38. 夢のあとさき
カレンは、パメラの眠る枕元に居た。
パメラの顔色はまだ良くない。
儚げな姿に、胸が締め付けられる。
額に乗せてある湿らせた布を新しいものに替え、そっと置くと、パメラの瞼がうっすらと開いた。
「…」
「…パメラ様、そのまま…まだお眠りください」
カレンは囁くように話しかける。
淡褐色の瞳にいつもの輝きはなく、虚ろだ。
「…バレちゃったわね…」
フリードのことか、妊娠のことか…恐らく両方。
瞬きをしないパメラの瞳から、枕の方へ、つーっと涙が流れる。
「パメラ様、お泣きになるとお体に障ります…」
「…ッ、旦那様に、申し訳が立たないわ…」
パメラは上掛けから両手を出し、顔を覆った。
!!
カレンは掛ける言葉を失う。
パメラの胸中は計り知れない。
ジェラルドの亡き叔父への思い、フリードへの思い、そして…新しく宿った新しい命への思い…
その思いは、すべて愛だ。
カレンも泣いていた。
でも…
「…パメラ様、私は何も申し上げることはできません。でも、これだけは…」
ー 心のままに ー
いつか、カレンに言ってくれた言葉だ。
この言葉がなければ、カレンはジェラルドへと踏み出せなかった。
「…!…」
パメラはハッとして、カレンを見上げた。
涙は止めどなく流れている。
カレンは無言で頷くと、「さ、お休みください」と言い、手元から取り出したハンカチで優しくパメラの涙を拭うと上掛けにパメラの両手をしまった。
パメラはされるがままで、そのまま、また瞼を閉じた。
少し経つと、規則正しい寝息を立て始めた。
控えていたエマの「お後は私が…」という言葉に甘えて、パメラの寝顔を見守りつつ、そっと部屋を出た。
…なんて切ないんだろう
「…お嬢様…」
ニコルと護衛のハーパーが扉の外にいた。
出てくるなり扉の外に立ち尽くし、人目を憚らず涙を流すカレンを、ニコルは心配そうに見る。
私にできることは、何もない
今は
「お願い、ひとりにして」
流れる涙をそのままに、カレンはその場を離れた。
目の端に、追いかけようとするハーパーの腕を押さえるニコルが入った。
じっとはしていられなかった。
今はジェラルドにも甘えられない、いや甘えたくない。
言い様のないやるせなさがカレンを襲う。
階段を下り、廊下を何度も曲がり、どこをどう歩いたか…
広いダヴィネス城の、ここは…
ここに来たばかりの時に探索した、大ホールの前に居た。
巨大な両開きの扉が目の前にある。
カレンの手には余るほどの大きい取手を持ち、力を込めて引いてみる。
…ギィという古い木が軋む音で、扉が開いた。
足を踏み入れる。
コツコツ…と乾いた靴音が響く。
以前来た時は陽光の差す昼間だったので、白の総大理石の空間は目映いばかりだったが、今は、ただ寒寒としただだっ広い場所に感じる。
ただ、ホール全体が白亜であることと窓からの雪明かりで、視界はぼんやりと明るい。
カレンは歩みを進め、ホールの真ん中辺りに立つ。
今日はとてもいい1日だった。
ジェラルドから素晴らしい贈り物をもらい、無事晩餐会を終えた。
ゲストにも喜んでもらえ、数日の準備が報われジェラルドからの賛辞ももらった。
文句無しの日だ。
それなのに…
パメラの涙が辛すぎた。
思いが強いほど、身動きが取れない。
愛すれば愛するほど、何も手に入らない。
ジェラルドへの愛を知った今、パメラの思いの縁がひどくカレンへと突き刺さる。
カレンはゆっくりと、再び靴音を鳴らして歩く。
単調で規則的な靴音がホールに響く。
灯りもなく、装飾もない。
冷たい大理石は、まるで時を見据えたかように、シン…と沈んでいる。
動いていないと自分だけ朽ちていくような感覚に囚われる。
カレンは立ち止まり、その場にしゃがむとそのまま仰向けに寝転んだ。
…それもいいかも知れない。
目を閉じた。
素肌の肩に、大理石の床が冷たい。
やがて、私は私の役目を終えてこの世を去る。
人の営みも思いも、時がきれいに流す。
すべてサラサラと砂になって、何事もなかったかのように…
取り留めもなく現実を遠ざけるように思考は空転する。
入口の扉付近に気配を感じる。
「…ニコルお願い、ひとりにして…」
カレンは仰向けで目を閉じたまま声を掛ける。
カツカツ…という硬い革靴の音がする。
護衛くんのハーパーが職務をこなさんとしているか…
と、靴音はカレンの近くで止まった。
すぐ横に気配を感じる。
?
