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辺境の瞳~カレンとジェラルド~  作者: 鵜居川みさこ
第二章
42/75

42.【番外編】噂(下)

※「follow your heart」から「辺境の伊達男、もしくは悪魔」の間のお話です。

 要するに、気にするなってことよね…


 翌朝、ジェラルドのベッドで目覚めたカレンは例の“噂”について、夕べのジェラルドの態度から察して答えを出した。


 夕べはコンサバトリーから毛皮のカバーに包まれて、そのままジェラルドに寝室まで運ばれた。

 モリスもニコルも心得たもので、全く動じないのが返って恥ずかしかったが仕方ない。


 ジェラルドはすでにおらず、窓から差す冬の朝日が眩しい。


 …ふぅ


 カレンは少しの気だるさとともにベッドから起き上がった。


 ・


 1週間ほど経ち、カレンはまた城塞街へと足を運んでいた。

 妊娠中のベアトリスへのお見舞いのあと、街をブラブラと散策する。


 確か新しい雑貨店ができたと聞いた。新年のカードが欲しいと思っていたので、ちょうどいい。


「レディ、お早めに」

 夕暮れが近い。飲み屋街に程近い雑貨店へ入る前に、護衛のネイサンに諭された。


「わかったわ」

 返すと、雑貨店に入る。


「いらっしゃいませ」

 若い女性の店主が愛想よく迎えてくれた。


 スッキリとした明るい雰囲気の店内だ。カレンは早速カードを置いてある棚へ行き物色する。


 …ストラトフォードの家と隣国のお姉様、アリーと王女殿下にも…と何枚か手早く選ぶ。


「…なんでも城中の騎士を侍らせているそうよ」

「んまあ!なんて淫らな…!」


 …?!


 隣で手袋を物色している、年若の令嬢達のお喋りが耳に入ってきた。


「…それが、○○で…○○して…」

「え?!やだほんとに?」


 …若い令嬢にしてはかなりどぎつい内容で、こちらが恥ずかしくなる。


 でもまさかそれって…


 カレンはカードを物色する手をわざとゆっくりにして、耳を傾ける。


「やっぱり王都から来られた方は違うわよね」

「侯爵令嬢ですもの、結婚前でもそんなことは朝飯前なのよ、きっと」

 うふふふ、と頬を赤らめながら意地悪くほくそ笑む。


 …やっぱり。


 カレンは忘れかけていた嫌な気持ちが、胸のあたりにジワリと甦るのを感じる。


「あの、お客様そろそろ店仕舞いなんですが…」


 店主に声を掛けられ、カレンはハッとした。

 噂好きのご令嬢達はもういない。


「あ、ああごめんなさい、ええと、これを頂くわ」

 カードの勘定を終えると、ぼうっとして店を出る。


 ドスンッ!


 と、店を出たとたん、何かにぶつかられた。


 手にしていたカードがバラバラと下に落ちる。

 カレンはとっさにしゃがむ。


「!! レディ!」

 ネイサンが慌てて駆けつける。


「っと!気をつけな、ねーちゃん!」

 労働者風情の大柄な男が、荒っぽく言葉を放って路地の先の居酒屋へ向かう。


「…レディ、お怪我は?」

 ネイサンはカードを拾いながら、カレンを気遣う。


「…大丈夫よ、ネイサン」


 さ、早く帰りましょう。と促すネイサンだが、カレンはしゃがんだまま立ち上がろうとしない。


「…レディ?」


 ネイサンはカレンの様子を伺うように自らもしゃがむ。


「!」


 カレンの瞳から、ポロリと涙がこぼれる。


「レ、レディ、やはりお怪我を?!」

 ネイサンの慌てぶりがひどい。


 カレンは素早く涙を拭った。

 心配を掛けてはいけない。

「…いえ、大丈夫よ、なんでもないわネイサン、帰りましょう」


 やっとのことで気を持ち直し、立ち上がったその時、またもやカレンの耳に信じられない声が入ってきた。


「腰抜け閣下に乾杯だー!!」


 …なんですって?


