42.【番外編】噂(下)
※「follow your heart」から「辺境の伊達男、もしくは悪魔」の間のお話です。
要するに、気にするなってことよね…
翌朝、ジェラルドのベッドで目覚めたカレンは例の“噂”について、夕べのジェラルドの態度から察して答えを出した。
夕べはコンサバトリーから毛皮のカバーに包まれて、そのままジェラルドに寝室まで運ばれた。
モリスもニコルも心得たもので、全く動じないのが返って恥ずかしかったが仕方ない。
ジェラルドはすでにおらず、窓から差す冬の朝日が眩しい。
…ふぅ
カレンは少しの気だるさとともにベッドから起き上がった。
・
1週間ほど経ち、カレンはまた城塞街へと足を運んでいた。
妊娠中のベアトリスへのお見舞いのあと、街をブラブラと散策する。
確か新しい雑貨店ができたと聞いた。新年のカードが欲しいと思っていたので、ちょうどいい。
「レディ、お早めに」
夕暮れが近い。飲み屋街に程近い雑貨店へ入る前に、護衛のネイサンに諭された。
「わかったわ」
返すと、雑貨店に入る。
「いらっしゃいませ」
若い女性の店主が愛想よく迎えてくれた。
スッキリとした明るい雰囲気の店内だ。カレンは早速カードを置いてある棚へ行き物色する。
…ストラトフォードの家と隣国のお姉様、アリーと王女殿下にも…と何枚か手早く選ぶ。
「…なんでも城中の騎士を侍らせているそうよ」
「んまあ!なんて淫らな…!」
…?!
隣で手袋を物色している、年若の令嬢達のお喋りが耳に入ってきた。
「…それが、○○で…○○して…」
「え?!やだほんとに?」
…若い令嬢にしてはかなりどぎつい内容で、こちらが恥ずかしくなる。
でもまさかそれって…
カレンはカードを物色する手をわざとゆっくりにして、耳を傾ける。
「やっぱり王都から来られた方は違うわよね」
「侯爵令嬢ですもの、結婚前でもそんなことは朝飯前なのよ、きっと」
うふふふ、と頬を赤らめながら意地悪くほくそ笑む。
…やっぱり。
カレンは忘れかけていた嫌な気持ちが、胸のあたりにジワリと甦るのを感じる。
「あの、お客様そろそろ店仕舞いなんですが…」
店主に声を掛けられ、カレンはハッとした。
噂好きのご令嬢達はもういない。
「あ、ああごめんなさい、ええと、これを頂くわ」
カードの勘定を終えると、ぼうっとして店を出る。
ドスンッ!
と、店を出たとたん、何かにぶつかられた。
手にしていたカードがバラバラと下に落ちる。
カレンはとっさにしゃがむ。
「!! レディ!」
ネイサンが慌てて駆けつける。
「っと!気をつけな、ねーちゃん!」
労働者風情の大柄な男が、荒っぽく言葉を放って路地の先の居酒屋へ向かう。
「…レディ、お怪我は?」
ネイサンはカードを拾いながら、カレンを気遣う。
「…大丈夫よ、ネイサン」
さ、早く帰りましょう。と促すネイサンだが、カレンはしゃがんだまま立ち上がろうとしない。
「…レディ?」
ネイサンはカレンの様子を伺うように自らもしゃがむ。
「!」
カレンの瞳から、ポロリと涙がこぼれる。
「レ、レディ、やはりお怪我を?!」
ネイサンの慌てぶりがひどい。
カレンは素早く涙を拭った。
心配を掛けてはいけない。
「…いえ、大丈夫よ、なんでもないわネイサン、帰りましょう」
やっとのことで気を持ち直し、立ち上がったその時、またもやカレンの耳に信じられない声が入ってきた。
「腰抜け閣下に乾杯だー!!」
…なんですって?
