57.【番外編】ヘレナ滞在記(1)
※「二度目の見送り」の後のお話です。
姉のヘレナがダヴィネス城へ来てから10日ほど経つ。
ヘレナはなにくれとなくカレンを気遣い、カレンは一時のような体調の悪さは脱し、皆を安心させた。
なにより、気兼ねなく頼れるヘレナの存在がありがたかった。
カレンはヘレナが退屈をしているのでは?と思って聞いてみたが「いえ、全然」と実にあっさりと返ってきた。
聞くと、カレンが眠っている時に図書室へ行ったり、オズワルドに料理のレシピを聞いたり(書き留めるのは姉の侍女だが…)、城のワインセラーの見学や、なんとカレンもまだ行ったことのない酪農室まで覗いたという。
次は城塞街へ遊びに行くことを楽しげに計画していた。
しかも子守りはナニーと騎士達が代わる代わる担うので、ありがたくゆっくりさせてもらっているから心配いらない、とのことだった。
「ほんとにね、なんだか久しぶりに伸び伸び過ごさせてもらってるのよ」
と、心から寛いでいるようで、カレンもホッとした。
カレンは、ヘレナがダヴィネスへいる間に是非会わせたい人物がいた。
年末の晩餐会での歌姫、ミス ジョアン・グレイ。
ヘレナは芸術に造詣が深く、隣国は芸術大国だ。しかもヘレナ自身、ピアノの名手で歌唱もすばらしい。
カレンはミス グレイに歌を教わっていたが、東部のことやカレンの妊娠があったりで、レッスンはお休みにしていた。カレンの体調も落ち着き、ヘレナが滞在している今、是非ともミス グレイの素晴らしい歌声を姉に披露したかったのだ。
・
お茶の時間も近い午後、ダヴィネス城の娯楽室にカレン、ヘレナ、ミス グレイは居た。
ミス グレイはヘレナへの歌の披露を大変恐縮していたが、カレンが是非にと頼み込んだ形での対面となった。
「では、私の伴奏で申し訳無いですが、ミス グレイに唄っていただきます」
ヘレナはカレンのピアノの腕前を知っているので、カレンの言葉に失笑しながら拍手した。
ミス グレイは一度大きく深呼吸し、ピアノに座るカレンを振り返ると、互いに微笑み合って頷いた。
ポロン…
伴奏がはじまる。
ミス グレイが一声あげた途端、姉の顔が変わるのをカレンは見た。
そうそう、びっくりしたでしょ?お姉様?
ミス グレイは、いつもの落ち着いた堂々とした歌いっぷりだ。
カレンは伴奏しながら姉の様子を観察した。
はじめはまず大層驚き、曲が進むにつれて前のめりになって何やら真剣な顔で集中している。最後には目を閉じて微笑みを浮かべたまま、ミス グレイの歌声に聞き入っていた。
ミス グレイが歌い終わるとヘレナはゆっくりと目を開け、立ち上がって盛大な拍手をした。
「素晴らしいわ…!!」
ミス グレイは恥ずかしそうに頬を染め、ヘレナに礼を取った。
・
「すごい歌い手がいたものね…!」
三人でお茶を共にし、ミス グレイが帰った後、ヘレナは改めてカレンに感想を言った。感心しきりだ。
「私も最初に聞いたときはとても驚きました」
「彼女なら、すぐにでも王立歌劇団の歌姫になれるわね…でもその前に何年か学院で学ぶことを是非薦めたいわ」
ヘレナは隣国への留学を薦める気満々だ。
芸術大国の隣国にはあらゆる芸術家を育てるべく、手厚いシステムがある。我が国出身の芸術家も数多く存在し活躍しているのだ。
カレンも、恐らくそういう話になるのではないか…と予想はしていた。実際姉のあまりの乗り気に驚きもしている。
しかし、最も優先すべきはミス グレイの気持ちだ。それに…
カレンは、ミス グレイの心中と、現在ジェラルドと共に東部にいる、ある人物のことを思った。
・
「なーにぃー?!」
東部駐屯地、隣接するシャムロック平定が決まり、ジェラルドとアイザックは連日シャムロック領地内を視察していた。
アイザックは、城から来た郵便物のひとつ…ジョアン・グレイからの手紙を読んで、驚きの余り声を上げた。
「な、どうした、ザック?」
すっとんきょうな叫びにジェラルドが驚く。その場にいたウォルターもびっくり眼だ。
「や…いや、なんでもない」
アイザックは手紙を素早く胸元に入れた。
その様子を見て、ジェラルドは生ぬるくアイザックを眺める。
「…ミス ジョアン・グレイか?」
