50. 戦い(上)
その日は朝からダヴィネス城全体がざわついていた。
カレンは昨日の朝食を共にしてから、ジェラルドとは顔を合わせていない。
嫌な予感がした。
2週間ほど前、東の駐屯地が接する地域で怪しい動きがあったと聞いている。
それ以降、ダヴィネス城には緊張が走っていた。
カレンは努めて日常に徹する。
婚約者とはいえ、辺境伯の妻になる身だ。覚悟はしていた。
ジェラルドが辺境の地を治め切ってまだ数年、大きな戦いは無いにしろ、まだ完全に安心できる状況ではないことはわかっていた。
午後、ベアトリスの部屋でお茶を共にしている時、モリスが緊張を漂わせて部屋に来た。
「カレン様、ジェラルド様がお呼びです。至急執務室までお越しくださいませ」
…来た。
それを聞いたベアトリスも不安な顔になる。
「…すぐに参ります」
カレンはベアトリスの手を軽く握り、執務室へ向かった。
向かう廊下でも、騎士達が慌ただしく行き交う。
「失礼いたします」
執務室ではジェラルドどフリードが立ったまま話をしていた。
二人とも直ぐにでも出陣できそうな軍服姿だ。
執務室の奥では、壁に掲げられた地図を見ながら、軍の上層部の面々が物々しい雰囲気で話をしている。
アイザックとウォルターもいる。
「カレン、掛けて」
カレンを認めたジェラルドはソファを勧めた。
カレンが腰かけると、ジェラルドも向かいに座る。
カレンを見た口許に笑みはあるが、礼服ではない軍服のせいか幾分硬い雰囲気が漂う。
「急だが、今夜東へ行くことになった」
「…はい」
大きな紛争ではないが、短期で終わらせるためジェラルドが直接赴くとのこと。アイザック率いる騎士1個団と兵士を2個団の精鋭で赴くことなど、説明する。
すでに兵士を乗せた移動用の馬車は出立したとのことだ。
「交渉役としてモイエを伴う」
今の今までカレンは知らなかったが、ベアトリスの旦那様のモイエ伯爵は、軍の優秀な交渉人とのことだ。
「承知しました。ベアトリス様のことはお任せくださいませ。あと…レディ・パメラのことも」
傍らにいたフリードの方を見て言うと、フリードは会釈で返した。
ジェラルドはスッと息を吸い、真っ直ぐにカレンを見た。
「カレン、留守を頼んだ」
これは臣下への命令だ。
応えるように、カレンも真っ直ぐにジェラルドを見る。
「…はい、畏まりました」
ダヴィネス城の女主人として留守を守るのは、カレンの初の大仕事とも言える。
カレンは、気持ちを奮い立たせる。
しっかりしなくちゃ。
・
急ぎ、ベアトリスへモイエ伯爵の東への同行を知らせた。
「…わかりました」
さすがと言うべきか、ベアトリスは落ち着いて堂々としている。
やはりこの地に生まれ、ダヴィネス城で辺境伯の娘として育った覚悟か。カレンは感心する。
ベアトリスと生まれたばかりの赤子は城に居てくれるので安心だ。
パメラ宅へは明日にでも行くことにする。
カレンは自室に戻り、真夜中の出立まで時間を過ごす。
まったく落ち着かないが、カレンを心配したエマや他の侍女達が入れ替わり気遣ってくれるのでありがたい。
「私達には待つことしかできませんが…カレン様がお元気でお過ごしくださることが心の支えですので」
と、エマは夕食の準備をしてくれながら話す。
久しぶりの出陣で、不安なのは皆同じだった。
・
夜も更け、燃える暖炉の灯をじっと見つめ、カレンは出立の時をひたすらに待つ。
何かしていないと落ち着かない気持ちもあるが、何かで紛らわす気にもなれない。
と、モリスがジェラルド達の出立の時を知らせに来た。
カレンは早足で、城塞の大門へ向かう。
通常は閉ざされた門は、有事の時のみ開かれる。
心臓が早鐘を打って耳障りだ。
篝火で照らされた回廊を渡り、ガランとした厩舎を通りすぎて、一際大きく放たれた大門にはすでに大勢の…城の使用人達、留守を預かる騎士や兵士達…が集まっていた。
留守組のウォルター、ベアトリスもいる。
カレンは促されるまま、使用人達の先頭に立つ。
大門の外には、漆黒の軍人…ジェラルドその人とスヴァジル…スヴァジルは軍馬用の装備を着けている…が佇み、背後にはすでに騎乗した騎士団が控える。
フリード、アイザック、モイエ伯爵もそれぞれの馬に騎乗している。
馬達も興奮しているのだろう。蹄音や嘶きでザワザワしている。
ジェラルドは、鈍く光るツインハンデッドソードを携えていた。
「皆、ありがとう…留守を頼んだ…行ってくる!」
低く、力強い声でジェラルドが辺境伯閣下の言葉を放つ。
「無事のご帰還を…ご武運をお祈りいたします」
カレンは、女主人らしく送り出す。
礼を取ったが、指先がぶるぶる震えるのを抑えることができない。
ジェラルドに気づかれませんように…!