カレンは声の方へ顔を向けた。
さっきぶつかってきた男が入った居酒屋だ。
店の外まで机や椅子が置いてある。繁盛しているのだろう。
「…レディ、お気になさらず。さ、馬車へ……レディ?!」
カレンはネイサンの言葉を無視して、声のした路地の居酒屋へと歩いて行く。
酔っぱらいの戯言とわかっていても、雑貨店でのこともあってカレンの我慢は限界がきていた。
100歩譲って自分のことはいい。
だが、ジェラルドを腰抜け呼ばわりするのは、冗談にしても程がある。
カレンは怒りに燃えて、居酒屋へと進む。
「レディ、いけません!あなたが行かれるような所では!!」
悪いがネイサンは無視した。
{ 黒猫亭 }
古びた木製の看板のかかる居酒屋は、まだ宵の口というのに席はほぼ満席だった。
入口でぐるりと見回す。
と、いちだんと盛り上がっているテーブルがある。
腰抜けじゃなく骨抜き閣下だったかー?などと、さらに追い討ちを掛け、乾杯を重ねていた。
見れば、先ほどカレンにぶつかってきた労働者風情の大男だった。
カレンが入口に立つと、あまりな場違い感に一瞬ざわめきが静まったが、またすぐに各々のざわめきへ戻った。
他人のことより、己の楽しみに忙しいといった感じだ。
そこまでガラの悪い店ではないのかも知れない。
「いらっしゃいレディ、お一人ですか?」
と、10歳くらいだろうか、男の子が話し掛けてきた。御用聞きか手伝いか…子どもの違法労働は禁止されているので、正当に扱われていて欲しい。
「…いえ、えーと」
「いや違う、レディダメです。お戻りください」
なおもネイサンが焦って遮った。
カレンはある考えが閃く。
「…ええそう。二人なの。席はある?」
と、ネイサンの腕を取る。
とたんにネイサンは「終わった…」という顔で、絶望感を顕にした。
「はい!お二人さんでーす!…どうぞ!」
男の子はものすごく愛想よく席へ案内してくれた。
運良く、労働者風情男の席に近いテーブルへと案内された。
男達はチラリとカレンを見て上から下まで視線を走らせたが、騎士姿のネイサンを見てまた視線を戻した。
「何になさいますか?」
ええと、こういう所では…
「エールを、2つ…」
ネイサンが注文してくれた。
絶望感に襲われていたが、どうやら観念して頭を切り換えてくれたようだ。
「一杯だけです」
と、不満げに漏らす。
カレンはこういった店の存在は知ってはいたが、実際に入るのは初めてだった。
存外に居心地は悪くない。
客層は様々で、繁盛しているのだと伺わせる。
もしかしてネイサンは、自分が一緒でこの店ならば…とギリギリの判断をしたのかも知れない。
心の中で申し訳なく詫びる。
ほどなくエール大ジョッキ×2が運ばれた。
カレンが興味深げに口を付けたのを確認して、ネイサンも一口ゴクリと飲んだ。
…悪くない。
苦味と爽やかさが喉を通る。
「ここは味はいいんですよ。酒の混ぜ物もあまりなくて」
カレンの表情を見たネイサンが教えてくれる。
「騎士様の仕事も上がったりだよなー」
ふいに労働者風情男が声を上げた。
すでに出来上がりつつある。
「…だってよー、戦がねーんじゃやることねーじゃん?こんなとこでべっぴんと油売るのが関の山ってか!」
アッハッハと笑う。
明らかにカレン達への言葉だ。
同じテーブルの労働者風情男以外の男達は、騎士のネイサンが怖いのか、遠慮がちに笑っている。
カレンはネイサンの顔を見ると、全く同じずエールをグビリと飲んでいる。
はぁなるほど、たぶんこの手合いには慣れてるんだわ。さすがね。
カレンは半ば感心しつつ、またエールを一口飲んだ。
「しかし、騎士様はまだしも閣下にはがっかりよ」
「!」
来た。
「俺達の“鬼神”様が、いまや王都から来た悪女に骨抜き…情けねーったらねーよ」
「骨抜き?」
「すんげーらしいぜ」
「眠らせねーんだとよ、閣下を」
「ウヒウヒ」
ドンッ!!