「ここに寝転んだのは初めてだ」
目を開けて横を見ると、ジェラルドという名の現実がカレンと同じように仰向けに寝転んでいる。
天井まで大理石だな…と、しみじみとしている。
夜会服のままだが、蝶ネクタイはなく胸元のシャツは緩められ、はだけている。
カレンは黙って顔を天井に戻す。
もう離れられないこの人とも、いつか別れがくる
カレンの目から、つ…と涙が一筋溢れる。
「カレン」
カレンは、ジェラルドとは逆方向へころりと一回転した。
さすがに硬い床の上だと、治ったばかりの肩が痛い。
着けてもらったネックレスが、首元でシャラリと音を立てる。
ジェラルドに触れれば安心することはわかっていた。でも今はこの虚無感に身を任せたかった。
ジェラルドは無理に距離を詰めてはこない。
「…カレン、そのままで聞いて」
・
少し前、ジェラルドの執務室。
ジェラルドは自身の肘掛け椅子に座り、フリードはソファに座っている。
「それで結婚は申し込んだのか、パメラに」
ジェラルドは単刀直入にフリードに聞く。
侍医の診察で妊娠は明らかになった。
パメラにも確認したうえで、3カ月という診断だった。
フリードも初耳、もちろんジェラルドもその場で知った。
「…申し込みはしてますよ、何度も」
しかし絶対に首を縦に振らない、とフリードは沈痛な面持ちで答えた。
ジェラルドは何も言わず、執務机でサラサラとペンを走らせる。
「…前に、お前は年上の友人からの言葉だと、私に説教したな」
ジェラルドは顔を上げ、フリードを見る。
「…はい」
「あの時の言葉をそっくり返す」
言いながら、サインをした手元の書類を丸めてフリードに渡す。
フリードは幾分ぼうっとした様子で書類を受け取る。
「向こう1ヶ月仕事を休め。あとは副官のウォルターに任せろ。…これはその辞令だ」
フリードはハッとして丸めた書類を広げた。
「相手はあのパメラだ。腰を据えてかかれ」
そもそもお前は働き過ぎなんだ、と続け、肘掛け椅子に戻る。
「…ジェラルド」
フリードはジェラルドを見る。
「パメラには孤独でいて欲しくない…これは甥からの願いでもある…頼んだぞ」
フリードは沈黙のあと、
「…はっ、承りました」
引き締まったいつもの顔で答えた。
・
白亜の大ホールに、2つの体がポツンと横たわっている。
ジェラルドは上を向いたまま、執務室でのことをかいつまんで話した。
いつのまにかカレンの方へ横向きになり、手で頭を支えている。
「あいつもあれ程の男だ。必ずパメラを手に入れる…もう後には引けない」
カレンの目からは止めどなく涙が流れ、大理石の床に水溜まりができそうだった。
ジェラルドはゴロゴロとカレンの方へ転がり、ぴったりと体を沿わせる位置に来た。
上半身を起こし、片手でカレンの頬を包む。
「カレン、そんなに心を痛めないで」
そのまま覆い被さって、カレンの顔中に羽のようなキスを落とす。
薄明かりの中、深緑の瞳が説得力を持ってカレンを現実へと引き戻す。
ひとつキスを落とされる毎に、さっきまでの虚無感が泡沫となり消えていく。
先のことは、カレンにも、誰にもわかりようはない。
だが、パメラにとってのフリードが、確かな現実への道へと繋がることを願って止まない。
あの素敵な笑顔が早く戻りますように…