 カレンは声の方へ顔を向けた。


 さっきぶつかってきた男が入った居酒屋だ。

 店の外まで机や椅子が置いてある。繁盛しているのだろう。


「…レディ、お気になさらず。さ、馬車へ……レディ?!」


 カレンはネイサンの言葉を無視して、声のした路地の居酒屋へと歩いて行く。


 酔っぱらいの戯言とわかっていても、雑貨店でのこともあってカレンの我慢は限界がきていた。


 100歩譲って自分のことはいい。

 だが、ジェラルドを腰抜け呼ばわりするのは、冗談にしても程がある。


 カレンは怒りに燃えて、居酒屋へと進む。


「レディ、いけません!あなたが行かれるような所では!!」


 悪いがネイサンは無視した。


 { 黒猫亭 }

 古びた木製の看板のかかる居酒屋は、まだ宵の口というのに席はほぼ満席だった。


 入口でぐるりと見回す。

 と、いちだんと盛り上がっているテーブルがある。

 腰抜けじゃなく骨抜き閣下だったかー?などと、さらに追い討ちを掛け、乾杯を重ねていた。

 見れば、先ほどカレンにぶつかってきた労働者風情の大男だった。


 カレンが入口に立つと、あまりな場違い感に一瞬ざわめきが静まったが、またすぐに各々のざわめきへ戻った。

 他人のことより、己の楽しみに忙しいといった感じだ。


 そこまでガラの悪い店ではないのかも知れない。


「いらっしゃいレディ、お一人ですか?」

 と、10歳くらいだろうか、男の子が話し掛けてきた。御用聞きか手伝いか…子どもの違法労働は禁止されているので、正当に扱われていて欲しい。


「…いえ、えーと」

「いや違う、レディダメです。お戻りください」

 なおもネイサンが焦って遮った。


 カレンはある考えが閃く。


「…ええそう。二人なの。席はある?」

 と、ネイサンの腕を取る。


 とたんにネイサンは「終わった…」という顔で、絶望感を顕にした。


「はい!お二人さんでーす!…どうぞ!」

 男の子はものすごく愛想よく席へ案内してくれた。


 運良く、労働者風情男の席に近いテーブルへと案内された。


 男達はチラリとカレンを見て上から下まで視線を走らせたが、騎士姿のネイサンを見てまた視線を戻した。


「何になさいますか?」


 ええと、こういう所では…

「エールを、2つ…」

 ネイサンが注文してくれた。


 絶望感に襲われていたが、どうやら観念して頭を切り換えてくれたようだ。

「一杯だけです」

 と、不満げに漏らす。


 カレンはこういった店の存在は知ってはいたが、実際に入るのは初めてだった。

 存外に居心地は悪くない。

 客層は様々で、繁盛しているのだと伺わせる。


 もしかしてネイサンは、自分が一緒でこの店ならば…とギリギリの判断をしたのかも知れない。

 心の中で申し訳なく詫びる。


 ほどなくエール大ジョッキ×2が運ばれた。


 カレンが興味深げに口を付けたのを確認して、ネイサンも一口ゴクリと飲んだ。


 …悪くない。

 苦味と爽やかさが喉を通る。


「ここは味はいいんですよ。酒の混ぜ物もあまりなくて」

 カレンの表情を見たネイサンが教えてくれる。


「騎士様の仕事も上がったりだよなー」


 ふいに労働者風情男が声を上げた。

 すでに出来上がりつつある。


「…だってよー、戦がねーんじゃやることねーじゃん?こんなとこでべっぴんと油売るのが関の山ってか!」

 アッハッハと笑う。


 明らかにカレン達への言葉だ。


 同じテーブルの労働者風情男以外の男達は、騎士のネイサンが怖いのか、遠慮がちに笑っている。


 カレンはネイサンの顔を見ると、全く同じずエールをグビリと飲んでいる。


 はぁなるほど、たぶんこの手合いには慣れてるんだわ。さすがね。

 カレンは半ば感心しつつ、またエールを一口飲んだ。


「しかし、騎士様はまだしも閣下にはがっかりよ」


「!」

 来た。


「俺達の“鬼神”様が、いまや王都から来た悪女に骨抜き…情けねーったらねーよ」


「骨抜き?」

「すんげーらしいぜ」

「眠らせねーんだとよ、閣下を」

「ウヒウヒ」


 ドンッ!!

