそれは顕かだった。

 王都ではうじゃうじゃいた類いだ。しかし高慢なうえに腹黒い貴族の令嬢よりは、はるかにわかりやすい。


 しかし、父の商売にまで私怨で口出しするとは…。しかもそれを許す父。

 孤児院への慰問を「淑女のたしなみ」と言い切ったこと…。


 身重のベアトリスの気を患わせてはいけない。


 カレンは考えた。

「ベアトリス様、この件、私に預からせていただけませんか?」


「え?」


「少しお時間をください」

 ね?とカレンは微笑みながらベアトリスの手を優しく握った。


「カレン様…」

 ベアトリスの澄んだ深緑の瞳が潤んでいる。


 ジェラルド様とよく似た瞳。

 何か私にできるかも知れない。かわいい義妹だもの。


「ところで…カレン様、『スタント』って?」


 先程の偽名だ。

「ふふ、『ストラトフォード』をもじったの。咄嗟に」

 ウィンクで答えると、ベアトリスはいつもの笑顔に戻り、ふふふ、と笑った。


 と、孤児院の玄関からキンバリーが出てきて、ベンチに座るカレンとベアトリスを一瞥すると、ふんっという風に立ち去った。


 …かなりのお嬢様だわね。

 カレンはため息を吐く。


「あー!」

 部屋の窓から子どもが体を出してカレンとベアトリスに気づく。

 二人は子どもに人気だ。


「あ。見つかっちゃったわね、行きましょ?」

「はい」

 ベアトリスが立つのを助けて、二人で建物へ向かった。


 ・


 キンバリー・トランと会った日の夜、ディナーを終えたカレンはベッドに寝転がり、やっと見慣れた天蓋を睨んで考えていた。


 トラン…リストの下方にあるなら、恐らく政治的な危険はないだろう。


 でも、モイエ伯爵の仕事へちょっかいを出すのは、顕かに領主への意趣返しだ。まったくほめられた事ではない。

 表立った被害は出てはいないからリストの下方ではあるが、要注意ということはジェラルド様も周知…。

 商会長の父を動かすのは娘のキンバリー。恐らくこれも察しはついているだろう。

 となると…


「やはりキンバリー・トランをなんとかすべきしら…」


 キンバリーと会った後、それとなく院長やシスター達に聞くと、やはりキンバリーは慰問の際も子どもには一切合わないどころか、廊下ですれ違うのも嫌がるとのことだった。いつも物品だけ渡すと即座に帰るとのこと。