と、エールのジョッキを木机に激しく置いたのはネイサンだった。
顔が青ざめている。
男達はギョッとしてこちらを見る。
しかしネイサンは真正面を向いたまま、何も言わない。
男達はそれをいいことに、下世話な話を続ける。
「まあな、閣下もダヴィネスの男だ。今に王都のアバズレにも飽きて、こっちのご令嬢と一緒になるさ」
労働者風情男はハハハっと言うと、エールのジョッキを空にした。
…アバズレ…
ここまでの言われようとは…。カレンはもう呆れてしまい開いた口が塞がらない。
でも…
と、考える。
やっぱり皆ジェラルドへの親愛の念が強いのね。
自分を引き合いに出されるのは癪にさわるけど…
と、半ば無理やり自分を納得させ掛けたところで、目の前のネイサンがゆらりと立ち上がった。
その顔はさっきよりも青ざめ、なんとこめかみに青筋を立てている。
あの人のいいネイサンが。
「ネイサン?」
まずい。左手が鞘を持っている。
こんなところで騒ぎを起こすわけには…
「な、なんだよ、抜くのかよ。やる気か?」
労働者風情男は多少焦りを見せるが、酒が回ってきたせいか気が大きくなっている。
いくらなんでも騎士には勝てない。
「やめてネイサン」
カレンは制するが、ネイサンは柄に手を掛けようとする。
「ネイサン!!」
…声が大きかった。
ネイサンとともに、店中の客がカレンに注目してしまった。
カレンは両手で口を押さえる。
と、またもや店にはガヤガヤとした喧騒がもどる。
「…レディ、申し訳ありません」
我に帰ったネイサンが着席し、カレンに小声で謝る。
カレンは首を横に振った。
元はと言えば、カレンがこの店に入ったことが発端なのだ。ネイサンは何も悪くない。
出よう、潮時だわ。
席を立ち掛けた。
「…おんや、逃げんの?やっぱ閣下が腰抜けなら、騎士もそーなっちまうのかな、」
バンッ!!
今度はカレンが激しく手を木机に打ち付けた。
「…なんですって?」
「あ?」
「あなた、お酒が入ってるとは言え不敬にも程があるわよ」
「なんだと?」
「閣下や騎士が居てこそのダヴィネスよ、わかってるでしょう?腰抜けなのはどちらかしらね」
「んだとぉ???」
男はいきり立ち、立ち上がる。
カレンと対面する形だ。
カレンはもはや止まらなくなっていた。
ネイサンの「レディ!」という声も耳に入らない。
いつの間にか、店中がカレンと労働者風情男に注目している。
「ねーちゃん、かわいい顔して言ってくれるじゃねーかよ」
男は下卑た笑いでカレンを舐め回すように見る。
ネイサンが割って入ろうと立ち上がるが、手でそれを制した。
「私は本当のことを言ってるだけよ」
怒りで燃えているが、頭は恐ろしいほどに冷静なのがわかる。
「ッ!ふざけるなよ!…女になにがわかるってんだ、俺は腰抜けじゃねえ!」
「そう」
「痛い目みてーのかよ、ねーちゃん」
「いいえ、じゃあ腰抜けじゃないってこと、どうやって証明できるの?」
「あんたといっ「勝負する?」」
「! お、おう、やってやろーじゃねーかよ」
ネイサンは目の前が真っ暗になった。
・
カレンと男は、向かい合わせに座った。
目の前には1列…20個はあろうか…に並んだショットグラスが、それぞれ並んでいる。
勝負は居酒屋らしく、どちらかが潰れるまで飲む、というものになった。
