60. ダヴィネスの春
鳥の囀ずる声がする。
ヒバリ?マヒワ?
カレンは目を閉じたまま、軽やかな鳥の鳴き声に耳を傾ける。
雪解けを迎えたダヴィネスは、一斉に春の芽生えへと移り変わる。
柔らかな日差しに草木は芽吹き、ふわりと芳しい風が山々から運ばれる。
カレンは体調も良く順調そのもので、初めてのダヴィネスの春を心地よく迎えていた。
ただ、眠たい。
急な睡魔に襲われることはないが、昼寝は必ず取っており、朝は微睡みに身を任せていた。
今朝も柔らかな日差しが心地よく、鳥の囀ずりをベッドでぼんやりと聞いていた。
カレンの朝寝坊を咎める者はいないので勝手をしているが、お蔭でジェラルドと朝食を共にできていない。
あと数日で、東部平定の祝賀のためにジェラルドは王都へ向かう。
カレンは来月の安定期に入ってから王都へ行くことになっている。
ジェラルドはカレンの王都行きに難色を示していたが、陛下のたっての希望もあり、渋々認めた。体に負担の無いよう、旅程は余裕を持たせ、侍医も同行させるという慎重さだ。
カレンはジェラルドと長期間離れることが嫌だったし、久しぶりに母や親友とも会えるので王都行きに異論はない。
ただやはり、王宮へ行くことは少し抵抗があった。
王宮のどこかには第二王子がいるのだ。
しかしジェラルドと一緒ならば…と、努めて前向きにそう思うことにした。
「お嬢様、起きられますか?」
ベッドで微睡んでいると、ニコルが声を掛けてきた。
「ええ、そうするわ」
ここ(ダヴィネス)では、私は何不自由なく守られている。
それはとてもありがたいが、ふと、私のすべきことは何なのだろうと思う時がある。
領主補佐のデスクワークはこなしているが、概ね大人しくしていなければならないため、恐らくストレスが溜まっている。
カレンはブランチを済ませると、散歩に行くことにした。
本当は馬に乗りたくてたまらないが絶対禁止なので、厩舎へは馬の様子を見に行くに留まる。
(本当はこれもジェラルドに禁止されそうになったがせめて、と死守したのだ)
カレンと同じく妊娠しているキュリオスや、カレン以外も乗せるようになったオーランド達の様子を見ると、馬場の横を通り門をくぐり、いつもは乗馬で駆け抜ける開けた平野へ出る。
乗馬コースとは逆方向に、大きな木の1本立つなだらかな丘があり、カレンはよくそこまで散歩をしていた。
庭を散歩するよりは“運動した”感があり、見晴らしも良いので気に入っていた。
ニコルとハーパーが付いてきて、カレンの座る場所を作ってくれる。
大きな木の木陰に座り、ダヴィネスの早春の景色を眺める。
耳元で風のそよぐ音がする。
青々とした草は、ほんの短い芽を丘中にのぞかせている。
春先に咲く花は、蕾を抱いている。
カレンはダヴィネスの雪景色も好きだが、春の景色にも心を奪われた。
“何もしないでいる”罪悪感のようなものからも、解き放たれる気がする。
頭をカラにして、心の中に風がすーっと通って行くような感覚に身を任せた。
少し離れた所で、ニコルとハーパーが何か話している。
…二人の恋に進展はあったのだろうか?