 立場上、孤児院側は何も言えない。


 王都でも、孤児がドレスに触れたと激怒した貴族令嬢がいたものだ。


 あの手合いを大人しくさせるには…。


「うーん」

 なかなかいい案が浮かばない。


「お嬢様、大丈夫ですか?」

 見かねたニコルが心配する。


「…ええ。コレって案が浮かばなくて」


 こういう時、ジェラルドに相談したらいいのだろうか。

 でも急を要することではない。忙しい人の時間を割いてもらうまでもない。


「…とりあえず、図書室のことは進めるわ」


 ・


 しかし、アルバートに個人の資産を聞いたところで、計画はすんなりとは進まなかった。


 どうしてもジェラルドへの相談に抵抗があり、言い出しにくい。


 カレンはせめてもの準備として、蔵書の目録を作ることにした。


 かつてストラトフォードの領地の孤児院でも蔵書の目録は作ったことがあるので、その時の記憶を頼りにタイトルを書き出していく。


 絵本、伝記、科学や生物、そして物語の数々…


 そうだ、王都のアリーにも聞いてみようか…


 カレンは手っ取り早く鳩を飛ばすことにした。

 ストラトフォードの母づてでアリーに聞いてもらおう。アリーはカレンの読書仲間でもある。


 - 親愛なるアリー様宛

 孤児院への寄付にあたり、蔵書目録作成中     

 御指南乞う

 Kより -


「これでいいわね。ニコル」

「はい」

「鳩便使うわ」

「はいお嬢様…ただ…」

「?」

「鳩便を使う時は、必ず鳩担当からフリード卿へ報告が行きますが…」

「…構わないわ…あ、そうだわね…」


 カレンははたと気づく。

 フリード卿へ報告が行くということは、すなわちジェラルド様へ報告が上がるということだ。


「でも、行き先は聞かれても、中身までは聞かれないでしょ?」

「…たぶん」


 しかし、その予想は見事に外れた。


 その日のディナーの席で、ジェラルドはズバリと聞いてきたのだ。


「ストラトフォードのお母上宛に鳩を飛ばしたと聞いた」


 カレンはギクリとして、ディナーの手が止まる。

「…はい」


「急ぎの用事だった?」

 ジェラルドはまったくいつもの調子だ。


 カレンはゴクリと唾を飲み込んだ。

 その様子を、ワインを飲みながらジェラルドは見る。


「いえ…急ぎではありません。返信はおそらく手紙かと思うので…」


「何か頼みごとを?」

 口調は極めて優しいが、ジェラルドのその深緑の目がカレンを捕らえる。


「……」

 言うべきなんだろうか…

 カレンはカトラリーを一旦置くと俯いた。


「カレン?」


「…私は、私の自由はないのですか?」


 ジェラルドの動きが止まる。


 思わず口をついてしまった。

 カレンは片手で口元を覆う。


 …私ったら、なんてことを…!


 ダイニングの空気がシンと静まる。

 使用人達も固唾を飲んでいるのがわかる。


「…カレン、あなたはいつでも自由だ」


「!」

 思わず顔を上げてジェラルドを見る。


 先程までとは打って変わり、少し悲しげなジェラルドの顔があった。


「ジェラルド様…」

 どうしよう…。カレンは動揺した。


「あなたの個人資産も自由に動かしていい」


「!!」

 ご存知だったのね…!


 カレンは目を瞠いた。


 ジェラルドはその顔を見て、静かに微笑む。

「カレン、私達は婚約している。あなたの指にその指輪を嵌めたのは私だ…さすがにストラトフォードに居る時よりは窮屈かも知れないが…その指輪をしている限り、私の最優先事項はあなただ」


「……」

 最優先事項…?

 カレンは驚き過ぎて、声も出ない。


 ジェラルドはその顔を見て、クスリと笑う。

「わかった?カレン?」


「は…はい」

 カレンはやっとのことで答えた。


 ジェラルドはニッコリ笑う。深緑の瞳が温かく揺れる。

「では食事を続けよう」


 部屋中が「ホッとした」瞬間だった。


 ・


 ディナーの後、カレンの自室。


 なんという懐の深さなんだろう…


 カレンはジェラルドの言葉に心底驚いた。


 アルバートは、おそらく早い時点でジェラルド様に報告していたのだ。

 常に見張られていると言えばそれまでだが、すべて知ったうえで、ジェラルド様は私が話すのを待ってくれていたと言える。


 本当に優しい人なんだわ。

 もう少し、近づいてもいいのかしら…


 ・


 翌日の朝食の時、カレンは話したいことがあるから時間を作ってほしいとジェラルドに願い出た。


 ジェラルドはすかさずフリードに予定を確認し、その日の午後に執務室を訪れることになった。



「掛けて、カレン」


 カレンは言われるままにソファに腰掛ける。


「フリードは居ても?」

「構いません」


 ジェラルドはカレンの向かいに座った。


「それで?」


「はい。ダヴィネス直轄の孤児院へ図書室を寄贈したくて…」


 ジェラルドは頷く。

「素晴らしい提案だ」

 この事は既にアルバートから聞いている。


「いいえ…あの、私の個人の資産で…匿名で寄贈したいのです」


「訳を聞いても?」


 やはり深緑の瞳に見つめられると緊張はするが、夕べのジェラルドの言葉を信じて、カレンは続ける。


「蔵書が少ないと感じました。古くもなっていましたし。実用的な目的としての識字率の向上や算術ももちろん大切ですが、幼少期の読書体験は一生の宝物です。ひとりひとりの世界を広げるお手伝いができればと…」

