61. 王都にて(上)
「レディ カサンドラ・カニングハム…?」
「ええ、今はカニングハム伯爵未亡人。一昨年に伯爵が亡くなってね。旧姓は確か…ボーフォート、元男爵令嬢よ」
王都ストラトフォード邸のタウンハウスの居間。
カレンは数日前に王都へ到着し、久しぶりの実家でのひとときを過ごしていた。
カレンの母、レディ ストラトフォードは午後のお茶の時間、ティーカップを傾けながらカレン相手に話している。
レディ ストラトフォードは筆頭侯爵家の夫人として、社交界を牽引する存在だ。王都の貴族事情にはもちろん通と言える。
カレンは母の口から出た名前を頭の中の貴族名鑑でパラパラと探す。
「あ」
思い出した。
まだデビューしたての頃、カニングハム伯爵家主催の夜会へ行ったことがある。
かなり年の離れたカニングハム伯爵と並ぶとまるで親子のようだったが、レディ カサンドラ本人はたおやかな印象の美しい方だった記憶がある。
レディ ストラトフォードは娘の「思い出した」という顔を見て頷く。
それがね、と少し眉をひそめてレディは続けた。
「あなたがこちらへ来る前の夜会で見たのよ」
「何を?お母様」
レディは眉をひそめたまま、続けた。
「…あなたの閣下とレディ カニングハムがワルツを踊ってるのを」
…?…
ジェラルドとレディ カニングハム?
カレンはすぐには思考が追い付かない。
だが、もし踊ったとしても、それは不思議ではないのではなかろうか。
ジェラルドはいくつかの夜会へ行ったと聞いている。夜会やサロンは情報収集や顔繋ぎの社交の場だ。その時に誰かとダンスすることもあるだろう。
カレンは母の言いたいことがわかりかねた。
「お母様、それが…なにか?」
カレンは素直に疑問を口にした。
レディ ストラトフォードはカレンのその言葉に目を見開き、次いで「あなた…知らないのね?」と驚きの言葉だ。でもまぁ、知らなくても仕方ないわね…と呟く。
「だから、何を?お母様」
カレンはもったいぶる母を急かした。
「昔ね、閣下とレディ カニングハムはお付き合いされてたことがあるのよ」
「え?」
「もう10年以上は前のことよ。ほんの短い間だけれど…もちろん閣下が辺境伯を継がれる前のお話。私も忘れ掛けていたけれど」
と、お茶を一口飲んだ。
「…」
今更ながら、母の情報網には感心する。
以前、ジェラルドの妹のベアトリスは、ジェラルドに女っ気はなかったと言っていたけど、レディ カニングハムとのことは単に知らなかったのか…
カレンは考える。
かつての恋人同志。
ひとりはまだ婚約中で婚約者は王都にいない。
ひとりは未亡人。
その二人がワルツを踊る…
カレンは胸の辺りがジワリと痛むのを感じる。
二人のかつてと今を知る者で口さがない連中ならば、どんなことを思うかは想像できる。
おそらく母は忠告としてこのことをカレンの耳に入れたのだろう。
王都での噂はやっかいだ。
レディ ストラトフォードはカレンの表情をじっと見つめている。
「…カレン、早いうちに閣下と適当な夜会に出なさい」
「…噂が広まらないうちに?」
レディは頷く。
「閣下がなぜレディ カニングハムとワルツを踊ったかは、もはやどうでもいいわ。とにかくあなた達には何の問題もないと公衆の面前で印象づけなさい」
…さすが、お母様らしいわ。
早めに手を打つに越したことはない。カレンだって、いらぬ噂に煩わされたくはない。
でも…
「あとね…ショーンがうるさいから」
母はまったくもう、と独り言ちる。
心配症の兄、ショーンが何を言ってくるか…
お兄様にも無用の心配は掛けたくない。
しかし、カレンは別のことを思っていた。
私はジェラルド様とワルツを踊ったことがない…!
・
ダヴィネスのタウンハウスに帰ると、ジェラルドはすでに王宮から帰り執務室に居るという。
まだ仕事中であれば声は掛けず、カレンは自室へ戻った。
「ふう」
カレンはソファへ腰掛ける。
「お嬢様、なにかお飲みものでもお持ちしましょうか?」
「そうね、お願い」
ニコルが飲み物を持って来る間、カレンは母の話のことを考えた。
レディ・カニングハム。かつてのジェラルドの恋人…。
母は10年以上前と言っていた。
ジェラルドはまだ10代、短期間の交際…いったい何があったのだろう。
そしてなぜ二人はワルツを踊ったんだろう…
カレンの知らないジェラルドの過去を詮索するつもりはない。
あれほどの人なのだから、恋人の一人や二人がいたとしても不思議ではない。
でも、ジェラルドの性格からすると、一度愛したら愛し抜く…よっぽどの理由がない限り、愛した人を手放すとは思えない。
まだカレンはジェラルドとは大きな夜会には出ていない。
カレンの体調のことを第一と考えるジェラルドは、カレンを伴っての社交に積極的ではなかった。
しかし魅力的な辺境伯と孤高の侯爵令嬢のカップルのことは、このシーズンの注目の的だ。
ゆえに、二人揃っての姿の前にジェラルドとレディ・カニングハムの噂が立つのは、ストラトフォードの家にとっては小さなスキャンダルだ。
母の忠告も最もだろう。
でも…
本当のところはどうなんだろう。
知りたい。
知りたいが、私は婚約者であって、夫人ではない。
かつての恋人とワルツを踊ったからと、問い詰めたり、咎められる立場ではない。
カレンはモヤモヤとした思いにため息を吐いた。
・
「カレン、何か気になることがある?」
その夜のディナーで、一泊してきたストラトフォードの家でのことなどを一通り話した後、ジェラルドがカレンに聞いてきた。
…なぜこうも鋭いんだろう
カレンはドキリとするが、努めて普通にしようと笑みを向けた。
「…いいえ」
「カレン」
ジェラルドは短いため息を吐くとカトラリーを一旦置いて、カレンの手を取った。
「話して欲しい」
深緑の瞳は、カレンの粒差な変化も見逃さない。
思いきって聞いてみようかしら…
「…あの」
ジェラルドは「ん?」という顔でカレンを見つめる。
「…私、ジェラルド様と」ワルツを…と言いかけて、やめた。
遠回しはやめよう。
「レディ・カニングハムはワルツはお上手でしたか?」
一瞬、部屋の中がシン…としたような気がした。
カレンはジェラルドと目を合わせたままだ。
握られた手に変化はない。
ほんの数秒だったかも知れない。
モリスがゴホン、と咳払いをした。
「カレン…何か誤解をしている?」
ジェラルドの探るような視線に、カレンは思わず顔が赤くなるのを感じて目を逸らした。
ジェラルドには答えず、ごまかすように重ねた手から自分の手を引き抜くと、すごすごと食事を再開した。
ジェラルドはカレンの様子を見るとクスリと笑い、食事を続行した。
・
タウンハウスは主寝室はひとつで、互いの部屋へそれぞれの扉で通じている。
カレンはバスタブに浸かりながら、ディナーの際にジェラルドへあまりにも直接的な質問をしてしまったことを後悔していた。
あれではまるで、私が嫉妬しているみたい…!