話す内容は聞こえないが、二人の距離感から、あまり進展は無さそうな感じだ。
でもあきらかにハーパーの雰囲気が前のめりなのはわかる。
…ニコル、迷ってるのかしら…?お似合いだと思うけど…
考えても仕方ないわね…
カレンはクッションを枕にして横になった。
人の恋愛に首を突っ込むのはカレンの得意技ではあるが、ことニコルに関しては様子を見ることに徹している。
心地よい風が頬を撫でる。
カレンは目を閉じた。
・
「…レン、カレン?」
「…ん…」
「カレン」
ジェラルドの声だ。
カレンは目を覚ました。
目の前に心配そうなジェラルドの顔がある。
起き上がると、全身が汗ばんでいることに気づく。
「カレン、うなされていた。大丈夫か?」
ジェラルドがカレンの顔を覗きながら、片手で頬を包む。
「…ジェラルド様、お仕事は?」
「城塞街から戻ったところであなたを見つけた」
言いながら、カレンの顔に張り付いた髪を丁寧に取る。
「それよりカレン、悪い夢でも見た?汗をかいている」
少し離れた所で、ハーパーがスヴァジルの手綱を持っている。その横で、ニコルが心配そうにこちらを見ている。
「…いいえ、大丈夫です」
悪い夢だったのだろうか…覚えてはいないが、鼓動は速い。
ジェラルドは短いため息を吐き、カレンを抱き寄せた。
「…私のカレンはたまにとても頑固で困る。未だこうも他人行儀だと、いかな私も自信をなくす」
幾分ちゃかした風にジェラルドが抗議する。
カレンは顔を上へ向けてジェラルドの顔を見た。
「ごめんなさい、ジェラルド様。でも本当に大丈夫なの」
ジェラルドはしばらくカレンの顔を見つめたが、最後には「わかった」と告げ、カレンの額にキスを落とした。
・
その日の真夜中、カレンはハッと目を覚ました。
昼間のようにうなされてはなかったと思うが、心地よくはない。
そっと隣を見ると、ジェラルドは規則正しい寝息を立てている。
このまま眠れそうもなく、ジェラルドを起こさないように細心の注意をはらい、ゆっくりそうっとベッドを抜けた。
忍び足でバルコニーへ近づき、音を立てないようにガラスの嵌まった扉を開ける。
瞬間、春宵の香りに包まれホッとする。
バルコニーへ足を踏み出し手すりへ近寄ると、夜の空気を胸いっぱいに吸い込む。
ふと、お腹へ手をやる。
確実に日々育っている。
この子を守るのが今の私の役目よね。
カレンは手すりに肘を付き、頬杖を付いた。
昼間の夢見の悪さは、意識はしていないが、恐らくジェラルドと離れることへの不安と、王都へ王宮へ近づくことへの不安からだ。
第二王子は怖くはない。
今までも夢に見ることなどなかった。カレンひとりならば、何とでもなると思っている。
だが、今はこの子がいる。
いざという時、守れるのかしら…
あれこれと考えはするものの、解決策は思い付かない。
「ふう…」
重いため息を吐き、振り返る。
!
バルコニーの出入口に腕組みをしたジェラルドが立っている。
上半身は裸のままだ。
顔は無表情と言っていいが、深緑の瞳はじっとカレンを見つめている。
「…ジェラルド…」
人の気配に鋭い人なので起きるかもとは思っていたが、読み取れない表情にカレンは戸惑った。
怒ってるのかしら…?
「ジェラルド様ごめんなさい。起こしてしまいましたね」
「……」
黙っていると凄みが増す。
カレンは慌てて室内へ入ろうとした。
ジェラルドは黙ってカレンに手を差し出し、片手は腰を支えた。
「…ありがとうございます」
カレンはベッドへ戻ろうとしたが、ジェラルドはカレンへガウンとブランケットを羽織らせ、外履きを履かせた。
自身もガウンを羽織ると、カレンの手を取り扉を開けて廊下へ出る。
「…あの、ジェラルド様?」
カレンの問い掛けにも無言だ。
だが、カレンに触れる手はいつもの通り驚くほど優しい。
前にもこんなことがあった。
尖塔へ登った時だ。
あの時もどこへ行くのかは告げられなかった。
廊下を歩き、階段を降りると使用人部屋の横の扉から庭へ出た。
後ろのカレンを振り返るとようやく口を開いた。
「足元に気をつけて」
優しい口調にホッとする。
カレンは首肯だけした。
春の夜の庭。
少し肌寒さはあるがブランケットのお陰で気にならない。
微かな月明かりの中、植物の気配を感じる。
咲き始めたばかりの花の香りが夜の帳のなかで芳しい。
ジェラルドに手を引かれるままゆっくりと庭を歩き、ガゼボのひとつにたどり着くと、促されて座る。ガゼボにはクッションが配されているので座り心地に問題はない。
隣にジェラルドも座る。
手は繋いだままだ。
ガゼボには控えめなランプが灯されている。
ジェラルドの顔を見ると、穏やかな表情だ。
「眠れない時は思いきって散歩もいい」
「…」
起こしてしまった手前カレンは何とも言えないが、真夜中にジェラルドと庭に居ることが不思議だった。
しばらく無言で座っていたが、ジェラルドが口火を切った。