 鳩便は蔵書の相談を王都のアリシアへするためでした。

「あと…」


 カレンは言葉を選ぶ。


「私はまだ婚約者なので、出すぎた真似はしたくありません。ゆえに…もしこの先私がどうこうあっても、私の名前は残らない形で寄贈したくて、個人の資産で…」


 カレンは知らず、段々と俯いた姿勢になり、自然と膝上に重ねた手の、指輪に目を落とした。


 “どうこう”とは、カレンがダヴィネスを去ることを意味した。


 ジェラルドも、フリードさえも黙ってカレンの話を聞いている。


「…よくわかった。フリード」

 ジェラルドは“どうこう”の部分には触れない。


「はっ」


「アルバートを呼べ」


「畏まりました」


 家令が執務室に呼ばれ、カレンの資産から図書室設立の金額を試算した。


「ざっと…あなたの個人資産の三分の一だ」


「はい」


 ジェラルドは少し考えた。


「カレン…これは提案なのだが、費用はあなたの個人資産ではなく、すべて私に手伝わせてもらいたい」


「! それでは寄贈の意味がありません」


「いや、蔵書のことはあなたが気づいたからこそだ。直轄なのだから…本来は私が作るべきものだ」


「でも、」


「心配しなくていい。予算は私の個人資産から出そう、アルバート」


「いいえ、私の勝手な提案です。ジェラルド様の資産を目減りさせるわけには…」


 アルバートは二人の間でどうしたものかと視線を泳がせる。


「…では、折半はいかがですか?」

 黙っていたフリードが割って入った。

「婚約者同士で半分ずつ。一番スッキリする形かと思いますけど?」


「…」「…」


「私もフリード卿に賛成です」

 アルバートも同意する。


 カレンは否とも諾とも答えられない。


「カレン、私もフリードの意見に賛成だ」


「…わかりました。ありがとうございます」


 ジェラルドは微笑んで頷く。


 アルバートは「では早速見積もりを…」と言いかけた。


「あの、ジェラルド様、」


「?」


「折半でしたら…直轄の孤児院だけでなく、ダヴィネスすべての孤児院へ寄贈したいのです…

 その費用はもちろん私の資産で…」


 ジェラルド、フリード、アルバートの3人は顔を見合わせる。


 …厚かましかったかしら…


「…カレン、ゆくゆくはその方がいい。だが今回はまずは直轄の孤児院へだ。冬が来る前に済ませるためにも」


 そうだ、直轄以外へは交渉も生じる。

 カレンは自分の浅はかさに恥じ入る。


「すみません…わかりました」


「いや、子ども達のことを思ってくれてありがとう。カレン」

 ジェラルドは微笑んで律儀に礼を述べた。


 カレンはその微笑みが、深緑の瞳の輝きが眩しい。


 アルバートが退室し、カレンも席を立とうとした。


「カレン、少し聞きたいことがある」


 ジェラルドがカレンを引き止めた。

「? はい」


 カレンは改めて座り直す。


「…私の邪推ならば先に謝るが…孤児院に関することで、何か他にも気になることがあるのでは?」


 これにはカレンもハッとする。


「あの…」


「?」


 キンバリー・トランのことを、話すべきか…。


「私、外しましょうか?」

 フリードが気を遣う。


「あ、いえ、構いませんフリード卿」


 そうですか、とフリードは応える。


 カレンはふう、と息を吐くと話し始めた。

「…先日、ベアトリス様と孤児院を訪れた際に、偶然お会いしたのですが…」


「誰と?」


「…ミス キンバリー・トラン…です」


「…トラン」

 ジェラルドは考える。

「トラン商会か」


「ジェラルド、しつこく迫ってきてた子女の」

 フリードが捕捉する。


「! ああ、思い出した。あの我が儘娘だな」


 ジェラルドが少し嫌そうにする表情は珍しい。

 カレンは思わずクスリと笑ってしまい、口許を手で覆った。


「それで?…まさか何かされた?」

 少し焦っている。恐らく、栗の一件を思い出したのだろう。


「いいえ、そうではありません」

 嫌味は言われたけれど。

「確か、要注意人物リストにトランの名前があったかと…」


「!」

 途端に、ジェラルドとフリードの目が真剣になる。

 それだけで室内の空気がガラリと変わり、カレンは緊張した。


「…カレン、何を?」

 ジェラルドが真っ直ぐにカレンを見る。


「いえ今は何も!…ただ、トラン商会絡みで、ベアトリス様が気を病まれていたことが気になって…。客観的に見ても、ミス トランはなかなか手強い方のようですし。今回の図書室の寄贈と絡めて、何かいい案はないかと思案いたしましたが、なかなか思いつかず…」