アイザックはジェラルドを睨む。
「ほっとけよ」
「話ならいつでも聞くぞ」
「いや、いい」
ジェラルドは含み笑いだ。
「…なんだよ」
「いや、お前もそんな顔をするんだなと思ってな」
「!」
アイザックは立ち上がると黙って部屋を出た。
「さみっ」
外気の冷たさに首を竦める。
東部は雪深く、まだ春の兆しはない。
「…留学、か…」
アイザックは、ジョアン・グレイからの手紙のことを考えた。
ジョアン・グレイとは、年末のダヴィネス領主主催の晩餐会で初めて会った。
東部を任されたグレイの従姉妹で、王都からダヴィネスの伯母…ミセス グレイ…の元へ身を寄せているとのことだった。
見たからに大人しそうで、楚々とした美しさだった。最初に晩餐会で会った時は、特に気には留めなかったが、余興で歌う姿を見て頭をガツンと殴られた程の衝撃が走った。
自分でも何が起こったのかわからなかったが、それからは気になって仕方なかった。
年が明けて、姫様の歌のレッスンのためダヴィネス城へ来る度に、用も無いのに娯楽室や廊下で偶然を装い、会いに行った。…恐らく勘のいい姫様にはモロバレだったに違いない。
会う度、ジョアンは恥ずかしそうに微笑む。
なぜこれ程までにジョアンのことが気になるのかは、よくわからない。
ただ、普段の控えめな姿と歌う時の堂々とした姿が頭のなかで重なり、もっと彼女のことを知りたいと思うし、恥ずかしそうに笑う顔をもっと見たいと思う。
だが…
俺が手を出していい相手じゃない
アイザックは降りしきる雪の中、空を見上げて白い息を吐いた。
~
辺境ダヴィネス軍第一騎士団長・筆頭騎士のアイザックは、名実ともにダヴィネス一の騎士だ。
幼い頃に戦で両親を亡くし、城塞街でやさぐれている所をジェラルドの父である前辺境伯に拾われダヴィネス軍へ入った。
すぐにめきめきと頭角を現し、剣術においては右に出るものはいない程になり、順調に従騎士から騎士へと昇進し、騎士の最高位である第一騎士団団長まで昇り詰めるまでにそう時間はかからなかった。
フリードと一緒に常にジェラルドと行動を共にし、いくつもの戦禍をくぐり抜けてきた。
その名はダヴィネス中に轟き、それは領地外にまで及ぶ。
当然、女も寄ってくる。
アイザックは、女性とは専ら後腐れのない関係を好んだ。
酒場で出会った女や一夜限りの未亡人、大っぴらにはできないが、その筋の女等…。
今となっては最高位の騎士ではあるが、そもそもは孤児だ。己の身分は心得ているし、堅苦しく身を固めるなど考えたこともなく、独り身の身軽な今の生活に満足していた。
していたと思っていた。
ジョアン・グレイに出会うまでは…
主であるジェラルドは姫様に夢中だし、フリードは長年のレディ パメラへの思いを実らせ、先日結婚した。
自分は彼らのような恋はしないと思っていた。
部下達の結婚も全くの他人事だった。
しかし、ジョアンに出会ってからは、今までの考えがモロモロと崩れるのがわかる。
東部で初めてジョアンからの手紙を受け取った時は、心底驚いた。
彼女とは二人で話したことはない。
ただ一度だけ、偶然城塞街で偶然会ったことがある。
その時も大した話はしなかったが、アイザックの顔を見て、嬉しそうに「またお城にお伺いします」とはにかんだ顔が印象的だった。
ジョアンからの手紙には、たわいのない日常のことや、城塞街での出来事、姫様とのレッスンの様子…に加えてアイザックの体を気遣う、彼女らしい控えめな言葉が書かれていた。
ものすごく嬉しかった。
戦場への手紙など、今だかつてもらったことがなかった。
騎士や兵士の奴らが家族からの手紙を肌身離さず身に付けている気持ちが、初めてわかった。
そのジョアンからの何通目かの手紙の内容に、アイザックは唖然とした。
今、ダヴィネス城には姫様の姉君の隣国の王太子妃が滞在しており、ジョアンは歌を披露したらしい。
妃殿下はジョアンの歌声に大層感激し、芸術大国の隣国への音楽留学を薦めたとの内容だった。
ジョアンは、迷っていると書いていた。
ジョアンの歌の才能は素人の自分でもわかるほどに素晴らしい。妃殿下が留学を薦めるのも無理はない。
しかし、もしジョアンが留学すれば、何年も会えないことになるのか…?
