35. 12月の晩餐会(上)
季節は年末へと向かう。
ダヴィネス城では、年末には毎年近しい者だけで領主主催の晩餐会を催しており、今年も予定に組まれていた。
カレンも聞いてはいたがランドールのこともあり、準備は進んでいなかった。
晩餐会まであまり日にちがない。
カレンは婚約者だが、女主人の役割が求められる。モリスやエマに相談しながら準備は超特急で進められた。
内輪とはいえ、ダヴィネス領主主催、しかも婚約者として采配を任され失敗は許されない。
やっとまともにペンが握れるようになり、晩餐会までには三角巾も取れると侍医からお墨付きをもらっている。
招待状を送るにあたり、ジェラルドに相談をする。
カレンにはひとつ提案があった。
「アーヴィング伯爵?」
ジェラルドに問われ、カレンは大きく頷いた。
ジェラルドの寝室。
ジェラルドは今日の夕食は兵舎で兵士とともに取り、親睦を深めてきたところだ。
領主として、また辺境伯としての仕事は多岐に亘る。だが今日のような仕事は、仕事というよりジェラルドがしたいからしている、という印象だ。
入浴を済ませ、モリスが準備した寝着に袖を通しながらカレンと話している。
カレンは先に自室で入浴を済ませ、ナイトドレス姿で招待状のチェックをジェラルドの寝室でしていた。
ジェラルドの寝室はカレンの回復に伴って元通りの“寝室”で、今は執務室は兼ねていない。
カレンはソファに腰掛け、ローテーブルに招待状を広げている。
ジェラルドはガウンを羽織り、モリスから渡されたナイトキャップを手に取るとカレンの隣に座った。
モリスは暖炉の火をチェックすると「お休みなさいませ」と言い、スマートに寝室を去った。
アーヴィング伯爵は、ジェラルドとカレンの計画する〈ランドール・デズリー結婚作戦〉の要の人物だ。具体的には年明けからの実行を予定していたが、カレンはできることならその布石を先んじて投じたかった。
確かに呼びたいところだが…とジェラルドは思案する。
「アーヴィング伯はここ数年、公に姿を現したことはない。隠遁と言っていいだろう。訪ねるのならまだしも…自ら出てくるとは考えづらい」
カレンはむむ…という顔をする。
しかし…とジェラルドは続ける。
「例の計画を進めるにあたっては…そうも言ってはいられないな」
言いながら、机の上の招待状の宛名を次々とチェックする。
「確か、パメラとは懇意にしているはずだ。叔父とアーヴィング伯令息は戦友だった」
そうか…戦没者を家族に持つ者同士の繋がりは深いだろう。
でも…
なんだろう、カレンには肌感覚としてわからない領域だし、何よりそこを利用するようなことはしたくない。
「伯爵にはパメラと共に来てもらえばいい」
「うーん…」
なおも思案するカレンを、ジェラルドは不思議そうに見る。
「何か気にかかる?」
グラスを傾ける。
「…関係性を利用しているようで…」
正直に口にしてみた。
ジェラルドはクスリと笑った。
「策略家のあなたの言葉とは思えない」
冗談めかす。
策略家…婚約者が策略家って、誉め言葉なの??