 ジェラルドとフリードは顔を見合わせた。


「カレン」

「はい」

「左手を」


 カレンは言われるまま、左手をローテーブル越しにジェラルドへ差し出した。


 ジェラルドはカレンの手を取ると、その大きな手でカレンの細い手を柔らかく握る。

「私への相談無しで、思いきった策には出ないと約束して欲しい」

 話す間中、ジェラルドの親指はカレンの薬指に輝く指輪をなぞる。

 その深緑の瞳は真摯にカレンへと訴えかけていた。


 カレンは優しくも有無を言わせないその感触に、心臓が跳ねるのを感じる。


「…はい。何も思いつきませんし、彼女には偽名を使いましたので、私がジェラルド様の婚約者だとは知られていません」


「偽名?」


「とっさに。その方が良さそうでしたので…」


 ジェラルドはなるほど、と言うと、カレンの指輪ごと左手にキスを落とした。


「カレン、近々一緒に孤児院へ行こう。その時は私の婚約者として」

 ジェラルドは口許に悠然とした笑みを浮かべた。


 院長やシスターにはカレンの身元は明かしている。

 偽名はあくまでミス トランに対してのみだが…。


「…はい」


 カレンは飲み込めない顔だが、ひとまずはジェラルドに同意した。


 ・


 数日後、カレンとジェラルドは城塞街の孤児院へ一緒に来ていた。


 二人は馬車だが、いつもより護衛の数が格段に多い。

 カレンはジェラルドと一緒だからかな、と思い、あまり気には留めなかった。


 しかし、今日はなぜか、ニコルに“お出かけ”用のドレスを着せられた。孤児院へ行く時はいつも華美でないデイドレスなのに、ニコルは「ジェラルド様のご指示ですから」と言い、さっさと着付けられてしまった。


 少し腑に落ちないが、カレンは黙っていた。



「まあまあ、お二人でお越しとは!ありがとうございます」

 満面の笑みの院長やシスター達、通いの手伝いの女性や料理人に迎えられる。

 子ども達もパリッとアイロンのかかった服を来ていて、緊張した面持ちで出迎えてくれている。


「ようこそ!閣下、レディ」

 カレンは小さな女の子から手作りのブーケまで渡された。


「まぁ、ありがとう。……あ、あの…」


 いつもはなるべく自然な形で訪れるようにしているので、改めて盛大に迎えられると返って戸惑う。


 ジェラルドと院長が訳知り顔でカレンへニッコリと微笑む。


 もしかして、何かある…?


 服装の指示といい、盛大なお迎えといい、何か引っ掛かる。


 カレンは、早速庭で騎士達と遊びはじめた子どもの姿を横目に、院長の案内で応接室へ通された。

 それにしても、門扉やその外まで護衛が立っている。これでは一目でジェラルドが居ると言っているようなものだ。


 …わざと? でもなぜ……?