「話して、カレン」
顔を上げてジェラルドを見ると、心配そうな顔だ。
恐らく、昼間にうなされていたことからの続きだろう。
やはりジェラルドには隠し事はできない。隠していたつもりはなくても、カレンの心内を見透かしているのだ。
「…どうやったらこの子を守れるのかなと思って…」
繋がれていない方の手をお腹に充てた。
「王都には行きたくない?」
「いえ、そうではなくて…確かに、ジェラルド様と離れるのは嫌ですが…」
カレンはそのライトブルーの瞳でしっかりとジェラルドを見る。
ジェラルドは変わらずカレンを見つめている。
夜の闇は、いつもよりカレンを素直にしたのかも知れない。
「ただ…」
「ただ?」
カレンは思いきって口にする。
「第二王子のことは、やはり気になっています。私ひとりであれば戦えますが、今はこの子を守らないと」
「…カレン」
ジェラルドは繋いだ手を口元に寄せるとキスした。
「戦うのはあなたではなく私だ」
深緑の瞳が、ランプの仄かな灯りに揺らめく。
「何かあれば容赦はしない」
獣のような気配を感じ、カレンはゾクリとする。
「…でも、相手は王族です」
「関係ないな」
ジェラルドはサラリと、笑みさえ浮かべて言うが、本気であることは間違いない。
そうはならないことを願うばかりだが、その力強い言葉がカレンは嬉しかった。
孤軍奮闘が常のような気がしていたが、ジェラルドはそれを何度も何度も根気よく覆してくる。
頼っていい、甘えていいと、恐らくこれからも諭され続けるに違いない。
当たり前のようにすべてを受け入れるにはまだ時間がかかるかも知れないが、ジェラルドの大きな愛には応えたかった。
しばらく他愛ない会話をしていたが、ジェラルドがカレンの体が冷えるのを気遣った。
「…そろそろ戻ろう」
カレンは少し残念な気がしたが、戻ることにした。
来たときと同じように手を引かれる。
寝室に戻ると、ジェラルドはカレンを抱きすくめ、キスをした。
いきなりの深い口付けでカレンは一瞬驚いたが、素直に受け入れる。
そして考えた。
…たぶん、もう大丈夫。
カレンは、ジェラルドの胸に手を付いて距離を置いた。
ジェラルドは「なぜ?」という顔をしたが、次のカレンの行動に目を瞠いた。
カレンはブランケットとガウンをするりと床に落とすと、次にナイトウェアのリボンをほどいた。
「…カレン?」
ジェラルドはあきらかに戸惑っている。
「…もう、大丈夫だから…」
「しかし…」
カレンは微笑む。
カレンも一応の知識はある。
体調は安定しているので、構わないと判断したのだ。
「…ジェラルド」
誘うようにライトブルーの瞳をランプの薄灯りに揺らめかせ、両手をジェラルドの首へ回した。
ジェラルドの瞳が一気に欲望の色を濃くし、再びカレンの口を塞いだ。
背中に回ったジェラルドの手が熱い。
ジェラルドは慎重にカレンを横抱きにしてベッドへ横たえると、自らもガウンを脱いだ。
…ジェラルドが緊張しているのがわかる。
数ヶ月、ジェラルドには愛撫しかされていない。
でも今日はどうしてもジェラルドが欲しかった。
横たわるカレンの肢体を、ジェラルドの揺らめく瞳がゆっくりと這う。
ふと、カレンのふっくらとした下腹で視線が止まった。
「…お腹、気になりますか?」
もしかすると、ジェラルドはその気になれないかしら、ともカレンは思っていたので、素直に聞いてみた。
ジェラルドはカレンの言葉に意外そうな顔をして、微笑んだ。
次に、優しく手を充て恭しくふっくらとした膨らみへと口付けた。
「余りにも美しく神々しくて…畏れ多いが…」
と言いながら、カレンに力を掛けないように覆い被さる。
「あなたを抱きたくて堪らない」
「!」
官能の色香を纏うと、カレンの口を塞いだ。
カレンはこの上なく優しくジェラルドに愛され、その腕の中で眠りについた。
・
翌朝、春の日差しの中、カレンは久しぶりと言って良いほどスッキリとした目覚めを迎えていた。
ニコルも驚くほどに顔色も良く、何も問題はない。カレン自身も驚くほどに体が軽い。
「こんなことってあるのね…あなたも望んでたってことでいい?」
カレンは微笑みながら、お腹に向けて呟いた。
その日の朝稽古、鍛練場ではアイザックがジェラルドにこてんぱんに打ちのめされ、不満タラタラだった。
「ったく、今日のジェラルドのやつ、ヤバいぜっ 少しは手加減しろっつーの」
「まあまあそう言わず…どうやらいいことがあったみたいですね」
フリードは兵士達相手に木剣を奮うジェラルドを眺めながら、アイザックを慰めた。
「いいコトぉ?」
それには答えず、フリードはニヤリとする。
アイザックはその顔を見てすぐに察した。
「あ!やっぱり姫様絡みか!」
「ははは、まぁ、それ以外はあり得ませんね」
「お前も打ちのめされろ!」
「それは遠慮します」
ダヴィネスの春。
数日後、ジェラルドは王都へと旅立った。