隣国で花開き、下手をすれば一生会えないかもしれない。
アイザックは言い知れない不安が心を覆いつくすのを感じた。
「俺は…どうしたいんだ、一体…」
アイザックは上着の上から、胸にしまったジョアンからの手紙を握った。
~
アイザックが頭に雪の粒を乗せて執務室に帰ってきた。
「おーさむっ」
と、暖炉に近寄る。
部屋にはジェラルドだけだ。
「また降ってるのか」
ジェラルドが書き物から顔を上げずに尋ねる。
「ああ…ここは春が遠いな」
「そうだな」
部屋の中に、パチパチと暖炉の薪のはぜる音が響く。
「…なあジェラルド」
「ん?」
「いつ姫様のこと『この女だ』って思ったんだ?」
唐突な質問に、ジェラルドのペンの動きが止まり、顔を上げてアイザックを見た。
アイザックはいつもの調子ではなく、真面目な顔だ。
これは茶化さない方が良さそうだと判断した。
「…そうだな…」
ジェラルドはしばし考える。
「私の場合は政略結婚だからな。相手がカレンで幸運だったが…敢えて言うなら“段々”だ」
「なんだそりゃ?」
アイザックは拍子抜けする。
「少しずつ、ということだ。少しずつカレンを知って…その度にどうしようもなく惹かれた。絶対に逃したくないほどにな」
「姫様、お前に絡め取られたってワケだ」
「人聞きは悪いが、まぁそうだ」
ジェラルドは泰然と微笑む。
「……」
「ザック」
「なに」
「心を動かされる相手には正直になれ。でないと後悔するぞ」
ジェラルドは、アイザックのよく知る真っ直ぐな深緑の瞳で言う。
「…わかってるよ」
アイザックはジェラルドの視線を避けるように、暖炉の炎を見つめた。
・
「せっかくのご推挙にも関わらず…申し訳ございません」
ミス グレイがヘレナに歌を披露して、ヘレナが隣国への留学を薦めてから数日後。ダヴィネス城には、ミス ジョアン・グレイが改めて隣国王太子妃のヘレナとカレンを訪れていた。
ヘレナを前に恐縮し小さくなったジョアン・グレイは、留学の断りを言うにつけ、益々小さくなった。
「…そうなのね。残念だけど、仕方ないわね…」
「本当にすみません…あの…今はここ(ダヴィネス)を離れたくなくて…」
ジョアンは眉を下げ、申し訳なさそうに理由を述べた。ただ、なぜ“離れたくない”のかは言わない。
ヘレナは見るからにガッカリした様子だが、その理由について深追いはせず、すぐに態度を切り替えた。
「そう…わかったわ。こういうことはタイミングもあるから…残念だけど今回は潔く諦めましょう。だからミス グレイ、そんなに恐縮なさらないでね。元はと言えば、私が勝手に言い出したことだし」
ヘレナは笑みを浮かべ、ジョアンはほっとしたようだ。
カレンもまた、二人の様子を見て自分がほっとしたことに気づいた。
「でも、もし気が変わったらいつでもいらしてね。待ってます」
カレンを通じて連絡をくれたらいいから、とヘレナは明るく締めくくった。
・
「恋人でもいらっしゃるのかしらねぇ…」
「え?」
ジョアンが帰ったあと、姉妹はダイニングでランチを取っていた。
ジョアンの留学話は終わったと思っていたカレンは、ヘレナの突然の追及にドキリとし、スープをすくうスプーンの手が止まった。
「カレンあなた…心当たりがあるんじゃないの?」
ヘレナはカレンと同じ瞳で妹を見る。
追及の手は鋭く伸びてくる。
…これは、正直にいうべきかしら…
カレンは「実は…」と、アイザックとジョアンの始まりそうな恋の予兆を白状した。
「…やだ。先に聞いておけば良かったわ…」
まるで私は邪魔者じゃないの…!