 カレンは、横に立つジェラルドを見上げた。


「?」

 ジェラルドはカレンの視線へ応えるが、至って普段通りだった。



「この度は図書室の寄贈、誠にありがとう存じます」

 応接室に落ち着くと、いの一番に院長から礼を述べられた。


「カレンの提案です。ダヴィネスの子ども達の世界を広げたいと」

 ジェラルドがカレンの顔を見ながら応える。


 院長はうんうんと頷く。

「レディにはいつも本当によくしていただいています。子ども達の目線で…この間もご一緒に蹴球をしてくださって…」

 ホホホ、と笑う。


「蹴球か…」

 ジェラルドはカレンを面白そうに見る。


 カレンは赤面する。まさか院長にバラされるとは思ってなかった。


 カレンはコホンとひとつ咳払いをする。

「院長、蔵書候補のリストをまたお持ちしても?」


「もちろんでございますよ」

 院長はカレンの様子を微笑ましく眺める。


 と、なにやら外が騒がしい。

 子ども達の遊ぶ声ではなく、女性の甲高い声が聞こえる。


「来たな」

 ジェラルドが呟く。


 次いで扉のノックと共に、シスターのひとりが困り顔で現れた。

「失礼いたします。院長、ミス トランが…」


 シスターを遮り、いきなりミス トランが応接室に乱入してきた。


「ミス トラン?来客中ですよ?」

 院長が冷静に窘める。

 しかしキンバリー・トランは院長を無視して、部屋にいるジェラルドへ視線を据えた。


「ジェラルド様!ご無沙汰しております」

 挨拶の礼もそこそこに、ジェラルドへ媚びた視線を向ける。


「…」

 ジェラルドは座ったままで表情も変えず、応えない。


 ミス トランはジェラルドの反応を不信に思ったのか、あからさまにムッとした顔になり、ジェラルドの隣のカレンへと目線を移した。


「あら、あなた…この間モイエ伯夫人といた…ミス …ええと、」


「アラベラ・スタントです」

 カレンは至って普通に答えた。


 聞いた瞬間、ジェラルドと院長が揃ってフッと吹き出した。


「そうよ!ミス スタント…でもなぜあなたがジェラルド様といるの…?というか、あなたのその格好…?あなた、まさか貴族なの?」

 青い目から放たれる冷たい視線が、憎々しげにカレンへと注がれる。


「…あの…ええ、そうです」

 カレンは偽名を名乗ってはいるものの、こうしてジェラルドと一緒にいてはごまかしようもない。というか、ジェラルドはそれを狙った?


 カレンは隣のジェラルドを見た。


 ジェラルドは、さも面白そうにカレンを見ている。


「ミス トラン、まずはお掛けになっては?」

 院長が勧めた。


 いったいどういうことよ!?とプンプンしながら、キンバリー・トランはカレンの向かいにドサッと腰掛けた。


 いくら顔を利かせた商会の娘と言えど、通常貴族と同席することは遠慮するものだが、キンバリー・トランにはそのような考えはない。


 井の中の蛙は今日も世界の頂点に立っていた。


「ところでジェラルド様、婚約者様はミス スタントのことはご存知なのかしら?」


 ジェラルドはキンバリー・トランのことなど歯牙にも掛けていないが、カレンを攻撃するなら容赦はしないつもりでいた。


 だがカレンを見ると、まったくもって動じていない。

 これは高みの見物でもいいかも知れないと思い始めた。


「もちろん知っている」

 ジェラルドはカレンの右手を取るとそのままキスをした。


 その様子を見たキンバリーは、一瞬固まった。

 どうやら混乱したらしい。


 カレンも驚いたが…呆れた。

 どうやらジェラルドはこの状況を楽しんでいる。


 院長も、まっという反応だが、こちらも楽しんでいる風だ。


「…いったいどういうことなの?ミス スタント、説明してくださらない?!」

 キンバリーは気色ばみ、かなりの剣幕だが、カレンは落ち着いている。


「ミス スタント、少しお声を落とされてください。子ども達が驚いてしまいます」

 カレンはキンバリーへ苦言を呈した。


「子どもなんてどうでもいいわよっ!」


 部屋中がシンと静まる。


「…では、なぜあなたは慰問をなさるのですか?」


「それはっ…淑女のたしなみとして…そんなことより、あなた、ジェラルド様のなんなの?」


 本当にこのお嬢様は…。

 カレンはため息を吐いた。


「ミス トラン、あなたのおっしゃる淑女のたしなみとは、なんなのですか?」


「! それはっ、そう、富めるものが貧しいものへ施しを行うことよ」

 キンバリーはさも正しいこと、と言わんばかりに、ふんっと答えた。


「そうですか…。富めるもの…あなたはこの城塞街で手広く商いをなさってるトラン商会のご息女ですよね」


「ええそうよ」

 自らの金髪の巻き毛をクルクルともてあそびながら答える。


「なぜご自身を“富めるもの”とお思いですか?」


「なぜって…それは見ればわかるでしょ?お父様は成功してるもの。娘の私は“富めるもの”だわ。皆知ってることじゃない」


 カレンは、段々とムカムカしてきた。

「なぜお父様の功績があなたに関係するのですか?」


 キンバリーははぁ?と言うと

「そんなの、当たり前じゃない。金持ちの娘は金持ちよ。だからここへ施しもできるのよ」

 吐き捨てるように言い放った。


 院長の顔は心なしか寂しそうだ。


「あなたは、その施しに責任を持てますか?」


 この問いにキンバリーはキョトンとした。


「責任?」


「ええ」


「なんで責任なんて持たなくちゃならないのよ。お金さえ与えれば、大体のことは済むじゃないの。そんなの、貴族のあなたならわかってるはずだけど?」

 と、カレンをバカにしたように見る。


「ミス トラン」

 カレンは強い口調で呼び掛けた。


 キンバリーはビクッとする。

「な、なによ急に」


「責任を伴わない施しは、淑女のたしなみとは言えないわ」


 黙って二人のやり取りを見ていたジェラルドだが、真っ直ぐに背筋を伸ばしたカレンの横顔に釘付けになった。


 王都の社交界で完璧な淑女と言われたカレンを前に、淑女のたしなみを説くとは厚顔無恥も甚だしいが、カレンは外見のことだけを言っているのではないのは明確だ。

 キンバリー・トランはそれを理解できるだろうか?