今{ 黒猫亭 }では、二人の勝負に全員が注目している。
カレンはお酒に強い、という自負がある。でないとこのような勝負は端からしない。シャンパンやワインで「酔った」と感じたことはないし、無論酔い潰れたこともない。いつもただ、少し気分が解れる程度だ。兄にも「もしかしてザルか?」とからかわれたことがある。
ただ、限界は自分でもわからない。
なんせ潰れるまでは飲んだことはないのだ。
でも、男のように剣が振るえるわけでも腕っぷしが強いわけでもなく、対等に勝負できるのはこの方法しか思い付かなかった。
労働者風情男は最初この勝負方法に難色を示したが、勝っても負けても費用はカレンが持つ、と言うと、ほいほいと乗ってきた。
店主が琥珀色の液体をグラスに注いでいく。
「で、何を賭ける?」
男はニヤニヤ顔だ。
「…」
カレンは峻巡し、
「そうね、私が勝ったら…あなたが思うダヴィネスの好きな所、素晴らしいと思うことを毎日話して」
「へ?」
男は意味がわからない、と言った顔だ。
「閣下の悪口ではなく、ダヴィネスのいい所よ。この居酒屋ででもいいし、広場でも構わないわ。来れない時はご家族やお友達に」
…おぅ、わかった。と、多少勢いを失くして答えた。
「んで、俺が勝ったら?」
男は口の端を持ち上げてニヤリと笑う。
「なんでも言うことを聞くわ」
男は大きく頷いて、いいだろう、と答えた。
勝負が始まった。
・
「坊主」
カレンに強く制され、遂に勝負を止めることができなかったネイサンは、手でコイコイと店の御用聞きの少年を呼んだ。
「はい」
「お前に頼みたいことがある」
「? はい何でしょう」
少年は店をくるりと見回し、自分の仕事は無さそうだと確認した。なかなか聡そうな子供だ。
今は皆、勝負に釘付けだった。
「そこの先の騎士の詰所まで行って、このことを話すんだ。城に繋ぎを取れと伝えてくれ」
そう言うとネイサンは懐から銀貨を1枚取り出し、さっと少年の手に持たせた。
「はい!お任せください!」
言うが早いか、少年はそっと店を出た。
間に合ってくださいよ、ジェラルド様...!
ネイサンは祈る気持ちで勝負を見守った。
・
ショットグラスを5杯、10杯と重ねた。
かなりのハイペースだ。
居酒屋のギャラリーは今や店の外にも溢れ、男だいやご令嬢だと、賭けが始まりそうな勢いだ。
カレンはまだいける。
1杯目を口にした時、混ぜ物の少なさに「これは勝てるかも知れない」と思った。
逆にあまりにも混ぜ物が多いと、舌が受け付けない可能性もあった。
恐らく、相手の男は普段からエール一辺倒だろう。アルコール度数の高いお酒は飲み慣れていない可能性が高い。まして、混ぜ物の少ないスピリッツは値も張る。そうそう飲めるものではない。
カレンは男の反応をじっと観察した。
12杯目を越えたあたりから、ふうふうと息が荒くなってきた。顔も赤い。ペースも落ちてきている。
対してカレンは、鼓動が速くなるのを感じた。幾分頭はぼうっとするが、許容範囲内だ。
まだいける。
・
「なんだと?!」
ジェラルドの顔が一気に青ざめた。
ダヴィネス城では、ディナーの前にも関わらずカレンが帰城しないことで大騒ぎになった。
ネイサンはおろか、街からの報告は何もない。
事故か?