 と、エールのジョッキを木机に激しく置いたのはネイサンだった。

 顔が青ざめている。


 男達はギョッとしてこちらを見る。


 しかしネイサンは真正面を向いたまま、何も言わない。


 男達はそれをいいことに、下世話な話を続ける。

「まあな、閣下もダヴィネスの男だ。今に王都のアバズレにも飽きて、こっちのご令嬢と一緒になるさ」


 労働者風情男はハハハっと言うと、エールのジョッキを空にした。


 …アバズレ…

 ここまでの言われようとは…。カレンはもう呆れてしまい開いた口が塞がらない。


 でも…

 と、考える。


 やっぱり皆ジェラルドへの親愛の念が強いのね。

 自分を引き合いに出されるのは癪にさわるけど…


 と、半ば無理やり自分を納得させ掛けたところで、目の前のネイサンがゆらりと立ち上がった。


 その顔はさっきよりも青ざめ、なんとこめかみに青筋を立てている。

 あの人のいいネイサンが。


「ネイサン?」


 まずい。左手が鞘を持っている。

 こんなところで騒ぎを起こすわけには…


「な、なんだよ、抜くのかよ。やる気か?」

 労働者風情男は多少焦りを見せるが、酒が回ってきたせいか気が大きくなっている。

 いくらなんでも騎士には勝てない。


「やめてネイサン」

 カレンは制するが、ネイサンは柄に手を掛けようとする。


「ネイサン!!」


 …声が大きかった。


 ネイサンとともに、店中の客がカレンに注目してしまった。


 カレンは両手で口を押さえる。


 と、またもや店にはガヤガヤとした喧騒がもどる。


「…レディ、申し訳ありません」

 我に帰ったネイサンが着席し、カレンに小声で謝る。


 カレンは首を横に振った。

 元はと言えば、カレンがこの店に入ったことが発端なのだ。ネイサンは何も悪くない。


 出よう、潮時だわ。

 席を立ち掛けた。


「…おんや、逃げんの?やっぱ閣下が腰抜けなら、騎士もそーなっちまうのかな、」


 バンッ!!


 今度はカレンが激しく手を木机に打ち付けた。


「…なんですって?」


「あ?」


「あなた、お酒が入ってるとは言え不敬にも程があるわよ」


「なんだと?」


「閣下や騎士が居てこそのダヴィネスよ、わかってるでしょう?腰抜けなのはどちらかしらね」


「んだとぉ???」

 男はいきり立ち、立ち上がる。

 カレンと対面する形だ。


 カレンはもはや止まらなくなっていた。


 ネイサンの「レディ!」という声も耳に入らない。


 いつの間にか、店中がカレンと労働者風情男に注目している。


「ねーちゃん、かわいい顔して言ってくれるじゃねーかよ」


 男は下卑た笑いでカレンを舐め回すように見る。


 ネイサンが割って入ろうと立ち上がるが、手でそれを制した。


「私は本当のことを言ってるだけよ」

 怒りで燃えているが、頭は恐ろしいほどに冷静なのがわかる。


「ッ!ふざけるなよ!…女になにがわかるってんだ、俺は腰抜けじゃねえ!」

「そう」

「痛い目みてーのかよ、ねーちゃん」

「いいえ、じゃあ腰抜けじゃないってこと、どうやって証明できるの?」

「あんたといっ「勝負する?」」

「! お、おう、やってやろーじゃねーかよ」


 ネイサンは目の前が真っ暗になった。


 ・


 カレンと男は、向かい合わせに座った。


 目の前には1列…20個はあろうか…に並んだショットグラスが、それぞれ並んでいる。


 勝負は居酒屋らしく、どちらかが潰れるまで飲む、というものになった。


 今{ 黒猫亭 }では、二人の勝負に全員が注目している。


 カレンはお酒に強い、という自負がある。でないとこのような勝負は端からしない。シャンパンやワインで「酔った」と感じたことはないし、無論酔い潰れたこともない。いつもただ、少し気分が解れる程度だ。兄にも「もしかしてザルか?」とからかわれたことがある。