カレンは警戒した小動物のように、眉根を寄せてキッとジェラルドを睨む。
ジェラルドにとってはかわいらしいばかりの顔だが、どうやら深刻らしい。
「おいでカレン」
ジェラルドはグラスをテーブル置くと、カレンを膝の上に座らせた。
カレンはジェラルドの硬い腿の上に座り、肩に手を置く。
ジェラルドの片手がカレンの腰へ巻き付く。
「何を悩むのかはわからないが…」
と、カレンの頬をさも愛しそうに撫でる。
「ダヴィネスでは、家族を戦いで亡くした者は少なくない。これは事実だしダヴィネスの歴史そのものだ。しかし本意であれ不本意であれ、この現実と向き合わねば先へは進めない」
辺境伯閣下らしい言葉だ。もっともだった。
「目的のためならば、使えるものは使うべきだ」
それに…と、机の上のグラスを取って続ける。
「カレン、あなたが楽しまないとゲストも楽しめない。もちろん私も。もっと気楽に」
口の端で笑うと、グラスの酒を一口含んだ。
お見通しだった。カレンが気負っているのはバレていたらしい。
なんだか少し悔しくて、カレンはとっさにジェラルドに口付けて、まだ口内に残るお酒を吸い上げた。
「?!」
いかなジェラルドも、カレンの突然の行動に驚きを隠せない。大きく目を見開いたままだ。
「…美味しい…」
カレンはペロリと唇を舐める。
ジェラルドの中で温められたお酒はまろやかで強い。カレンはイケる口なので、鼻に抜ける馥郁とした薫りを楽しむ。
「…カレン」
いたずらにもほどがあるが、とっさの行動はなんともカレンらしい。ジェラルドはこの遊びが大いに気に入った。
「もっと?カレン」
聞くと、カレンは蠱惑的に瞳を輝かせ頷く。
ジェラルドはグラスの酒を口に含むと、うっとりとジェラルドの唇を見つめるカレンへ口付けた。
舌先で調整しながら、カレンの口内へ少しずつ酒を流し入れる。
互いの舌が強い酒と共に絡み、まるで媚薬を味わうような背徳感に酔いしれる。
「ん…」
と、飲み下しきれず、カレンの口角から一筋の液体が溢れた。
ジェラルドはカレンの声に反応し、素早くその一筋を舌で追う。
頬へ、顎へ、首筋へ…ジェラルドの動きは留まることを知らず、ほんの遊び心から、二人の睦み合いは濃さを増したのだった。
・
翌日、カレンは早速レディ・パメラに晩餐会の招待状とは別の手紙をしたためた。
パメラからはすぐに快諾の返事をもらい、胸を撫で下ろす。
急ぎアーヴィング伯爵へも、招待状と共にレディ・パメラがお迎えに上がる旨と、是非とも晩餐会へお越しいただきたいことを手紙で送った。
賽は投げられた。
あとは、伯爵次第だ。
もし伯爵が来なくても、それはそれで仕方ない。
カレンはジェラルドの言うとおり、晩餐会の準備を楽しむことにした。
メニューは料理長のオズワルドと相談しながら決める。
ディナーの席次はモリスに相談しながら決めたものを、ジェラルドにチェックしてもらう。
「…フリードとキングズレーを入れ換えて」
「?、はい」
カレンにはゲスト同士の個人的な関係はまだわかりかねるので、ジェラルドに従う。
これで席次は決まった。席次カードも書いた。
ゲストからの出欠の返事も次々と届いている。
…アーヴィング伯爵からは何の連絡もないけど…。
あとは…
着々と準備が進められる中、カレンにはひとつ気がかりなことがあった。
…弾けるかしら。
晩餐会の三日前から、ダヴィネス城では使用人総出で本格的に準備が進められた。
カレンの初めての采配による晩餐会なので、使用人達にも気合いが入る。
カレンにとってはありがたい限りだ。
晩餐会用のダイニングルームのセッティングや装飾はもちろん、応接室や撞球室など、ゲストが食事の前後に使用する部屋も怠りなく準備が進められる。
カレンは一部屋ずつチェックし、相談を受けながら随時指示していく。
今は、ピアノの置いてある娯楽室の会場準備が複数の侍従やメイドの手で設えられていた。
娯楽室では食事の後、食後の飲み物を手にゆったりと音楽を楽しんでもらう流れだ。
カレンはピアノと歌、ゲストのミス・グレイの歌の伴奏をすることになっている。