ジェラルドは会議中にも関わらず、すぐに護衛を伴って城塞街へ向かうことにする。
スヴァジルに騎乗し、城門を出た所で、城塞街詰めの騎士が全速力で馬を飛ばして来る姿を認めた。
ジェラルド達に遭遇すると下馬した騎士は、汗だくで顔色がない。
「報告しろ!!」
フリードがダビデに騎乗したまま命令する。
その報告内容に、ジェラルド以下一同は眩暈を覚えた。
「やべーな、姫様…」
アイザックも呆然としている。
「…とにかく急ぐ」
ジェラルドは読めない表情のまま告げると、スヴァジルの鐙に力を込めた。
力強い数馬の蹄音が、城塞町への道に響いた。
・
…なんだろう、この感覚は初めてかも知れない…
カレンは指先の冷たさを感じる。
相手の男は爆発しそうな赤い顔で、すでに目の焦点が合っていない。恐らく許容量は越えているはずだ。
でも強い。
19杯目。
カレンは一気に頬ばると、ゆっくりと喉へ流す。
焼け付くような濃い液体が粘度を伴って喉を下る。
次は20杯目。
男は覚束ない手でグラスに手を掛けた。震える手で、ゆっくりと口許へグラスを近づける。…かと思いきや、グラスの中身の琥珀色の液体が弧を描き、そのまま後ろへと大きな音を立てて倒れた。
おおー!!!と店中が歓声に包まれる。
男は白目を向いて倒れたままで、仲間の男達が近寄っている。
しかし、カレンはまだ勝ったとは言えない。
目の前の1杯を飲み干すまでは。
冷たい指で、最後のショットグラスを持つ。
店の歓声は、膜を覆ったようにカレンには遠く聞こえる。
そこへ、店の歓声とは別のどよめきが起こる。
「領主様?」「え?」「ジェラルド閣下?」「まさか…」
即座に入口付近の者は道を開ける。
ジェラルドを先頭に、フリード、アイザックと、ダヴィネス軍の精鋭達が入ってきた。
突然の英雄の登場に、店は上を下への大騒ぎだ。
「ジェラルド様、申し訳ございません!!」
ジェラルドを認めたネイサンの顔色はないが、ジェラルドの登場に心底安堵の色を浮かべた。
「あとだ。カレンは?」
「勝ってます」
そうではない。
あちらに…とネイサンが指差す方を見ると、全く場違いな…いつものように美しい姿勢で、粗末な椅子に腰掛けている。
目の前の机には、おびただしい数の空のショットグラスが並んでいる。
ジェラルドは深いため息を吐くと、カレンに近づいた。
護衛達は、今や野次馬と化した客をさばくのが忙しい。
「カレン」
カレンの横に立ち、肩に手を置くと膝を付いてしゃがみ、顔を覗く。
顔色は…青い。
肩に置いた手から、体温が下がっているのを感じる。
…これはよくない。
「カレン?聞こえる?」
返事はしない。
頭痛がするのか、左手をこめかみに充てた姿勢で肘を付き、右手はショットグラスを持っている。
右手の指先が、細かく震えている。
「…これを飲まないと」
勝ったとは言えない。
「…カレン」
ジェラルドは賭けの内容を聞いた時、カレンらしいと思った。
いつでもジェラルドとダヴィネスを思うカレンだ。しかしこのやり方では身が持たない。当たり前だが、民一人一人と勝負するわけにはいかないのだ。
市井の噂を聞き流せないところも、やはり身を呈してしまうところも、全てがカレンらしい。
ジェラルドはカレンを見守る。
カレンはゆっくりとショットグラスを口許へ運ぶ。
一気に呷ることができず、半量を口に含むのがやっとだ。その半量を無理やり飲み込む。
「これであなたの勝ちだな」
そう言うと、ジェラルドはカレンの手からショットグラスを取り上げ、自ら残りの半量を飲み下した。
「店主、これでカレンの勝ちだな」
突然の英雄からの振られように、店主は飛び上がりそうになるが「はい!確かに!」と、さも嬉しそうに答えた。
「負けたヤツに約束を守らせろ」
と鋭く店主に告げた。
店主は震え上がる。
「よくやった、カレン」
ジェラルドはカレンの額に軽く口付けた。
…やはり冷たい。急がねば。
「カレン?」
目を閉じたまはま反応はない。
見守るフリードに二言三言告げ、カレンの膝裏に手を差し込むと横抱きにし、カレンが来た時の馬車へと乗り込んだ。
「急げ」
御者に告げ、ダヴィネス城へと戻った。
・
頭が割れそう…ではない。すでに割れているのではないだろうか。