 ただ、限界は自分でもわからない。

 なんせ潰れるまでは飲んだことはないのだ。


 でも、男のように剣が振るえるわけでも腕っぷしが強いわけでもなく、対等に勝負できるのはこの方法しか思い付かなかった。


 労働者風情男は最初この勝負方法に難色を示したが、勝っても負けても費用はカレンが持つ、と言うと、ほいほいと乗ってきた。


 店主が琥珀色の液体をグラスに注いでいく。


「で、何を賭ける?」

 男はニヤニヤ顔だ。


「…」

 カレンは峻巡し、

「そうね、私が勝ったら…あなたが思うダヴィネスの好きな所、素晴らしいと思うことを毎日話して」


「へ?」

 男は意味がわからない、と言った顔だ。


「閣下の悪口ではなく、ダヴィネスのいい所よ。この居酒屋ででもいいし、広場でも構わないわ。来れない時はご家族やお友達に」


 …おぅ、わかった。と、多少勢いを失くして答えた。


「んで、俺が勝ったら?」

 男は口の端を持ち上げてニヤリと笑う。


「なんでも言うことを聞くわ」


 男は大きく頷いて、いいだろう、と答えた。


 勝負が始まった。


 ・


「坊主」

 カレンに強く制され、遂に勝負を止めることができなかったネイサンは、手でコイコイと店の御用聞きの少年を呼んだ。


「はい」

「お前に頼みたいことがある」

「? はい何でしょう」

 少年は店をくるりと見回し、自分の仕事は無さそうだと確認した。なかなか聡そうな子供だ。


 今は皆、勝負に釘付けだった。


「そこの先の騎士の詰所まで行って、このことを話すんだ。城に繋ぎを取れと伝えてくれ」

 そう言うとネイサンは懐から銀貨を1枚取り出し、さっと少年の手に持たせた。


「はい!お任せください!」

 言うが早いか、少年はそっと店を出た。


 間に合ってくださいよ、ジェラルド様...!


 ネイサンは祈る気持ちで勝負を見守った。


 ・


 ショットグラスを5杯、10杯と重ねた。


 かなりのハイペースだ。


 居酒屋のギャラリーは今や店の外にも溢れ、男だいやご令嬢だと、賭けが始まりそうな勢いだ。


 カレンはまだいける。

 1杯目を口にした時、混ぜ物の少なさに「これは勝てるかも知れない」と思った。


 逆にあまりにも混ぜ物が多いと、舌が受け付けない可能性もあった。


 恐らく、相手の男は普段からエール一辺倒だろう。アルコール度数の高いお酒は飲み慣れていない可能性が高い。まして、混ぜ物の少ないスピリッツは値も張る。そうそう飲めるものではない。


 カレンは男の反応をじっと観察した。


 12杯目を越えたあたりから、ふうふうと息が荒くなってきた。顔も赤い。ペースも落ちてきている。


 対してカレンは、鼓動が速くなるのを感じた。幾分頭はぼうっとするが、許容範囲内だ。


 まだいける。


 ・


「なんだと?!」

 ジェラルドの顔が一気に青ざめた。


 ダヴィネス城では、ディナーの前にも関わらずカレンが帰城しないことで大騒ぎになった。


 ネイサンはおろか、街からの報告は何もない。

 事故か?


 ジェラルドは会議中にも関わらず、すぐに護衛を伴って城塞街へ向かうことにする。


 スヴァジルに騎乗し、城門を出た所で、城塞街詰めの騎士が全速力で馬を飛ばして来る姿を認めた。

 ジェラルド達に遭遇すると下馬した騎士は、汗だくで顔色がない。


「報告しろ!!」

 フリードがダビデに騎乗したまま命令する。


 その報告内容に、ジェラルド以下一同は眩暈を覚えた。


「やべーな、姫様…」

 アイザックも呆然としている。


「…とにかく急ぐ」

 ジェラルドは読めない表情のまま告げると、スヴァジルの鐙に力を込めた。


 力強い数馬の蹄音が、城塞町への道に響いた。


 ・


 …なんだろう、この感覚は初めてかも知れない…


 カレンは指先の冷たさを感じる。

 相手の男は爆発しそうな赤い顔で、すでに目の焦点が合っていない。恐らく許容量は越えているはずだ。

 でも強い。


 19杯目。


 カレンは一気に頬ばると、ゆっくりと喉へ流す。

 焼け付くような濃い液体が粘度を伴って喉を下る。


 次は20杯目。


 男は覚束ない手でグラスに手を掛けた。震える手で、ゆっくりと口許へグラスを近づける。…かと思いきや、グラスの中身の琥珀色の液体が弧を描き、そのまま後ろへと大きな音を立てて倒れた。