ジェラルドはカレンに素早く近寄り屈むと、額にキスを落とし、ゆっくりと離した。
「行ってくる」
しっかりと目を合わせた。
ジェラルドは立ち上がり、その場で傍らのツーハンデッドソードを高く掲げた。
カレンの背後と向かいの騎士達から、ウォーッと一斉に雄叫びが上がる。
ジェラルドはマントを翻し、スヴァジルに騎乗した。
「出立!!」
フリードの声と共に、一団が出発する。
篝火に照らされた一団は白い雪煙を起こし、次第に夜の闇へと溶けていった。
大門に集まっていた者達は、順々にそれぞれの持ち場へと帰る。
カレンは一団が消えた闇を、取り憑かれたように、ずっと見ていた。
「…お嬢様」
「カレン様、冷えますのでお戻りを…」
ニコルやエマ、モリスが気遣わしげにカレンへ話し掛ける。
「…そうね」
カレンは重い足取りで来た道を帰った。
・
「…姫様、気丈だったな」
「そうでなければ辺境伯夫人は務まりませんよ」
アイザックとフリードが馬を走らせながら話す。
暗闇の中、東へと進む一団。
速足で馬を走らせる。
…震えていたな…
ジェラルドは二人の会話を聞きながら、先ほどのカレンの様子を思い浮かべる。
いかなカレンも、荒事に接するのは初めてだ。
できれば心細い思いはさせたくはないが、辺境へ嫁ぐ以上、避けられないこともある。
ジェラルドは後ろ髪を引かれる思いを振り払い、今は己の成すべき事へと意識を向けた。
「急ぐぞ!」
「はっ」
東へと続く街道に、力強い馬蹄音のみが響いた。
・
「痛ッ!」
「お嬢様、大丈夫ですか?」
ニコルと一緒に刺繍を刺していたカレンは、謝って指に針を突き立ててしまう。
赤い血がぷっくりと膨らむ。
「…、うん、大丈夫よ」
カレンは指を咥える。
刺繍はさほど苦手ではないが、どうも集中力が続かない。
カレンは浅い眠りの日が続いていた。
ジェラルド達が出立してから1週間が経つ。
駐屯地での進捗は毎日早馬で知らせが来るので、ウォルター経由で様子がわかる。小康状態が続いているとのことだった。
カレンの元気がなければ皆が心配をするので、努めて明るく振る舞うようにしていた。
ただ、夜はやはりいろいろと考えてしまう。
ジェラルドのベッドに寝れば気が紛れるかと思ったが、大好きな香りと一緒にジェラルドの顔がちらつき逆効果だったので、以降は自室のベッドで寝ていた。
しかし、寝付きも悪くすぐに目が覚めてしまい、寝不足が続く。
ジェラルド不在時はカレンが領主代理となり、午前中は急ぎの決裁をする。
ウォルターや家令のアルバートと相談し、業務が滞らないようにしている。
目の前にやることがある時はいい。
問題はふとした時間の隙間だ。
領主の業務終わりから昼食までの少しの間
読書中のふとした時間
ベアトリスとお茶をしたあと…
特に夜。
無駄に長風呂をしてみるが、やはり心から休める時はなかった。
今日はパメラの邸へお茶をしがてら、様子伺いに行くことにしていた。
・
「カレンさん、ちゃんとお休みになられてる?」
開口一番に、カレンの顔を見てパメラが心配した。
そんなにひどい顔色だろうか…いやパメラだから気づいたのだろう。
カレンは苦笑いだ。
まあとにかくお座りになって、といつもの心地よい居間へ通される。
美味しいお菓子とお茶をいただき、張りつめたものが少しだけほぐれた気がした。
パメラは優しい笑顔でカレンの様子を見て、如才なくお代わりのお茶を注ぎ、お菓子を勧めてくれた。
安定期に入ったパメラのお腹は少しだけふっくらとして顔色もよく、その姿もカレンを安心させた。
カレンが夜あまり眠れないことを打ち明けると、ふうむ、と考え、私も若い頃そうだった、と続けた。
更に「あなたのことだから、使用人達にも心配をかけまいと頑張っているのでしょ?」と、事実を突いてくる。