翌日、猛烈な二日酔いでカレンは目覚めた。
あまり覚えていないが、とにかく勝ったらしい。
そして帰ってから大量の水を飲まされた。
もう飲めないと言うのに、ジェラルドが許してくれなかった。
ジェラルドの必死な顔から、初めてアルコールの許容量を越えたんだと自覚し、泣きながら水を飲んだ。
お陰で生きているが、死にそうな気分には変わりはなかった。
・
カレンとジェラルドが去った後の{ 黒猫亭 }では、残った客すべての酒代はダヴィネス城の奢りとなった。
ひっくり返ったままの敗戦相手の治療費も渡し、「世話になった」とフリード達が引き上げる時、店主が聞いてきた。
「…あの、あのお方が閣下の婚約者様で?」
フリードは、ああそうだ、と答えた。
「我らダヴィネスのことを一番に思ってくださっている。得難いお人だ。会えて幸運だったな」
そう続けると颯爽と去った。
店主はポカーンとしている。
一方ネイサンは少年に、
「お前のお陰だ。ありがとな」
と言い頭を撫でると、こちらも風のように去った。
少年は騎士達の後ろ姿をいつまでも見ていた。
・
翌日の夜、ようやく頭痛が収まったカレンは、チキンスープをベッドで飲んでいた。
ニコルは次に飲む薬湯を手に待ち構えている。
「わかってるわ、ニコル」
スープを飲み終えると、息を止めて薬湯を一気に飲み干す。
昨日から飲んでばかりだわ…
「ふう」
と一息ついた所に、ジェラルドがガウン姿で現れた。
「薬は飲んだ?」
と、ニコルの手の薬湯のカップをチェックする。
「はい」
ジェラルドはよし、と言いカレンのベッドへ腰掛ける。
ニコルは無言で立ち去る。
「ジェラルド様」「カレン」
同時だ。
笑い合う。
「どうぞ、ジェラルド様」
「…まずは、今回のことでネイサンに咎はない」
よかった。
カレンはそれが一番気になっていた。
「あとは…」
ジェラルドの手がカレンの細い顎をつまむ。
「反省しなさい」
「…はい。申し訳ありません」
ジェラルドがカレンを叱るのは珍しい。しかし、その手は優しくカレンの頬を撫で、深緑の瞳は包み込むように見つめる。
カレンは素直に反省する。
今回は本当に危ない綱渡りだった。その自覚はある。
結局は“噂”に踊らされたのだ。
ジェラルドは向かい合う形でカレンを胸に抱き締める。
「…あなたの話は?」
ジェラルドが聞いてくれる。
「私、ジェラルド様が事実と異なることをアレコレ言われるのは、どうしても我慢ができなくて…しかも私のせいで…」
事の成り行きは、ネイサンからの報告で聞いている。
カレンの性格では聞き逃せないのもわかる。
…しかし
「カレン、城塞街へ行けば嫌でも噂は耳に入る。これは仕方のないことだ。民の営みに噂は付き物だし…ある意味、平和だからと言える」
「平和?」
カレンは上を見上げて、ジェラルドと目を合わせた。
そう。と、ジェラルドは抱き締めたまま、胸の中のカレンの髪を撫でる。
「食べるものがあり、眠る場所がある。適当な娯楽や…酒を飲む場所もある。戦があれば、たちどころに失くなるもの達だ。不安が心を覆う。…そうだな、今は心に“噂”をする余裕があるんだ」
「よくない噂でも?」
「確かに戦時中でも噂はある。ただ、今は平和という名の下の噂だな、それで民が幸せであるなら、それでいい」
…辺境伯閣下的な言葉だ。
カレンはわかるような、わからないような、曖昧な顔をした。
ジェラルドはカレンの額にキスを落とした。
「ありがとう、カレン。あなたの心意気や勇気には感服しかない。でも、」
ジェラルドはカレンの頬を両手で包むと、上を向かせた。
「あなたは私の愛する人なんだ。それを忘れないで。無茶はしないでほしい」
…はい。
カレンは口を塞がれた。
「でも」
「ん?」
「私これからは、ウワバミのアバズレって言われるかも…」
「…カレン」
ジェラルドは呆れる。
…わかってます。自分で撒いた種です。気にしません。
しかし、城塞街では飲み比べ騒動以降、カレンやジェラルドの噂は急激に減ったのだった。
百聞は一見に如かずで、騒動の{ 黒猫亭 }に居合わせた者達のせいか、はたまた新たな別の噂にかき消されたのか…
“噂”は音もなく広がり、消え去って行く。