 おおー!!!と店中が歓声に包まれる。


 男は白目を向いて倒れたままで、仲間の男達が近寄っている。


 しかし、カレンはまだ勝ったとは言えない。


 目の前の1杯を飲み干すまでは。


 冷たい指で、最後のショットグラスを持つ。


 店の歓声は、膜を覆ったようにカレンには遠く聞こえる。

 そこへ、店の歓声とは別のどよめきが起こる。


「領主様?」「え?」「ジェラルド閣下?」「まさか…」


 即座に入口付近の者は道を開ける。


 ジェラルドを先頭に、フリード、アイザックと、ダヴィネス軍の精鋭達が入ってきた。

 突然の英雄の登場に、店は上を下への大騒ぎだ。


「ジェラルド様、申し訳ございません!!」

 ジェラルドを認めたネイサンの顔色はないが、ジェラルドの登場に心底安堵の色を浮かべた。


「あとだ。カレンは?」

「勝ってます」


 そうではない。


 あちらに…とネイサンが指差す方を見ると、全く場違いな…いつものように美しい姿勢で、粗末な椅子に腰掛けている。

 目の前の机には、おびただしい数の空のショットグラスが並んでいる。


 ジェラルドは深いため息を吐くと、カレンに近づいた。


 護衛達は、今や野次馬と化した客をさばくのが忙しい。


「カレン」

 カレンの横に立ち、肩に手を置くと膝を付いてしゃがみ、顔を覗く。


 顔色は…青い。

 肩に置いた手から、体温が下がっているのを感じる。

 …これはよくない。


「カレン?聞こえる?」


 返事はしない。


 頭痛がするのか、左手をこめかみに充てた姿勢で肘を付き、右手はショットグラスを持っている。

 右手の指先が、細かく震えている。


「…これを飲まないと」


 勝ったとは言えない。


「…カレン」

 ジェラルドは賭けの内容を聞いた時、カレンらしいと思った。

 いつでもジェラルドとダヴィネスを思うカレンだ。しかしこのやり方では身が持たない。当たり前だが、民一人一人と勝負するわけにはいかないのだ。

 市井の噂を聞き流せないところも、やはり身を呈してしまうところも、全てがカレンらしい。


 ジェラルドはカレンを見守る。


 カレンはゆっくりとショットグラスを口許へ運ぶ。

 一気に呷ることができず、半量を口に含むのがやっとだ。その半量を無理やり飲み込む。


「これであなたの勝ちだな」

 そう言うと、ジェラルドはカレンの手からショットグラスを取り上げ、自ら残りの半量を飲み下した。


「店主、これでカレンの勝ちだな」


 突然の英雄からの振られように、店主は飛び上がりそうになるが「はい!確かに!」と、さも嬉しそうに答えた。


「負けたヤツに約束を守らせろ」

 と鋭く店主に告げた。

 店主は震え上がる。


「よくやった、カレン」

 ジェラルドはカレンの額に軽く口付けた。

 …やはり冷たい。急がねば。


「カレン?」

 目を閉じたまはま反応はない。


 見守るフリードに二言三言告げ、カレンの膝裏に手を差し込むと横抱きにし、カレンが来た時の馬車へと乗り込んだ。


「急げ」

 御者に告げ、ダヴィネス城へと戻った。


 ・


 頭が割れそう…ではない。すでに割れているのではないだろうか。


 翌日、猛烈な二日酔いでカレンは目覚めた。


 あまり覚えていないが、とにかく勝ったらしい。


 そして帰ってから大量の水を飲まされた。

 もう飲めないと言うのに、ジェラルドが許してくれなかった。


 ジェラルドの必死な顔から、初めてアルコールの許容量を越えたんだと自覚し、泣きながら水を飲んだ。


 お陰で生きているが、死にそうな気分には変わりはなかった。


 ・


 カレンとジェラルドが去った後の{ 黒猫亭 }では、残った客すべての酒代はダヴィネス城の奢りとなった。

 ひっくり返ったままの敗戦相手の治療費も渡し、「世話になった」とフリード達が引き上げる時、店主が聞いてきた。