「大丈夫よ、東は昔から小競り合いが絶えないの。大きなことにはならないわ。そのためにジェリーもフリードも行ったのだから」
さすがに経験者は語る、だとカレンは感心する。
それにしても…
パメラはため息を吐く。
「女はいつでも待つだけよね…役割が違うとはいえ、これだけはほんとに変わらないわ」
だからね、カレンさん、とパメラは淡褐色の瞳をくるりと輝かせた。
「気晴らしが必要なのよ」
「気晴らし…?」
そうそう、憂さ晴らしね、とさも面白そうだ。
かつて、ジェラルドの亡き母…前辺境伯夫人は、夜中ピアノをかき鳴らしたこともあるとか…。
「私の場合はあれ」
と、暖炉の前に散らばった欠片を指差す。
「ジグソーパズル…ですか?」
うんうんとパメラは頷く。
「これね、あの人が準備したの」
あの人、とはもちろんフリードのことだ。
「私、お酒が好きじゃない?でも今は飲めないでしょ?というか、隠されちゃったんだけど。そしたら、これでもやってろって」
…なるほど。しかしジグソーパズルは根気のいる作業だ。カレンはパメラとジグソーパズルが結び付かない。
そんなカレンを見て、パメラはクスクス笑う。
「私の場合ね、一旦完成させたらバラバラにしちゃうの。そういう憂さ晴らしなのよ」
と、さも楽しげだ。
…なるほど、壊すために作る…逆説的だが、案外スッキリするものなのかも知れない。それを見込んでジグソーパズルを準備したなら、フリードはよくパメラを知っていると言えた。
「あとはいつも通りね、恋愛小説を読んだり、手紙を書いたり…あ、手紙と言えばね、」
と、パメラはまたも面白そうに笑う。
パメラは驚くべきことをカレンに話した。
なんと、東の駐屯地のフリード卿へ、毎日手紙を「書かされている」と言うのだ。
「…毎日、ですか?」
「そう、毎日、変でしょ?」
…変というか、何を毎日書くのだろうか?
「毎日、食べた物を書いてるの。あと何をしたかとか」
でもこれね、私書きたくて書いてるんじゃないのよ、と美しい眉を寄せた。
聞けば、フリード卿からそうしろと言われ、フリード卿自ら書いた彼宛の封筒を数十枚も渡されたそうだ。
早馬は朝ダヴィネス城へ来て、少し経ってダヴィネス城から東へ別便が走る。
フリード卿はその東行きのルートが、パメラの邸を通るよう手配していると言うのだ。
カレンはあっけに取られたが、いかにも緻密で計画的なフリード卿らしいと思った。
やはりパメラのことが心配で堪らないのだ。
「私がいい加減なことを書いたら、あの人のことだから分析してすぐに手を回すのよ。それを思うと面倒だから、毎日渋々書いてるの」
渋々、と言う割には楽しそうだ。
それにしてもパメラの傾向と対策をよく踏まえている。さすがとしか言いようがない。
カレンは感心しきりだ。
と、パメラは唇に人差し指を充てて、カレンに聞く。
「ねえカレンさん、ジェリーに手紙はお書きになってるのよね?」
「……いえ……」
小さく答えた。
「え?」
カレンは苦し紛れにお茶をクイッと飲む。
カレンは、ジェラルドに手紙を書いてない。ただの1通も。
「それは…ジェリーに同情するわ、カレンさん…」
今度はパメラがあっけに取られた。
・
何でもいいから書け、戦地の男は愛する人からの手紙だけが唯一の安らぎと心の糧になるから…と、カレンはパメラに諭された。
なので、城に戻って早速机の前に座るが…何を書いていいのかわからなかった。
カレンは決して筆不精ではない。
しかし、カレンは今までジェラルドに手紙らしい手紙は書いたことがない。
何でもいいと言われても、武運を祈ると送り出した相手に、早く帰って欲しいとか、寂しいなどとはとても書けない。
おそらく、カレンの事を含めた城の様子については、ウォルターが如才なく報告の手紙を送っているだろう。
…他に何を…
そのまま30分ほど悩んだ。
しかしやはり、文言は浮かんではこなかった。