ヘレナはカトラリーを一旦置くと額を抑え、はぁーと大きくため息を吐いた。
「アイザックにはここへ来る時からお世話になったし、エリックも面倒を見てもらったわ…しかも彼ってジェラルドの腹心の部下よね?」
ヘレナはカレンをチラリと見る。
「え、ええ…」
「そんな身内みたいな人の恋路を邪魔してたなんて…やだもう」
ヘレナは今度は目を覆った。
「断ってくれて良かったわよ…私恨まれるところだったわ」
カレンは、姉のこういう所が大好きだ。
王太子妃となった今も少しも変わらず、常に相手の気持ちを大切にしてくれる。
「お姉様…そんな風に言ってくださってありがとうございます。私もミス グレイのお気持ちが一番だと思いますが…」
カレンは瞳をくるりときらめかせた。
「案外このことは、アイザック卿にしてみれば良いきっかけになるかも知れません」
と、末っ子らしくいたずらな笑みを姉に向けた。
「ま、この子ったら!」
ヘレナは呆れながらも、策士の顔を見せる可愛い妹を笑う。
…本当に、アイザック卿はどうお考えなのかしら…
カレンは気になる二人の行く末をムズムズと少し歯がゆい気持ちで思った。
・
「あ、」
「あ」
ジェラルド達が東部から帰還し、またヘレナも追いかけてきた隣国王太子や息子達と隣国へと帰った後、ダヴィネス城の廊下で、アイザックとジョアン・グレイは偶然鉢合わせた。
ジョアンは、隣国への留学を断ったことはまだアイザックには知らせていない。
「…久しぶり、だな」
「…はい」
言葉を交わすのは数ヶ月振りだ。
互いに微妙な距離を取る。
「今日は姫様のレッスン?」
アイザックは努めて普通を装って聞いた。しかし本当は隣国への留学がどうなったのか、知りたくてたまらない。
「…はい、レディのご体調も良くなられたので…」
「そっか…」
ジョアンはアイザックの目がまともに見れず、少し俯いている。
アイザックはその態度から、ジョアンは恐らく留学を決めたと思った。
「…いつ立つんだ?」
ズバリと聞くところがいかにもアイザックらしい。
ジョアンは首を上げて、長身のアイザックの顔を見上げた。
「え?」
二人の目が合う。
「…行くんだろ?留学」
アイザックは幾分沈んだ面持ちだ。
ジョアンはそのアイザックの顔を見て、ふわりと微笑み、次いできっぱりと言った。
「いいえ、行きません」
「…え?…」
アイザックはポカンとする。
ジョアンは、そのアイザックの表情に、思わず口許に手を充て声を立てて笑う。
「…え?」
アイザックもつられて笑う。
二人の恋はゆっくり、ゆっくりと少しずつ雪が溶けるように進む。
・
「アイザック卿って、とてもロマンチストなんですね」
「誰、なに?ザックのことか?」
ジェラルドは驚いている。
カレンは思わせ振りな顔でコクコクと頷く。
主寝室の大きな暖炉の前で、カレンとジェラルドは眠る前の語らいのひとときだ。
カレンはホットミルクを、ジェラルドはナイトキャップのウイスキーをそれぞれ手にしていた。
「ジョアン…ミス グレイから聞いたのです。非番の日には、必ずブーケを持って会いに行くとか」
ジェラルドはふむ…と考えながらウイスキーを一口飲んだ。
ヤツがロマンチストかどうか…カレンの言い様に、アイザックの数々の恋の浮き名を知るジェラルドは、込み上げる笑いを抑える。
しかしどうやらミス ジョアン・グレイには本気らしいことは、ジェラルドもかなり前から気づいていた。
「…ザックはそもそもよく目端の利く男だ。本気の相手にはそれなりの気遣いを見せても不思議ではないな」
ジェラルドの発言に、カレンは、ま!という顔をした。
「“本気の相手”…って…当たり前です!そうでないと困ります」
ジェラルドはおやおやと眉を上げる。
「ザックも年貢の納め時ということだ。これでアイツも私やフリードの気持ちが少しはわかるようになるかな…」
手を伸ばし、真面目顔のカレンの頬を柔らかくムニムニと摘まむ。
カレンはなおも納得のいかない顔だが、手元のホットミルクのカップを置くと、両手を伸ばしてジェラルドの胸へするりと収まった。
「みんな、幸せになってもらいたいです。このダヴィネスで…」
「そうだな…」
ジェラルドはカレンを柔らかく抱き締め、腹心の部下とも腐れ縁の友人とも言えるアイザックの幸せを祈ったのだった。