「…あの、あのお方が閣下の婚約者様で?」


 フリードは、ああそうだ、と答えた。


「我らダヴィネスのことを一番に思ってくださっている。得難いお人だ。会えて幸運だったな」

 そう続けると颯爽と去った。

 店主はポカーンとしている。


 一方ネイサンは少年に、

「お前のお陰だ。ありがとな」

 と言い頭を撫でると、こちらも風のように去った。


 少年は騎士達の後ろ姿をいつまでも見ていた。


 ・


 翌日の夜、ようやく頭痛が収まったカレンは、チキンスープをベッドで飲んでいた。


 ニコルは次に飲む薬湯を手に待ち構えている。


「わかってるわ、ニコル」

 スープを飲み終えると、息を止めて薬湯を一気に飲み干す。


 昨日から飲んでばかりだわ…


「ふう」

 と一息ついた所に、ジェラルドがガウン姿で現れた。


「薬は飲んだ?」

 と、ニコルの手の薬湯のカップをチェックする。


「はい」


 ジェラルドはよし、と言いカレンのベッドへ腰掛ける。


 ニコルは無言で立ち去る。


「ジェラルド様」「カレン」

 同時だ。

 笑い合う。


「どうぞ、ジェラルド様」


「…まずは、今回のことでネイサンに咎はない」


 よかった。

 カレンはそれが一番気になっていた。


「あとは…」

 ジェラルドの手がカレンの細い顎をつまむ。


「反省しなさい」


「…はい。申し訳ありません」


 ジェラルドがカレンを叱るのは珍しい。しかし、その手は優しくカレンの頬を撫で、深緑の瞳は包み込むように見つめる。


 カレンは素直に反省する。

 今回は本当に危ない綱渡りだった。その自覚はある。

 結局は“噂”に踊らされたのだ。


 ジェラルドは向かい合う形でカレンを胸に抱き締める。


「…あなたの話は?」

 ジェラルドが聞いてくれる。


「私、ジェラルド様が事実と異なることをアレコレ言われるのは、どうしても我慢ができなくて…しかも私のせいで…」


 事の成り行きは、ネイサンからの報告で聞いている。


 カレンの性格では聞き逃せないのもわかる。

 …しかし


「カレン、城塞街へ行けば嫌でも噂は耳に入る。これは仕方のないことだ。民の営みに噂は付き物だし…ある意味、平和だからと言える」


「平和?」

 カレンは上を見上げて、ジェラルドと目を合わせた。


 そう。と、ジェラルドは抱き締めたまま、胸の中のカレンの髪を撫でる。


「食べるものがあり、眠る場所がある。適当な娯楽や…酒を飲む場所もある。戦があれば、たちどころに失くなるもの達だ。不安が心を覆う。…そうだな、今は心に“噂”をする余裕があるんだ」


「よくない噂でも?」


「確かに戦時中でも噂はある。ただ、今は平和という名の下の噂だな、それで民が幸せであるなら、それでいい」


 …辺境伯閣下的な言葉だ。

 カレンはわかるような、わからないような、曖昧な顔をした。


 ジェラルドはカレンの額にキスを落とした。

「ありがとう、カレン。あなたの心意気や勇気には感服しかない。でも、」


 ジェラルドはカレンの頬を両手で包むと、上を向かせた。


「あなたは私の愛する人なんだ。それを忘れないで。無茶はしないでほしい」


 …はい。


 カレンは口を塞がれた。


「でも」

「ん?」

「私これからは、ウワバミのアバズレって言われるかも…」

「…カレン」

 ジェラルドは呆れる。


 …わかってます。自分で撒いた種です。気にしません。


 しかし、城塞街では飲み比べ騒動以降、カレンやジェラルドの噂は急激に減ったのだった。


 百聞は一見に如かずで、騒動の{ 黒猫亭 }に居合わせた者達のせいか、はたまた新たな別の噂にかき消されたのか…


 “噂”は音もなく広がり、消え去って行く。

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