「…そうじゃなくて!」
「お嬢様?何がですか?」
入浴の介添えをしていたニコルが、カレンの突然の発言に驚く。
「! 違うのニコル」
カレンはブクブクとバスタブに沈んだ。
…いえ、違わない。
私は嫉妬してる。
ジェラルドの過去に。過去の恋人とのワルツに。
「お嬢様、またのぼせてしまいます!」
ニコルの慌てた声に湯から頭を出し、ふと下腹に視線を移し、手で触る。
日に日にふっくらとしてくる。
体調は落ち着いているが、今だに信じられない気持ちになる時がある。
人は急には親にはなれないものよね…
カレンは入浴を済ませると、ほてった体をソファで休ませていたが、知らず眠ってしまった。
・
「…」
カレンは寝室で目を覚ました。
パサリ、という紙を置く音が近くでしたかと思うと、頬にキスが降ってきた。
「気分は?…また入浴でのぼせたと聞いた」
耳元でジェラルドの幾分低い声がする。
重々注意はされていたが、カレンはつい入浴中に考え事をする癖があり、体調のせいか気温が高くなってからよくのぼせている。
「…ごめんなさい」
せっかく王都まで来たのに、ジェラルドをはじめ使用人達にも心配をかけ通しだ。
ベッドへはジェラルドが運んでくれたのであろう。
ジェラルドは眠るカレンの隣で上半身を起こしたまま、書類に目を通していたらしい。
カレンが起きようとすると、ジェラルドはすかさず抱き起こし、背中に枕をいくつか挟んだ。
サイドテーブルの水差しからグラスに水を注ぐと「飲んで」と、カレンの口許にグラスを寄せた。
言われるがまま、グラスの水をこくりと飲む。
ディナーでの発言のこともあり、カレンはなんとなく気まずくて目を合わせられない。
ジェラルドはそんなカレンを察したのか、カレンの手からグラスを取りサイドテーブルに置くと、カレンを自らの体に乗せて抱き寄せた。
「…あの、」
「レディ・カニングハムとは…」
突然のジェラルドの言葉に、カレンは思わずジェラルドを見上げた。
ジェラルドは微笑んでいる。
「…私が17の時に婚約前提で付き合っていた」
やっぱり。
「彼女の母親がダヴィネス出身ということで、紹介されたんだ」
淡々と話すジェラルドは、遠い過去を思い出すように前を向いた。
それは、王都での短い交際だった、とジェラルドは言った。
父辺境伯の死を持って、突然終わりを告げたことも。
「…レディはダヴィネスへは行かれないと…」
ジェラルドは頷く。
待つとは言ってくれたが、と続ける。
「その頃、辺境はまだゴタゴタしていて、私が代を継いだ時は戦況が慌ただしかった。何も約束はできない状態だった」
「でも、愛していたのでしょう?」
ジェラルドはカレンを見つめて髪を撫で、ふっと微笑む。
「…愛していたか…そうだな、大切にしたいとは思っていたかも知れないが…、あの頃の私に余裕は無かった」
気のせいか、ジェラルドの顔が悲しげに見えた。
カレンは胸のあたりが絞られるような感覚に囚われた。
17才のジェラルド。その気持ちを慮ることはできない。
愛する人との約束も交わせず…
そこから10年、辺境を治めて鬼神とまで謳われるようになったのだ。
聞くには安いが、犠牲にしたものは少なくはないだろう。
カレンには10年の重みの程はわかりかねるが、ジェラルドの顔が有に語っていた。
私は運が良かっただけだわ…
私の嫉妬や噂など、些末なことに過ぎない。
「カレン…」
カレンは何も言わず、ジェラルドの胸に顔を埋めた。
ジェラルドはカレンの額にキスを落とすと、瞼へもキスをした。
ゆっくりとジェラルドを見上げる。
「…ジェラルド、愛しています」
カレンはすべてを見透かすようなライトブルーの瞳で囁いた。
「ありがとうカレン、愛している」