「な、なんですって?」


「あなたのお金はあなたのものではないわよね。あなたのお父様が管理して、最終的にはあなたの手元にあるものかも知れませんが、そもそもは植物を育てたり、品物を作ったり運んだり、事務仕事をしたり…そんな方々がいるから、あなたが“富めるもの”として存在できているって、ご自覚はおありかしら?」


「へ?」


「勘違いをなさらないで。淑女なんてそんなにいいものではないわ。単なる形式に過ぎません。それより大切なのは…ご自身がいかに恵まれていて、これから先、どうやってそれを皆に返せるかということ。実は何も持たないちっぽけな自分が、どうすれば誰も悲しい思いをしなくても生活できるかを考え続けて、そして少しでも実行することができるか、です」


「……」

 キンバリーは大きく目を見開き、呆然としている。


「…あと、嘘をついてごめんなさい。私はカレン・ストラトフォード、ジェラルド様の婚約者です」

 と、ジェラルドの方を向いた。


「カレン…いや、アラベラかな?」

 ジェラルドは冗談混じりだが、まるで後光が差した様なカレンに尊敬の念を抱かずにはいられなかった。


 カレンの本名を聞いた途端、キンバリーは真っ赤になり、次に真っ青になった。


 そして、物も言わずに応接室から足早に去ったのだった。


 ・


「お説教が過ぎたでしょうか?」


 帰りの馬車の中で、カレンはジェラルドに聞く。


「いや、いい薬になっただろう」

 これでモイエへの横槍も無くなればいいが、とジェラルドは答える。


「あの、ジェラルド様、今日のことは計画なさったのですか?」


「ああ、いや、あなたから話を聞いた時、手の込んだ策を講じずとも、トランの娘はあなたの本来の姿を見さえすれば解決するやも、とは思った。だが、こんなに上手く運ぶとは思わなかった」

 ジェラルドは策士の顔を見せ、笑った。


 やはりそうだったのね…!


 物見高いキンバリー・トランの行動を見越して、わざと護衛の数を増やし、ジェラルドが孤児院へ来ていることをわからせたのだ。


 でも、本当にミス トランが変わるかどうかはわからない。


 カレンは難しい顔をした。


「カレン」

「はい」

「あとは彼女次第だ。あなたは正しいことをした。それは間違いない…ありがとう」


 ジェラルドははっきりと言い切る。

 それ程に、今日のカレンは素晴らしかった。


「…いいえ、私もお説教ほどには、まだまだです」

 ふふっと笑う。


 ジェラルドはたまらず、カレンの額へ口付けた。


「ところでカレン」


「? はい」


「アラベラは、あなたのセカンドネームで合っている?」


「あ、はい。ジェラルド様のセカンドネームは確か…」


「フィリップ」


「…ジェラルド・フィリップ・ダヴィネス…」

 カレンの呟く名前が、まるで特別のもののようにジェラルドには響く。


 ジェラルドは、そっとカレンの手を握り、その薄い甲に繊細なキスを落とした。


 ・


「お帰りなさい、ジェラルド。首尾は?」


「上々だ」


 上機嫌でダヴィネス城へ帰ったジェラルドは、執務室でフリードに迎えられた。


「それは良かったです…ご機嫌ですね」

 フリードは意味ありげに主の顔をうかがう。


 ジェラルドは微笑みを浮かべて、それに返した。


 ・


 幸いにも、この一件以降、トラン商会からモイエ伯爵への横槍は全く無くなった。


 それどころか、強固なビジネスパートナーとして、ダヴィネスを支える仕事を共に担って行くことになる。


 キンバリー・トランは、相変わらずの井の中の蛙振りではあるが、我が儘な振る舞いはめっきり鳴りを潜め、翌年には商会の職員と結婚し、トラン商会を夫と共に盛り立てることに注力した。


 ダヴィネス城の要注意人物リストは、また一行減ったと見ていい。

お読みいただきましてありがとうございます。

〈辺境の瞳〉シリーズは、第二弾(完結済)、第三弾(連載中)もございます。

あわせてお楽しみいただけたら幸いです。

よろしくお願いいたします!

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