ミス・グレイは、最近王都からダヴィネスの伯母の元へ来たというご令嬢で、大変歌がお上手だと聞き、是非ご披露いただきたいとお願いしたのだ。
カレンのピアノと歌の実力は、教養として習得はしているが“人並みよりちょっと上”くらいという自覚がある。
姉のヘレナはいずれも見事な腕前だったが、カレンについては母も「得て不得手はあるから…」と少し諦め気味に言われていた。
ダヴィネス城のピアノはジェラルドの母が愛用していたという名工の手によるもので、「私が弾いてもいいの?」という遠慮はある。
しかし、自分の演奏はまだしも人様の伴奏は失敗したくない。ミス・グレイは、まだダヴィネスに来て間もないし、この晩餐会をきっかけに知り合いが増えれば、とも思っている。
しかし、カレンはダヴィネスへ来てからピアノは一度も弾いていないばかりか、この手だ。
バタバタと準備に追われたこともあり、ピアノの練習は後回しにしていた。
…どこまで弾けるかしら…
使用人達が椅子を並べ装飾を施す中、少し練習することにする。
飴色に輝く、よく手入れされたピアノの蓋を開け、椅子に座る。
今はほとんど形だけ着けている右腕の三角巾を外した。多少の強ばりはあるが、痛みはさほどない。いけそうだ。
手のひらも順調に治っている。右手のひらを何度かグーパーと動かす。
まずは簡単な曲から…と、練習曲を弾いてみた。思ったより指は動いてホッとするが、やはり所々指がもつれる。
次はもうちょっと難しい曲を…と挑戦する。
スタッフ達は、娯楽室に響く久しぶりのピアノの音色に、微笑ましく耳を傾けながら作業をする。
それにしても素晴らしく深い音色だわ…これはピアノに助けられるわね。
カレンは、己の腕前以前にピアノの音色に感嘆した。
深く、しっとりと、いつまでも聞いていたい音。
私の腕前ではおこがましいけど、いけるかも?
カレンは歌を乗せてみることにした。
それは、遥かな大地と抜ける空に切ない恋心を重ねた、よく知られた歌唱曲だった。
カレンが集中して練習していると、使用人達が、ひとり、またひとりと設置された椅子に腰掛け出した。それを咎める者はなく、ちょっとした演奏会の体だ。
・
「? 聞こえません?」
ジェラルドの執務室で、書き物をしていたフリードが、ふと顔を上げる。
「…確かに。ピアノか」
ジェラルドも読んでいた書類から顔を上げる。
今、ダヴィネス城でピアノを弾く者で心当たる人物は、1人しかいない。
「…少し覗いてくる」
ジェラルドは席を立った。
フリードは部屋から出るジェラルドを訳知り顔で「ごゆっくり」と見送り、また仕事に戻った。
・
カレンは、本当に久しぶりにしてはなかなかではないの?と、自分で自分を励ましつつ、次から次へと演奏した。
忘れたかと思っていたが、空で弾ける曲も多く、なかなか楽しい。
ミス・グレイも、これならご満足していただけるかしら…
ひとしきり弾いて、演奏を止めた。
少し腕がダルい。
ふぅと息を吐くと、パチパチと拍手が起きた。
?!
目を上げると、腰掛けたり立っている使用人達が笑顔で拍手をしている。
演奏に集中し過ぎて、全く周りを見ていなかったことに気づく。
そして、部屋の入口にジェラルドがいた。
笑いながら拍手をしてくれている。
カレンは恥ずかしさで顔が赤らむのを感じたが、ここはきちんとご挨拶、と思い、椅子から立ち上がると、ピアノの横で礼を取った。
使用人達は楽しそうに、ザワザワとまた各々の仕事に帰った。
カレンとジェラルドは、どちらともなしに歩み寄る。
「見事だった」
亡きお母様は素晴らしい弾き手だったと聞いている。お世辞とはわかっていても、嬉しい。
「…ありがとうございます。素晴らしいピアノのお陰で…なんとかなるかも知れません」
カレンは眉を下げる。
手は?大丈夫?肩は?
と言いながら、心配げにカレンの右手を裏返して確認する。
「はい、思ったより痛みはなくて…」
「くれぐれも無理はしないで欲しい」
と、カレンの額にキスをして執務室へ戻った。
さて、あとは…
晩餐会まであと少し。
カレンは気を引き締めた。




